Friday, July 16, 2004

「多言語な風景」十年後記


初 めて訪れた東アジアが台湾、二十年以上前のこと。しばらくはひとつの国の中で数種類の言語がごく当たり前に使われていたことなど思いもよりませんでした。 ある程度中国語を使えるようになって、台湾の方に「アナタハワタシノイッテイルコトワカッテイマスカ?」といわれたのですが、当の本人は台湾語と標準語を 無意識にチャンポンで話されているのですから困ってしまいます・・・

第三回はそんな風景が見受けられた映画「悲情城市」から考えて見ます
[写真] 騎楼と呼ばれる連続店舗のアーケード/台北 photo:(C)Eiji KITADA

「悲情城市」のなかの上海人は映画の中では評判が悪かった。組織暴力団と地回りのやくざでは、勝ち目は最初から判っている。後ろ盾に軍がついている組織暴力ではどうしようもない。「悲情城市」公開までは、表だって228事件について語られることはなかった。

それ以降、台湾では台湾独立という話が現実味を帯びることになる。現総統選出の背景には、「悲情城市」があったのかもしれない。長年、中国大陸も台湾も 「一つの中国」を標榜してきて、今回の総統選で破れた国民党が掲げてきた「一つの中国」を、中国大陸が逆手に取って現総統を攻撃したのは皮肉なことだ。

台湾には、鄭成功以降に大陸から渡ってきた福建人(いわゆる台湾人)、遅れて渡ってきた客家人、そして日本の敗戦以降中国大陸各地方から外省人が入ってき た。元々の台湾人(高砂族、山地人などと呼ばれてきた)を含め、多くの言語が入り交じって使われてきた。必要に迫られ、彼らは他の言語を理解しなければな らなかった。今でこそ、義務教育の充実で標準語が普及しているが、ほんの一昔前までは、いたるところで「多言語な風景」にお目にかかったものだ。

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