香港地下鉄プラットフォーム photo:(C)Eiji KITADA
建築雑誌 "at" 連載 第10回
「二つの香港」ー英国の置きみやげ (香港・英領香港)
文:大行 征
写真:北田 英治
建築雑誌 "at" 連載 第10回
「二つの香港」ー英国の置きみやげ (香港・英領香港)
文:大行 征
写真:北田 英治
香港には二つの顔がある。九龍サイドと香港サイド。ハーバーサイドとマウンテンサイド。ヒルトップに住むものと水上に住むもの。「東洋の真珠」と「アジアの屑籠」。香港を故郷とするものと、半数の革命中国からの合法的移住者および難民。パスポートも、おなじ英国籍でありながら英国に住める者と住めない者。英国航空から中国民航に乗り換える者と、中国民航からやってきてそこに留まる者。中国系米国人I・M・ペイの設計した中国銀行と、生粋の英国人ノーマン・フォスターの設計した香港上海銀行。中国人でありながら、香港の中国返還を望まない多くの人間と、少数のそれを望む者。「北京の政権」と「台北の政権」。二つの香港を並べることはいくらでもできるだろう。ただ一つできないものがある。それは香港は地球上に一カ所しかなく、決して二つに分けることができないことである。
香港はわずか一世紀あまりで、二つの風景をもつに至った。九龍サイドのスターフェリーの桟橋に接して建てられたペニュンシュラホテルと、香港島浅水湾の入江の波打ち際に立てられたリパルスベイホテルは、ともに一攫千金を目論む英国人の異国趣味を満足させるために造られた。ペニュンシュラは、今では香港の道化を演じるに過ぎず、「慕情」を演じたリパルスベイホテルは、一九八二年に取り壊されてしまった。
島のホテルは、客室がどちらを向いているかによって価格が異なる。ビクトリアパークのケーブルカーの往来を眺めるよりは、誰もがビクトリア湾の「百万ドルの夜景」を楽しむだろう。とはいえ、現在まではベイサイドは超高層オフィスで占められており、ハーバーサイドに部屋をとっても、その価格に見合う光景を得られる可能性はほとんどない。むしろ九龍サイドのリージェントホテルあたりに逗留すれば、香港の絵はがきに登場するほとんどを手にすることができる。
ピークに住める人間も、水上に住み着くことのできる人間も香港では少ない。かつて、香港の英国人はピークに住めることをステータスとした。執事をオーストラリアから、召使いをインドから連れてきて、急造の紳士を演じてきた。一方で、香港人といえどもアバディーンなどの水上居民にはなかなかなれない。南京条約で英国が香港を割譲したとき、香港全人口七千五百人のうち水上居民は二千人。現在でもこの数字は変わらないのではないだろうか。
香港は英国領である。英国が二つの香港をつくったといって間違いはあるまい。引き算でいえば、英国が清朝から香港を「借りた時間」は後五年間しかない。すでに九十四年間を英領香港として香港の風景を築いてきた。そして一九九七年六月三十日をもって、香港は中華人民共和国の一部となるはずである。
(連載第9回- "at" '91/2掲載)
「二つの香港」ー英国の置きみやげ 十年後記 2001年4月20日
返還以前の香港の魅力は、なんといっても「チャイナウォッチャー」の役割だったろう。当時、鎖国を敷いていた大陸中国の情報は、すべて香港から発信されてきていた。文化革命が嘘八百の固まりだったこと見抜いていた当時の識者は、やはり香港情報の行間からそれを探り当てていたという。そんなことなどつゆ知らない私などは、MLなどという集団に同調、日比谷公園や新宿駅周辺で花の七機(第七機動隊)に襟首を捕まれ、危うく棍棒の餌食になるところだった。
世界中が落ち着いて、私も「東アジア世紀末研究会」などと名打った旅を何度か行うようになっていた。香港の旅に、当時話題になった香港上海銀行の見学を依頼しておいた。ところがなかなか許可が下りない。出発のほんの寸前でOKがでたのだが、銀行の案内人と話してみると、我々のグループ名が問題になったそうだ。「東アジア世紀末研究会」、うーん極左グループと読めないこともなかったか。
天安門事件の時は台北にいた。メディアは反大陸キャンペーンで盛り上がっていて、私も毎日新聞とテレビを覗いていた。ある日「トショウヘイ死亡」の記事。出所は香港、しっかりガセネタだった。
[注:内容的に間違いのある部分も含め、手は加えてありません]
[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」 に収録されています。]
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