騎楼と呼ばれる連続店舗のアーケード/台北 photo:(C)Eiji KITADA
建築雑誌 "at" 連載 第3回
「多言語な風景 - "悲情城市"のなかの上海人」
文:大行 征
写真:北田 英治
建築雑誌 "at" 連載 第3回
「多言語な風景 - "悲情城市"のなかの上海人」
文:大行 征
写真:北田 英治
日本の敗戦から中華人民共和国成立までの5年間を描いた台湾映画「悲情城市」では、おなじ漢民族同士でありながら、話し言葉が違うだけで殺し合う悲劇を描いている。ある地方の言葉を使えるというだけで権威を手にする人間をみつめている。映画のなかで、蒋介石の軍隊とともに台湾に渡ってきた上海のやくざと,地元台湾のやくざとが話しをつけるシーンがある。始めに台湾の親分が台湾語で付人に話しをすると、付人が相手の付人に広東語に翻訳する。その付人は上海人のボスに上海語に訳して伝える。台湾語↓広東語↓上海語、そしてまた元にもどってゆく。
建築の世界にも似たところがある。台湾の首都台北には、福建省に多く見られる騎楼(アーケード)を持った都市型連続住居、農・漁村に多い三合院住居、日本占領時代の帝冠様式の政府官庁建築、日式木造二軒長屋、中国北方様式の記念建造物等々、時代と地域を越えた建築様式がポストモダン建築と一緒に顔を並べている。地方的伝統と外来様式とが渾然一体となって併置されている。
言葉の世界でみてみると、中国同様、台湾も北京地方語をもとに標準語・共通語が規定されるのは、第2次世界大戦以後である。それまでは、話し言葉は地方語、文章は文語文の時代が延々と続いてきた。標準語・共通語が制定され、多くの中国人は標準語と地方語の二つの言葉をもち、時と場合に応じて使い分けることになる。使い分けの巧さは見事というほかなく、右を向いて北京語、左を向いて台湾語、まったく違和感をもたない。時にはそれに日本語も英語も混ざってくる。まさに大都市台北の風景によく似ている。
言語は文化である。多言語を使いこなすことはそれぞれの文化を享受することになる。歴史的にみても、台湾は外部から人間の流入がはげしかった。十七世紀の半ば、鄭成功が漢人を大挙引き連れて中国文化の基礎を築いて以来、客家人、日本人、外省人と絶え間なく異文化が持ち込まれてきた。建築の様式にもそのことがよく反映されている。平面は伝統的四合院形式だが、立面は西洋館。東棟は日本風、西棟は洋館、中央の正庁とそれをつなぐ回廊は中国伝統様式。特別なきまりが見あたらない。
どちらにしても、台湾建築はひとつの様式に因われることが少ない。あるルールさえ守れば多くのことが実現可能である。そのルールとは、まず異文化を翻訳し、再解釈した後に建築のなかに取り入れることである。必ず再解釈が必要である。再解釈することによって、ローマン語文化も日本語文化も漢字文化に馴染ませることが可能となる。中国人がマルチリンガルに対応できるように、台湾の建築も多種多様な建築様式を翻訳し、再解釈し、多言語な風景を生み出しているのである。
(第3回終了 - "at" '90/07掲載)
「多言語な風景」十年後記 2001年2月9日
「悲情城市」のなかの上海人は映画の中では評判が悪かった。組織暴力団と地回りのやくざでは、勝ち目は最初から判っている。後ろ盾に軍がついている組織暴力ではどうしようもない。「悲情城市」公開までは、表だって228事件について語られることはなかった。
それ以降、台湾では台湾独立という話が現実味を帯びることになる。現総統選出の背景には、「悲情城市」があったのかもしれない。長年、中国大陸も台湾も「一つの中国」を標榜してきて、今回の総統選で破れた国民党が掲げてきた「一つの中国」を、中国大陸が逆手に取って現総統を攻撃したのは皮肉なことだ。
台湾には、鄭成功以降に大陸から渡ってきた福建人(いわゆる台湾人)、遅れて渡ってきた客家人、そして日本の敗戦以降中国大陸各地方から外省人が入ってきた。元々の台湾人(高砂族、山地人などと呼ばれてきた)を含め、多くの言語が入り交じって使われてきた。必要に迫られ、彼らは他の言語を理解しなければならなかった。今でこそ、義務教育の充実で標準語が普及しているが、ほんの一昔前までは、いたるところで「多言語な風景」にお目にかかったものだ。
[注:内容的に間違いのある部分も含め、手は加えてありません]
[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」 に収録されています。]
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