Saturday, August 28, 2004

[東アジアの人たち] 台湾の陳さん

東アジアで出会った人と旅 は、多くの人たちとの出会いによって成り立ってきた。一緒に行動してくれた人たち、紹介していただいた人たち、偶然出会った人たち、短い旅を魅力的に過ごすことができたのは、そんな人たちとの出会いがあったから。

ここ二年間、台湾を魅力的な旅にしてくれたのは一人のお嬢さん。私の、こんなものを見たい、あんな人に会いたい、どこそこに行ってみたい、という勝手気ままな要望は、彼女によって実現することができた・・・

[写真] 台湾取材に協力してくれた陳さん、5月に英国留学に旅立った。右は竹棟梁の息子さん 彼と出会ったことで棟梁に会うことができました。後ろに見えている住宅は、竹の家で紹介した住宅の玄入り口部分。ここは台湾屈指の高級茶の茶どころ、このお宅でも茶を煎じていた。

しかし同時に、この二年間の台湾経済は、急速に停滞していった二年でもあり、勝手気ままな日本人とボランティア活動で人生を満喫する時勢ではなくなって いった。あれやこれやの紆余曲折、彼女は英国留学を選択する。きっと正しい判断でしょう。しかし、残された日本人は手足も頭脳の一部も失い、行動の自由を 奪われることにあいなったのです。

二年前、台湾でリゾートホテルの仕事をした際のチームのスタッフだった陳さん、愛嬌のある笑顔と仕事熱心さで、みなから信頼されていた。彼女、この会社の総経理が大学で教えている学生。大学院の修士論文を総経理のもとで作成し、そのままここで働くことになった。

その後、リゾートホテルの仕事が中断、チームのメンバーも一人二人と去り、私も日本に戻ってしまった。彼女は会社に留まり、プロジェクトの整理と再開に備 えていた。私との連絡窓口もこなし、インターネットメールという新しい形の連絡方法が有効性を発揮していた。わたしは、日本側の作業を終えては台湾で連絡 会議に参加、その都度彼女の協力を得ながら台湾の職人さん、残された日本人村を訪れてきました。

彼女の能力は幅広い人脈。私の希望を実現するにはどこから押していけばいいかを見抜く能力。気後れしない人との折衝。私の不思議な中国語を理解してくれた のも彼女の努力あってのこと。取材のテープを起こしてくれたのも彼女。ただ、工学系の教育のためか、要点はしっかり押さえてくれるのだが、行間が見事に省 かれてしまう。括弧付きの部分が紙の上から消えてしまい、味のある部分がわからない。台湾語での会話では特にそうだった。

竹大工の棟梁も、鹿港の宮大工のじっちゃんも彼女には目を細めていた。私や周りの人たちは「師匠」と呼びかけるのに、彼女は「おじいちゃん!」とささや く。大学の研究者たちも、彼女からの要望、「これこれの日本人があれこれの話を聞きたいといっています」を断ることはなかったようだ。

東海岸にある旧日本人村の営林署で「森坂シンポジウム」(chinese-big5)が開催できたのも彼女のおかげ。担当者に連絡を入れて不在でも、彼女の名前、「瑾儀から電話があったと伝えてください」で済ませていた。誰も彼も彼女を友人か娘代わりにしてしまう。

このようなキャラクターで彼女は取材に欠かせないパートナーとなった。しかし、世の道理でこんなうまい話はいつまでも続くわけはない。案の定、プロジェク トの長期中断で彼女は目標を別に置くことになった。外国への留学、合衆国にする予定は最終的にロンドン大学ITデザイン科を選択した。そして6月半ばの入 学式を前に、一ヶ月の家族旅行を過ごしに出かけた。彼女の成長を願うことにして、私は次の選択を探ることになった。  (Jun/23/01)

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