Friday, October 8, 2004

[東アジアの人たち] 一九八七年のE君 (中国・北京)

一 九八七年夏の始まり、私は北京に呼び出されました。日中合同で進められていた一つの計画に参画してほしいということのようです。日本の商事会社とハウス メーカー、それにあちら側のある省庁が合弁で始めた外国人用アパートメント事業だといいます。在日台湾人の設計者がプロジェクト・マネジャーを務めていま した。彼の卒業設計をお手伝いしたこともある古くからの知り合いです・・・

会っ てお話を聞いてみると、言葉の問題、仕事の進め方、それにスタッフが若すぎて技術的な解決ができそうにないといいます。それではと北京に出かけました。仕 事は時間に追われている状態で、朝から晩まで会議と打ち合わせが続きます。あちら側も日本側のスタッフもかなりの努力をしたと思います。

その中に一人の日本人の若者がいました。デザインを任されていた彼はまだ学生、私の後輩でした。名前はE君、流暢な米語に黒人の訛を上手く織り交ぜて話を していました。デザインセンスはなかなかのもの、日本人離れの感覚を持ち合わせています。言葉すくなに仕事を進めます。話を聞いてみると、学校が休みの間 を使っては外国の建築事務所で働いてきたとのことです。

彼が学生であることは中国側に伏せられていました。契約上か何かの理由によるのでしょう。相手側はうすうす分かっていたのではないかと思いますが、私が来 たことで安心したのか、仕事はそれなりに進み始めました。しかし、朝から晩までの作業で、ホテルと仕事場の間を車で移動する以外、外に出られるのは週末の み、それも日曜日だけでした。

そんな日は私とE君の二人、つるんで街中に出かけます。北京の街中はまだ落ち着きがありました。開放政策が始まったばかりですから、彼らの服装もお店も町並みも質素そのものです。街中も退屈です。
紫禁城に向かって歩きながら彼に提案します。

「おい、この連中に自由世界の風景を見せてやろうぜ」
「なんですか・・・」
「男どうして抱き合ってみせるっていうのはどうかな」
「やめてください!僕はストレートです!」
「形だけ、形だけ」
「いやですよ!」

残念ながら暗い人民服を身に纏った連中に、自由世界の風景は見せられませんでした。

日曜日とあってか、天安門広場前の大通りに車の影は余りありません。ただただ自転車が左右しています。大通りの左前方に紫禁城が見えてきました。私たち二 人は大通りを横切って向こう側にたどり着きます。突然、道路に面した建物の塀のわきから、銃剣をもった二人の兵士が脱兎のごとく私たちに向かってきます。

私たち二人は凍りつき、その場に立ち竦みます。二人の兵士は一言も口にせず私たちに銃剣を向けて構えました。私、とっさに日本語でE君に驚いたそぶりで話 しかけます。E君黙って私を見ます。兵士、沈黙したまま依然銃剣を向けています。兵士、薄汚い身なりの二人は北京の規則を知らない外国人と悟ったのか、よ うやく銃口を下げました。私たち二人、適当な日本語を口にしながら、その場をゆっくりと離れました。

中南海、もちろんそこは権力の中枢、政治の中枢、毛沢東・劉少奇・周恩来・朱徳らも住んだことのある高級幹部の執務兼居住地、その門の前に向かって道路を渡ってしまったのです。くわばらくわばら。

しばらくして私はこの計画から離れます。E君は引き続きここに滞在して図面を完成させます。
彼と再会したのはそれから数年後のこと。大学の卒業設計の展示会に来てくれと案内をもらい、上野の展示場にでかけました。計画のコンセプトは、北京の夜に酒を飲みながら話し合った内容が組み込まれていました。

その後E君と会ったことはありません。ロンドンのAAスクールで先生をしていると人から聞きました。

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