まあすごいものでして、鶏と家鴨を捌いたあとの包丁と俎板、ご覧の通りの姿に相成ってしまいました。骨ごとバキバキしてしまう肉切り包丁とちがい、ベジタリアンが愛用する刃先ではか細い鶏さんの骨でもとうてい太刀打ちできませんでした。刃先と俎板をこれほどまでに痛めつけた少女を褒めるべきか、できの悪い包丁を責めるべきか、中国四千年のながーいながーい食いものの歴史を語るべきか。
料理は芸でありまして、それでは料理の先生は芸人かというと違う。日本でもこちら中国でも料理人は芸術家なのであります。ちなみに料理の先生を師匠と呼ぶのは当然なのです。我が社が保有する開店したばかりのホテルの料理の師匠は香港の人間、ふとっちょであります。至極愛想がいい。その割には味付けの方向が曖昧でありまして、どの料理も同じ。次から次へと出てくる料理に起承転結がない。これでは飽きられてしまう。はたしてどうなるのか、人ごとながら心配してしまいます。
それに反し我が秘書兼中国語教師兼義理の娘の料理ははっきりした味付けであります。簡単に言えば田舎料理の田舎味、野味があって豪快そのもの。少女がつくったものとは思えません。しかしここ中国では誰もが料理の先生なのであります。世の中いろいろです。だから面白い。廈門の旅もひとしお面白いのであります。
[ 写真: 鶏と家鴨を捌いた少女の腕は太いのです。でなければ刃先がこれほど痛めつけられるはずはありません。 ]
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