Friday, December 31, 2004

[追伸:台北通信] 13-Farewell Party-Last Night in Taipei

報 告会の方針がオーナーから了承されました。紆余曲折のもとでの了承です。私と私を手助けしてくれたBigMomとプレゼンを作成する信頼できる友人の三人 が求めた結果は出せそうにありません。それでも私の仕事はオーナーを健全な方向にむかわせることです。最後のまとめに入りましたが時間が迫っていました。 私の台湾滞在ビザがあと数日で切れます。帰国前日、私とBigMomは今回の報告書をどんなものに仕上げるかを話し合い、仕事の引継ぎを行いました。続い て信頼できる友人を交えて不足している資料の整理をしてみます・・・[写真は二ヶ月間お世話になった真夜中のホテル・ラウンジ]
事 務所の所長が私たちをせっつきます。早く終えなさいと。オオユキの送別会を事務所全員が参加して開くのだと。あわただしい一日でした。落ち着かないまま店 に向かいます。日本料理店の「坂城」というところです。今日で三度目です。店のママも最後の夜だというので席についてくれました。男気をもった友人が贈り 物だといってマイルドセブンをワンカートン手渡してくれました。事務所内の数少ない喫煙者同士の挨拶でもあります。私はグラスを手に一人一人に感謝の挨拶 をして回ります。夜になると決まってパパを迎えに来ていた婦人と小さな娘にも言葉をかけましたが、妹妹(小さな娘の一般的な愛称)には「やだ!」と断られ ました。

最も感謝しなければならないBigMomは最後にとっておきました。私が言葉をかけると、彼女から逆に「とてもたくさんのことを教わりました」といわれま す。うれしく思いました。なぜなら、何度か海外で仕事をしたなかで私から多くを吸収してくれた数少ない人間だったからです。一人はパラオの計画で今の仕事 のきっかけを作った信頼できる友人でした。そして今回のBigMom、アメリカの競争社会では決して経験できなかったことを体験したに違いありません。

酔ったほとぼりを冷ますため、ホテルのロビーで今夜の出来事を思い起こしていると、酔ってお店からなかなか出てこなかった中年の二人が尋ねてきました。い い気分のようでした。ただの珈琲を飲みながら二人は私を「好命な男」だとまた口にします。ホテルを去る時間は十二時だといい、それでも十五分をすぎてしま いました。彼らが去ったあともしばらくそのまま残りました。二ヶ月にわたる台湾滞在はこの日で終わりです。[追伸・台北通信]もこれで終わりです。

Thursday, December 30, 2004

[追伸:台北通信] 12-設計用具は計算器

き れいに撮れていませんが今回のプロジェクト・オーナーの直筆メモです。計画容積の確認を手計算でして見せてくれたものです。私も建物の概要を把握するため にすることはありますが、多くのデベロッパーにとって容積をどれだけ使い切るかは至上命題になります。敷地の条件が整理されると、容積計算から逆算で建物 の縦・横・高さが決まってきます。オーナーはセンチ単位で確認して見せます・・・

こ の計画に限らず、日本の最大手デベロッパーにしても去年蘇州の計画でも、デベロッパーにとって計算器が設計用具になります。こちらが絵にしたものから、彼 らはどの部分をいじればどれだけ面積を上乗せすることができるか、ただただひたすら寝ても起きても考えています。蘇州の女性デベロッパーは、朝起きると別 の条件を我々の元に持ってきました。これならばもっと面積増やせますよね、と。高級別荘地を蘇州の一等地に建てるつもりが、気がついてみるとスラム並の高 密度街区になっていたりしてしまいます。それでも彼らは更なる上積みを追い求めてきます。

この女性が一度、香港の事業者の話を聞きに出かけました。戻ってきたときに私が「計算器の修理はできましたか?」と問いかけました。きょとんとした顔つき をしていましたから、彼女話を理解できなかったようです。幸か不幸かこの計画は中断されました。場所が場所でした。認可が国家レベルにまであがってしまい ました。

私のような設計者は、それでもデベロッパーの意図をくみながら、適切なとか適当なとかバランスの取れたとか時代の中ではなどなどいいながら、デベロッパー のわがままをコントロールする努力は惜しみません。十分嫌われますが、それでも仕事の話がくるというのは、間違ったことをしているわけではないのだと思っ ています。

写真の左下に簡単なスケッチが写っています。これはオオユキサンのコンセプトはもっともだが、と言いながら私はこうしたいと彼が描いて手計算を始めたきっかけをつくったものです。

Wednesday, December 29, 2004

[追伸:台北通信] 11-生活を豊かにしてくれる日本のお店

仕 事で計画していた建物の地下4階分をリテイルにしようという話になっていました。百貨店(といっても日本の百貨店とは違い、欧州のものに近いです)ではな くショッピングモールが向いているのではないかと提案します。ところが台北には魅力的なモールがいくつもできているのだそうです。それでは・・・と出かけ てみました・・・

新 しい商業圏を作りつつある場所にストリート型のモールがあるそうです。規模は小さいのですが、有名店が多く入っていました。大通りに直接面した部分の上階 では何件かの日本のお店があります。紀伊国屋書店、HANDS、無印。生活を豊かにしてくれる日本のお店です。日本が豊かになるに連れて登場したお店で す。渋谷のあちこちを歩き回らなくてもここでみな賄えます。

私が台湾に来た直後、ミスタードーナツ第一号店が士林という町に開店しました。新聞によると、行列待ち四時間と書かれています。この行列は一月後も続いて いたようです。帰国二日前、BigMomが事務所のスタッフのためにミスタードーナツを買ってきてくれました。やはり人の列ができていたようです。メ ニューの中に、台湾向けの味付けとして油の多いドーナツというのがあるのだそうですが、残念ながらそれはありませんでした。

これには訳がありまして、そんな人気商品なら本家本元を食べてみたい、オオユキが戻ってくるときに買ってきて欲しいということです。それも全種類を。BigMomの提案でした。BigMomはそのお礼にとハンドメードケーキを用意してくれました。最高に美味でした。

それにしても、LuLuのサンドイッチ、その隣にあるトルコ料理店のケバブサンドなどなど、台北の味覚も徐々に変わりつつあるのでしょうね。

Tuesday, December 28, 2004

[追伸:台北通信] 10-国花も変わる?

十 月の終わりの週末、台湾東海岸の都市・花蓮を訪れたときのことです。市内にただ一箇所の小高い丘があります。ここに日本時代から使われていた建物があると いうので連れて行ってもらいました。この木造二階建ての建物は、市内と港を見渡せる絶好の場所に建てられていました。日本占領時代には、将校クラブとして 利用されていたようです。建物の名前を松園別館、きっと当時花蓮を統治していた人の名前かなと考えました・・・

建 物の作りもしっかりしていましたが、広大な庭には樹齢百年かと思われる立派な赤松が何本も残されています。この土地と建物、本来は国の持ち物でしたが、民 間に払い下げ、この辺り一帯を開発しようと考えたようです。一部の市民が立ち上がりました。松を残そうと。市民の輪は広がり、松の木を人が取り巻いて伐採 を阻止するまでになります。開発は中断され今では一民間人が管理をしています。当時をしのぶ展示とともに、美術展などを催していました。

その当時とは日本占領時代のことです。あれほどまでに嫌われた日本時代の遺産は、いま市民によって守られようとしていました。この動きはここだけに限らな いことでした。私の三年間の空白の後に訪れた台湾で、もっとも大きな変化ではなかったでしょうか。台北市内のかつての日本人墓地に建てられた違法建築を取 り壊し、公園に整備し、慰霊碑の計画も持ち上がっていると聞きます。

この動きは、昨日来日した李登輝さんが台湾総統になってからということのようです。政権政党だった国民党にありながら、徐々に台湾を自立させようという彼 の目論見は、徐々にそれまで目をつむってきた人々に影響を与えたのでしょう。阿扁と国民から愛称で持って呼ばれる陳水扁現総統は、憲法も国旗も国歌も国花 も本来の台湾のものではない、といついつまでに新しいものに変えましょうと提案しています。日本の占領時代は台湾の歴史の一部でったと素直に語りましょう と、教科書の書き換えも考えています。

東アジアでは徐々に政治的な摩擦が起きてきています。北朝鮮、中国、韓国、台湾、それに日本と、それぞれの国がそれぞれの立場を明確にしてきています。東 アジアはどうなっていくのでしょうか。これからは面白い東アジアのあちこちと語るには慎重さが必要になってくるのかもしれませんね。

Monday, December 27, 2004

[追伸:台北通信] 09-酒とオンナと・・・

今 日もメモの写真です。風景も人も今回はほとんどカメラに収めていません。それだけ仕事に熱中していたことでしょうか(事実です)。下班(退勤)時間は人さ まざまですが、決まりは朝の八時半から夜の六時半までだそうです。私は九時から夜の八時近くまで働いていました。一人で事務所を出て、一人で夜の食事をと る、そんな毎日でした。それでも週に一度くらいは誰かが誘いをかけてくれます。近くのイタリア料理店、タイ料理のお店、お酒も出る日本料理店、それに普通 の食堂。ごくごくまじめな生活でした・・・

そ んなわけでお酒が中心の席に誘われると、無作法をしてしまったりします。このプロジェクトのオーナーが、関係者一同をあつめて会食会を開きました。彼のホ テルの大広間に十数人、高級なウィスキーとワイン、豪華な料理、少し送れて登場したオーナーとともに食事は始まりました。私は仕事の緊張が抜けなかったの でしょか、酒が入り、料理が運ばれてきた辺りまでは記憶があるのですが、その先翌日の午後一時半まで、思い出せるのはわずかに三つばかりのシーンのみでし た。タバコを買いにいったこと、クラブらしいテーブルの目の前にオーナーが座っていたこと、どこかのカウンターで誰かが何かの手続きをしていること・・・

なんと十六時間もの間意識不明だったのです。気がつくと、見知らぬホテルのベットに横たわっていました。それもフロントからの電話、「延長しますか?」の 催促の電話が来るまで。「すぐ出ます、すぐ出ます」と下に下りてフロントで清算しようとするとすでに会計は終わっていました。カードの名義には事務所の古 株建築師の名前がありました。残されていたのはTシャツに残る強い香水のみでした。

古株建築師との関係はその日から始まりました。何度かの夜を二人で過ごします。一回目は私のおごりで、もう一回は彼からの盛大な宴席、新北投の酒家での宴 会でした。私のおごりはささやかに、内湖という郊外で古い台湾を残す飲み屋さん。新北投の宴会は、女性が脇に付きバンドが入ったにぎやかなものでした。

この彼、古い時代の台湾の味を持っています。話す言葉も台湾語中心ですし、仕草も格があります。いわゆる男気を見せています。男気が過ぎてついこの間まで 女房をもちませんでした。私の立ち振る舞いは、彼には苦々しく思えたに違いありません。「大行征、あなたは変人だ」と口にしますが、いろいろな場面で私を 諭す言葉をかけてきました。

彼は数年前までしていた仕事に誇りを持っていました。MRT、台北の新交通の駅舎工事を取り仕切ってきたことです。合衆国の顧問団相手に成し遂げてきたこ とです。私のデスクでMRTの説明をしながらその成果をメモにしてくれました。久しぶりに男気を思い出させてくれた台湾人でした。酒に酔ったあとはいつで も、私のホテルのラウンジでただの珈琲を二人で飲んで分かれたものです。帰る時間をはじめに表明して、そしてその通りに出て行きました。

Thursday, December 23, 2004

[追伸:台北通信] 08-Big Mom

「二ヶ月も出稼ぎに出かけていて、仕事は何をしていたのですか?blogでは人のことや古い町のことや食べ物のことしか書かれていませんが・・・」
「もちろん仕事で出かけたのですからしっかり働きましたよ」

ある台湾の大きな企業の手付かずの土地がありました。あれこれ計画は立ててきたのですが、実現までには到りませんでした。実現しなくても企業は困らないく らい他で仕事をして稼いでいました。ところがほっておけない事情が外からやってきました。敷地の前の道路に地下鉄駅ができることになったのです。地下道か らの出口が敷地のどまん前にボカッと出てくることがわかりました。これでは困ります。地下鉄工事も休んでいません、こちらも急がなければならなくなったの です・・・

こ の企業は複合ビルを造りたいと考えました。しかし今まで複合建築を企画したことがありません。どうしよう、と相談された先が私の先輩でした。先輩は「外国 人に頼むべし。日本に神様がいる」と声がかかったのが私でした。神様には参りましたが、いわゆる外圧を利用したらどうかというのが本音でしょう。

一ヵ月後にオーナーの大ボス、つまりおやじさんに報告できるレポートの作成が私めの役割です。来てみると資料もない、条件も整理されていない、何をやって いいのか分からない始末です。スタッフをつけてくれたのですが、これがハーバード出のアメリカ生まれの中国人女性でした。こちらに来てわずか七年、これで は私より台湾の法規や建築事情は疎いはずです。二人の外国人は、それでも毎日毎日一生懸命働きました。

彼女がスタッフについてくれたことは、私にとってあるメリットを生みました。彼女、台湾の習慣に縛られることがなかったのです。ここの設計事務所は、ある 意味企業の企画室でもありましたので、オーナーの意向を心得すぎていました。彼女と私は外国人、そんなのお構いなしです。合理的でないものは駄目なもの、 発想はフレキシブルであるもの。他の人たちがPCと取り組んでいる脇で、二人はフリーハンドの作業を進めました。

私がコンセプトを絵なり言葉で表現すると、彼女図書室をかき回し、数時間後にはスケッチを持ってきます。間違いがありません。質の高い回答をだしてくれま す。合衆国での厳しい競争を生き抜いてきたからか、仕事も速い。またたくさんのINDEXを持っていて、かつそのなかから最適な検索ができる。おかげでい い答えが出せましたが、ここの習慣に乗らない私たちには苦しい展開でもありました。なかなかオーナーの意図が見つけ出せなかったからです。滞在が長引いた 理由はそこにありました。

彼女との関係で難しい場面も出てきました。彼女、中国語はまだまだ発展途上だったのです。もちろん私より十分話せますが、漢字が苦手と来ています。漢字書 いて見せて、とせがむと怒っていました。メモは日本語から英語に、そして中国語へと翻訳されていきます。ここでも彼女の才能が活きてきました。私のメモは 彼女の翻訳で膨らみが与えられたのです。トンネルの先が見えないような作業が続いても、持ち堪えられたのは彼女が脇にいたからにほかありません。

一言。凄い美人でした。古典的な・・・今では見ることができないような・・・オバサンでした。私は「Big Mom」と呼んでいました。(すいません、写真はありません。写真を撮ると怒鳴られそうでして・・・)

[追伸:台北通信] 07-続・残された砦 「寶蔵巌」

「他 郷楼」、異国の館と訳すのが妥当かと思います。砦の山頂近くの路地で見つけました。彼らの故郷はどこなのでしょう。路地を行きかう人たちや、家の中から聞 こえる話し言葉に聞き覚えはありません。この砦だけの自治組織を持ち、少し前までは自警団がいて、砦の入り口にある警備ボックス近くには、モニターまでも 用意されています。そこまでしなければならなかった理由は何でしょうか、私には聞くすべを持ちませんでした。同化もせず、自分たち以外の人たちや組織を信 用せず、彼らの習慣を保ち続けてきた人たち、変えるのはやはり経済でしょうか。