Thursday, June 17, 2010

[East Asia photo inventory] 「深く青き夜」ー闇の中のソウル (韓国・ソウル)

ホームページを閉鎖することにしました。そこで古い記事、当時の東アジアの雰囲気を伝えた部分をこちらに掲載しておくことにします。

ソウルの屋台 photo:(C)Eiji KITADA

建築雑誌 "at" 連載 第9回
「深く青き夜」ー闇の中のソウル (韓国・ソウル)

文:大行 征
写真:北田 英治

「.........アメリカには住みたくない、でも生きていくために行かざるを得ないんです.........」。五年前のソウルの夜のことである。韓国系中国人の友人は、始めて自分自身の移民について話をしてくれた。韓国は東アジアの国々のうちで、アメリカ合衆国への移民が最も多いといわれている。もちろん日本人にも枠があるはずだが、いまどき移民しましたという話はついぞ聞いたことがない。移民という手段を必要としない日本で、この言葉の持つ意味を理解することはなかなか難しい。

彼女と知り合ったのは台北の中国語学校である。彼女はソウル中心街、明洞にある中華学校で中国人として教育を受ける。医者であった父親の病死によって、自らの仕事場を探すことになる。しかし韓国の中の中国人という異邦人の彼女が、ソウルで満足できる仕事を得るのは至難の業であった。仕方なく父親の国の中国・台湾に移り住むものの、そこでも彼女は韓国系中国人としてよそ者扱いされる。そんなある年、黄砂が朝鮮半島にとどき始めた春先、彼女は韓国へ里帰りする。そのときを利用して我々はソウルを訪れてみることにした。始めての韓国ということで、観光気分であちらこちらと歩き回り、南大門が国宝指定第一号であるとか、秘苑は農家を模した桂離宮みたいなものだとか、東大門市場は食い物が旨い、と結構楽しんでいた。

そしてその日の夜、仲間たちとしこたま飲んだ後の腹ごなしに入った道端の屋台で、我々は「移民」がすぐ身近な問題であることを教えられたのである。春先とはいえ、ソウルの夜には底冷えが残っていた。空気中の水蒸気すべてを日本海に運んでしまったかのように、町の光景は乾いている。太平路と南大門路の分岐点に建つ国宝南大門を浮き上がらせるサーチライトの光が、よけいにそれを強調している。風景が凍てついて見えたのはそのせいかもしれない。わずかに、表通りを外れた屋台の橙色のテントが、残された暖かさを保っているのみであった。

「深く青き夜」は韓国映画の題名である。ロサンゼルスで偽装結婚をくりかえす韓国女性と、合衆国に一攫千金の夢を求めてやってくる韓国男性との悲惨な結末を描いたものである。米兵との結婚ですぐに望みを失ってしまった女性が、永住権を手にするために偽装結婚の相手を捜している男の話を聞いて、最後の望みを託した彼に、「ここは、どこ」と尋ねる。彼は「天使の地、ロサンゼルス」というと、彼女はこう答える。「ここは砂漠、荒涼たる砂漠......」。国を捨て、夢を抱いてやってきた異国にも、結局は荒涼としたイメージしか残らなかったのであろうか。

その後、韓国系中国人の友人は、居心地の悪い台湾を捨ててアメリカへ向かった。米国で再婚した母親が市民権をとるにいたって、一家そろってロサンゼルスに出発した。多くのアジアの人々が、アメリカで永住権を得るのに不法行為までして必死になっていたが、彼女は母親の血の出るような苦労の末、自由と可能性のある国へ希望を持って出かけていった。
(連載第9回- "at" '91/1掲載)


「深く青き夜」ー闇の中のソウル 十年後記 2001年3月28日

この回の原稿を読み直してみて気がついたのは、十年の間でアメリカへ向かったアジアの人々の、国籍の変遷だ。ベトナム戦争に参戦した韓国の移民枠が大きくなっていたし、その前までは中国との対立から、台湾人のアメリカ留学と移民が始まっていた。その後、ベトナム戦争終結で、多くのベトナム人がアメリカに移り住むことになる。中国との国交成立の後からは、大量の中国人がアメリカに流入することになった。それでもアメリカ合衆国で労働許可証を得るのは未だにかなり難しいようだ。

アメリカに移り住んだ彼女を訪ねたことがあった。フリーターで日本料理屋のウェイトレスをしていたが、外国からやってきた友人のために仕事を休ませてもらえるなどということは許されない。少しでも隙を見せれば仕事は他の人へと回ってしまう。彼女は、妹や友人たちに頼み、空いている時間を利用しては、代わる代わる私の相手をしてくれた。

アメリカでの成功は、金持ちになること。明白だ。そのために1セントでも稼ごう、浮かそうとする。ロスからシアトルの国内便を予約しに、ハリウッド通りの中国人が経営する券売屋を紹介してもらい訪れた。友人の友人のため、あれこれ問い合わせた結果、ある便を薦められた。大手と比べて10ドルも安い。航空会社の名前は一度も聞いたことがない。国内便でも、墜落すればその話は即座に世界を駆けめぐるが、アメリカでも墜落となるとあまり話を聞いたことがない。しかし豊かな日本人は安全をブランドで買うことにし、ユナイテッドが最終的に選ばれた。これではいつまでたってもアメリカンドリームに近づくことはできない。

[注:内容的に間違いのある部分も含め、手は加えてありません]
[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」  に収録されています。]

3 comments:

fumanchu said...

崔仁勲は「笑い声」「馬鹿たちの行進」など初期にはテーマもプロットも充実していたのですが、「深く青い夜」の原作は「自己破滅的な中年イージーライダー」という印象でした。仁川空港の本屋には英訳本が置いてありました。韓国も大方の国と変わらず、国民を根幹で支える読書人階層が居るのに、それは人口の数パーセントにすぎないので、書物としては成立するものの、大衆的動員を前提とした映画では、原作のテーマが希釈されてしまう、という恨みがあるのではないでしょうか。

韓国映画で言うと
黄皙暎の「懐かしの庭」
http://www.tcp-ip.or.jp/~ask/dh0801/index.html
など、映画は1980年のナツメロとなってしまい、「光州五月民衆抗争の記録」の編者による懐古、という原作の緊迫感は伝わってきませんでした。ディアスポラを経て生み出された文学としては、同じ黄皙暎の「客人」
http://www.tcp-ip.or.jp/~ask/dh06/gook2/gook2.html
がショッキングでしたが、映画にはなっていないかもしれません。

台湾でも
李喬の「寒夜」はテレビ大河ドラマとするにあたって、手が加えられ、原作者は続編の監修を降りています。「寒夜」のラストシーンは作りが京劇っぽく、これはこれで面白いのですが。

burikineko said...

ワタシが韓国映画を積極的に見るようになるのは八十年代の経済成長とともに現れた若手映画監督たち。それまでは「巫女」サンの話とか、金持ちに金で買われた女性の話とか、貧乏を絵にするとか・・・ってたぐいでした。

そのあと、「膝と膝の間」「馬鹿宣言」などの還流ヌーベルバーグ登場ってとこでしょうか。後はあまり詳しくないんですよ。

それにしてもfumanchuさんは現場も踏んでいる上に博識、すごいですね。

fumanchu said...

貧乏なのでもっぱら図書館です。
ちょいと明治時代へバカンスに、と言っても飛行機だと高そうなので。