Tuesday, August 3, 2004

蒸し暑い台湾には日式住宅?

東アジアの国々を訪れていた10年前の台湾では、まだまだ多くの日本時代の住宅を台湾のいたるところで見ることが出来ました。恐らく、東アジアの国々の中で、これほど多くの木造日本式住宅が残されている国は他にありませんでした。

何故今でも多くの日本式住宅が台湾には残っているのか、若い頃に建設工事にかかわって日本式住宅の修繕にも携わってきた一人の建設会社の会長さんに、色々お話を聞く機会が出来ました。

この文章は、雑誌 SOLAR CAT no.36 「アジア涼感生活考」 取材の際にお話を伺ったのもの全文を掲載しています。 

・洪会長インタビュー 「台湾の日式住宅」

出席者:
洪 国隆 双隆建設会社理事長(●)
李 政憲 双隆建設会社社長
大行 征 (○)
日 時:1999年6月15日午後2時から
場 所:台北市双隆営造公司10階会議室
通 訳:李 政憲 氏
記 録:大行 征

○昨日、花蓮の董事長さんのお兄さんの御宅を御案内いただき有り難うございました。お住まいになっている日式住宅がきれいに使われていることに驚かされました。あれ程保存の程度がいい日式住宅は非常に稀少価値のあるものだと思います。

● あなた方が日式住宅に興味をもたれていることは知っていました。花蓮で御紹介したのは、特別に使われている一軒の日式住宅です。何故かというとここに住ん でいる二人の夫婦は、日本の教育を受けています。それに日本への留学もしています。そのために日式住宅の使い方、面倒の仕方はとてもいいものです。日式住 宅の見方も心得ています。

○董事長さんは若い頃に日式住宅の修理改装に携わったと聞いております。その時の経験からお話をしていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

●どういたしまして

台湾が光復(日本の敗戦、台湾での終戦)の後に、そのような機会がありました。私が知る範囲でお答えいたします。

○まず一つ目の質問ですが、もし台湾に日式住宅が作られたわけを御存じでしたらお教えいただけますでしょうか

● 私の知っている限りでは、日本が台湾を50年間に渡って統治したことにより、かなりの部分に台湾の文化と生活様式に影響しました。建築についていえば、光 復前までにかなりの量の日式住宅が作られました。台湾に住んだ日本の人たちは、ここでも日本と同じ住まいと住まい方を望んでいた様です。

台湾でも日本式の教育がなされ、日本式の文化・生活様式が浸透してきました。そんなこともあって、多くの台湾人が日本の建築を好きになりました。その理由の一つとして特に重要なことは、台湾人の公務員にも日式住宅が提供されたことでしょう。

私が理解しているのはこんなところです。

○では二番目ですが、日式住宅が多く作られるようになって、日式住宅も台湾の環境にあうように替わってきたでしょうか?材料、工法、使い方等も含めて日式住宅自体はかわってきたでしょうか?

● 台湾人が日式住宅に住んできた時期は二段階に分けることができます。一つは光復以前、台湾は日本に統治されていたわけですから、文化・生活様式は日本人と 同じ様でした。特に、日式住宅で生活していた人たちにとっては、日本人と全く同じでした。例として、昨日御覧になった花蓮の日式住宅と住み手の生活がその 良い例でしょう。

● もう一つは、教育を受けられなかった人、もしくは農民等。彼等は今までの習慣として、福建地方の民家、もともとの台湾の生活様式を築いていた人たち。彼等 と光復以降台湾に移り住んできたたくさんの中国人。彼等は住民を失った日式住宅の新しい住民になりました。彼等は台湾の状況に疎かったり、なおかつ多くの 移民が貧しくもありました。日本教育を受けていなかった彼等は、日本式の生活様式もよく理解できなかったこともあり、それが原因でたくさんの建物が壊され てしまいました。

● ここに一冊の本があります。この本は53年前にニュージーランドの技術者が書いた物です。この本の内容は二二八事件のことについて見たこと書いています が、そのなかで中国人と台湾建築物の破壊について触れられています。例えば窓など動かすことのできるもの、それらは持ち運び出されてしまいました。そんな こともあって、世の中が安定してきた時に、再び建物を使おうと思って残された骨組みの住宅を修理をしたわけですが、修理の仕方が間違っていたのでしょう、 もともとの日式住宅とは建物も使い方も違ってしまいました。

●この本の中に一部分を御紹介します。

●「・・・台湾に移り住んだ中国人のほとんどが国民党に編入されていて、日本に帰る時わずか100キログラムの荷物に制限されていた。主人の持ち物とわずかなお金とが許された。残りの財産は全て台湾に残された。・・・・・

「・・・日本人が日本に戻った時、もともと日本人が住んでいた家は空家のままで残されていた。空家の移動できる物は全てどこかに持ち運び出されていた。桶、水洗便器、水道メーター、窓やドアなどの金物、その他売り捌くことのできる物は全て、例えば床板、天井版・・・・・」

終戦直後の状況をこの本は描いていますので、詳しいことをお知りになりたければ読んでみて下さい。

○ 二番目の質問ですが、彼等が住んでいた日式住宅の住まい方についてお聞きします。特に、台湾という日本とくらべても高温多湿という気候の中に、日式住宅は 置かれたわけですが、はたしてそんな状況の中で日式住宅は耐えることができたのでしょうか。董事長さんの修理修繕の経験の中からお話いただけますか?

●基本的に、残された日式住宅は新政府の公務員、教員などの宿舎として使われました。

●台湾は日本とくらべて気温も高く、雨も多いわけです。しかし、台湾の高温多湿の中で、日式の住宅は台湾の気候風土に相応しい、木造で高床式て風通しがいい作り方ですから、亜熱帯の台湾にも相応しかったと思います。

日式住宅は台湾や東南アジア、それに中国南部の原住民の家と似ています。高床、大きな開口、木造、通風の良さは日式住宅と一致しています。

○では日式住宅の修繕の時に最も修理が必要だったところはどこでしたか?

●当然のように生活の仕方が違うわけです。一番改善したところは便所、厨房、浴室など水場です。なぜなら生活習慣が違うからです。

○ということは、改装によって中国人の生活様式にあった形に直したのでしょうか

●基本的には使い方が間違っていたのだと思います。

例えていえば、ほとんどの畳は板の間にかえられました。なおかつ木でできた部分、壁とか柱にはペンキが塗られました。もともとの日本住宅の使い方のフィロソフィーに反した改装がなされました。障子や襖は、通気性のある材料からない物へ、板戸とかえられています。

というわけで二つの問題がおこってきました。日式住宅を使用するには日本の本来の注意深い使い方が失われ、その結果、人の生活も不健康に、建物そのものも また不健康になってしまいました。使い方を間違ったことによって失われたことは本当に勿体無いことです。なぜそうしたのか、その理由は治安問題にあったの ではないかと思います。開放性は中国社会では防犯の役に立ちません。

●もう一つは、日式の住宅のほとんどが宿舎として使われていたわけですが、住み手が自ら建物の修理修繕をすることはなかったことです。その結果、建物の痛みが進んでしまいました。

○では畳、障子、襖がなくなったということは、台湾の気候にあわなかったということですか?台湾の生活に不健康だったということですか?

●畳、障子、襖は台湾では高価なのですよ。日式住宅を維持管理するにはお金がかかるんですよ、伝統式中国民家に比べて。

○わかりました。話をかえて、台湾の日式住宅はもともと誰が作ったのでしょうか。日本から大工を連れてきた作ったのか、もともと台湾に日式住宅の職人がいたのか

●その質問はなかなか興味深い物があります。

台湾にはとても優れた職人がいました。ほとんどの日式住宅はこれらの職人によって建てられた物でしょう。彼等は日本人によって教育され、よく訓練されてい ました。いまでも何人かの方を存じ上げておりますが、お年は80歳を過ぎているはずです。当時台湾の建設会社は多くあり、彼等優れた技能工もたくさんおり ました。

御存じですか?終戦直後の台湾の建設技術の水準は、アジアの中で最も高かったと思われます。品質官吏、技術、管理面でも日本本土なみの水準だったと思います。

○それらの職人達は日本人監督技術者によって教育され、技術が受け継がれてきたと思ってよろしいでしょうか。

●そういってもかまわないと思います。

なおかつ監督の多くは台湾の工業学校など優れた専門学校で学び、卒業した人たちが行っていました

○ということは、職人達は日式住宅の良いところ悪いところを十分理解できていたわけですね。

●そうです。非常に理解できていました。彼等の仕事に接する態度は、日本の職人と同じといっていいでしょう。私が初めて京都や奈良を訪れた時に見た建物でそれを感じました。

ひょっとしたら日本の技術より優れた能力を持った人もいたと思います。その理由は台湾の木材資源、特に檜が有名ですが、それらの資源を活用する必要があったからだと思います。

○私が20年前、初めて台湾にきた時、台北市内でたくさんの日式住宅を見ました。ところがその多くが人が住んでいなかったり、崩れそうになっていたのを見ました。

もし、それだけの技術を持った人たちがいたのに、なぜ朽ち果てようとしていたのでしょうか

●この問題の答えはこう言えると思います。

●第一の問題は、技能工がいても終戦後の台湾の生活は非常に貧しく、建物を修理する余裕はありませんでした。

第二の問題は、公務員等の宿舎が多かったこと、私人と違って国が修繕費などを出す余裕はやはりなかったのです。

なおかつ、貧困の時代を終えて経済が急速に成長した時、土地利用が問題となりました。日式住宅はとても住みやすかったのですが、土地を有効利用しているとはみなされませんでした。

○台湾の東部を訪れた時にも多くの日式住宅を見てきましたが、同じことが言えるでしょうか。

●そう言えます。

○ではもう一度花蓮の日式住宅についてお伺いします。

○花蓮の日式住宅の意義はなんでしょうか。

●やはり日本の教育、日本の文化と生活様式を保ってきている。また別の家に住む理由もないのでそのまま残している。

あの土地は花蓮の市内にあって、土地はほぼ300坪でしょう。建物に200坪使っていますが、今の台湾の都市計画の基準から算定すれば、だいたい2000坪の建物がたてられるはずです。そんななかで昔からの生活をしていることは経済的な負担も大きいはずです。

○ということは日式住宅というのは維持管理に手間ひまかかる、といういことはお金がかかる、合理的に土地利用を活用するには向いていないといえますね

●土地利用が十分でないことはその通りですが、建物の維持管理が大変だということとはまた別の問題です。実際、私の考えでは、この建物を維持管理することも生活の一部だと思っていることです。

○それではもう一つ伺いますが、伝統的中国の住居は日式住宅にくらべて維持管理が易しいということでしょうか。

● 私の見解では、日式住宅と中国伝統式住宅とを比較するのは難しいと思います。中国の伝統的建物、漢民族の建物でも金持ちが住んでいるような建物は維持費や 管理に要する手間は、日本の住宅よりもはるかに大変でしょう。しかし、一般の人間の住まいは、それほど手間ひまのかかることはないと思います。

○少しいじわるな質問をさせていただきます

先ほど来のお話で、日式住宅が台湾の気候風土に向いているといわれておりますが、それでもなおかつ台湾の方々が中国伝統形式の住宅に住まわれているのはなぜでしょうか。

●中国伝統形式の住宅というのは台湾に少ないのです。せいぜい宗教建築の廟とか田舎に見受けられる農家が伝統形式の建物にいえるかも知れません。

農村にそれらの建物が残ったのには二つの理由があります。

一つは田舎の土地が安い、それゆえに贅沢な建物を作ることができる。

もう一つは、農民は他の文化への影響が多くありません。そのために伝統形式の建物を使っている。だから今でも残され、使われているのです。私の目から見ると、中国伝統形式の住宅は、台湾に残された日式住宅よりとても少ないかも知れない。

○昨日お会いした時、面白いお話をしていただきました。台湾という国は、いろいろな国外の文化の影響を受けてきている。そういうことは建築の面や生活の面で台湾の人の考え方に大きく影響しているでしょうか。

●そのとおりです。台湾は他の国の文化、政治に大きく影響されてきました。生活習慣もそうです。ですから当然建築の面にもあらわれています。いろいろな建築形式への対応性もあります。

●その結果建築においても生活文化の面においても台湾独自のものがありません。そのことがいいことだったのか悪いことだったのかは分りません。

○それではこれからの台湾の建築の方向を探すことは難しいでしょうか。

●とても難しい、この提案はとても大きな問題だと思います。これは教育、政治、いろいろな問題に関わっています。短い時間でお話できることではありません。

○それでは最後の質問をさせていただきます。

私は花蓮にある森坂という村を時々訪れます。私にとって、森坂は小さい頃の夏の風景を思い出させてくれる場所です。日本の昔の建物があって、夏草が生い 茂っていて、蝉の声が聞こえて、簾があって西瓜が御盆に乗ってでてくれた生活を思い出させてくれる場所です。董事長にとって、そのような思い出の場所はあ るでしょうか、またあった場合にはそれはどのような光景だったでしょうか。

●思い出させる場所はたくさんありますが、今ではほとんど見当たりません。特に小さい時には日式の官舎に住んでいました。それは高度3000メートル付近の場所にありました。そんな高いところにも建物が立っていたことに今でも驚かされます。

● 森坂のほかにも日式住宅が建てられた場所が花蓮の豊田という移民村があります。それ以外にも、一単位300坪をもった移民村が計画されました。その背景に は、日本が台湾の東部に移民する計画があって、製糖会社、アルミ会社、水力発電所、鉄道、台湾の一番美味しい米などが花蓮周辺につくられ、多くの業務に日 本人が携わったわけで、かなり移民計画がすすめられたとえばトヨタなどがその例です。特にお米は美味しかったようで、天皇にも奉納されたそうです。

○ただ、森坂は時間を経るごとにその姿を失いつつあります。私にとっては故郷を失うような気持ちでいます。残念でなりません。

○今日はお忙しいところを時間を裂いていただき有り難うございました。

●どういたしまして、何か不十分なところはありませんでしたか。

○いえ満足しております。

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