Tuesday, June 15, 2010

[East Asia photo inventory] 「看海的日子ー風櫃の三合院住居」 (澎湖島・風櫃)

ホームページを閉鎖することにしました。古い記事、当時の東アジアの雰囲気を伝えた部分をこちらに掲載しておくことにします。

風櫃の三合院住居 photo:(C)Eiji KITADA

建築雑誌 "at" 連載 第8回
「看海的日子ー風櫃の三合院住居」 (澎湖島・風櫃)

文:大行 征
写真:北田 英治

七月だというのに雲が低く肌寒い海上を、つい数カ月前まで瀬戸内海の往来に使われていた高速艇で台湾本島から澎湖島にむかった。東シナ海の波頭がひときわ大きく見えるのが珊瑚礁の島、中国大陸の文化を最初に受け止めた場所、澎湖列島である。

出発の前日、「あした澎湖島に行くんです。どんなところですか」と台北の飲み屋で女の子に話すと、居合わせた全員が笑ってこう答えてくれた。 「あそこは三つの点で有名です。太陽が大きい、水が塩辛い、鶏も卵を生まない」。厳しい自然環境を言いあらわして秀逸である。

百余の島々からなる澎湖列島に、人影はその内の二十一島。台湾本島から四十五キロメートル、向かい合う福健省から百四十キロメートル、平均の海抜三十メートル、最高七十メートルを出ることはない。雨が極端に少なく、始終強い風が吹き、「風島」の異名を持つ。二つの要因は、この島の光景を決定づけている。珊瑚礁の地肌にはりつき、北西の季節風で押し曲げられた潅木。草も木も横へ横へと地をはっていく。日陰を求めるべくもなく、塩分を含んだ土地に手を加える女たちは全身を布で覆っている。

澎湖島開発の歴史は台湾本島に比して四百年早い。大陸のミン南地方、泉州周辺からやってきた移民によって発展する。建築物も町の形態もミン南の様式を残しているという。強風と水源確保の難しさは、集落の形態を独特なものにしている。農村は南下がりの斜面の窪地に寄り集まる。季節風を遮り、少しでも地中の水源に近付こうとする。漁村は海岸線の珊瑚に囲まれ、海に向けて建てられる。季節風と海風から作業場を中庭に求め、共同で彫られた井戸を有効に利用するため、三合院という住居形式がとられている。木材も煉瓦も遠く対岸から運ばざるをえず、主要な建材のほとんどに珊瑚が使われてきた。海との戦いを強いられ、神への依存心はことさら強い。全島で二百あまりの廟を数え、そのほとんどが海神媽祖を祭っている。

この島のはずれに風櫃とよばれる集落がある。風のヒツ。風のしまい込まれた場所。珊瑚礁の突端の風道に位置するこの村では、海面の動きにともなって地面から風が吹き出す。空洞となった珊瑚のなかを海水が出入りする度に、フイゴのように音を出す。南方系中国人の陽気さとは裏腹に、あたり一面に悲痛なうめき声を漂わせている。そのためか、かつての台湾本島への文化・経済の玄関口も、時代とともに取り残されていった。

漁を捨て、島を捨て本島にわたる若者。すみ手を失った民家。かわって荒涼とした風景を求めてやってくる本島の若者たち。映画のなかでみつけた、活き活きとした少年たちを探しに訪れた初老の日本人は、村はずれの海を見つめる小廟に腰を下ろし、限りある明日を考えることにした。
(連載第8回- "at" '90/12掲載)


「看海的日子ー風櫃の三合院住居」十年後記 2001年3月12日

台湾映画界の重鎮、侯孝賢監督若き日の作品に「風櫃からきた少年」という映画がある。澎湖島で生活する悪ガキ達の生態を活き活き描写して傑作だった。その少年たちの仕種に勝って映ったのが、澎湖島の風景。どの場面も左右にのびた水平線が占めていた。台湾本島では見ることのない情景に一度訪れてみたい、で仲間達と旅をした。

映画のなかで一番印象に残ったシーンがある。悪ガキたちが喧嘩をする。別のグループの人間に怪我をさせ、警察沙汰を引き起こす。家に戻るに戻れず、ガキたちは海岸際に立つ小さな廟の前で思い悩む。ガキたちの横顔、小さな廟、波立つ海、夕日の赤。ここを訪れた大人たちは、小さな廟に座り込み同じように写真をとった。

atに文章が掲載されると、もの書きの友人から電話が来た。初老という表現はおかしい、自分の事を書いているとしたら初老ではない、同年代の人間に失礼だ、というものだった。当時40台後半だったはずだから、今思えば確かにおかしい。しかし、カミさんが死んだ直後ということもあり、限りある明日などと思い巡っていたのが、初老という表現になったのかも知れない。

[注:内容的に間違いのある部分も含め、手は加えてありません]
[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」  に収録されています。]

2 comments:

fumanchu said...

風櫃ではありませんが、先年、burikinekoさんと猪足を食べたテーブルの、横を走っていた東部鉄道が、その数年前までは2フィート6インチの軽便鉄道で、しかも夜行特急があった、という話を後日知りました。760mmゲージで時速80kmというのは新幹線の1.435mm換算では時速300km以上、という超高速なのだそうです。乗ってみたかった。

burikineko said...

軽便鉄道で夜行列車ですか、乗ってみたかった気もしますが降りた後に体中が痛んだかもしれませんね。

台湾、森坂も含め、軽便鉄道見当たらなくなってしまいましたよ。あの速度、長閑さと脇の風景が近い、手が届くような距離、それがなんとも魅力でしたのに。