Friday, January 29, 2010

[台北] 悲哀 - II

廈門でこの仲介人の方の身の回りの世話をしたのがかつて廈門で働いていた会社時代の部下だった連中。身体が不自由な彼が滞在しているホテルで二十四時間、夜中のトイレや風呂までも彼らが行っていました。みな自分の生活があるなか、身を呈しての世話でした。しかし外部への連絡でちょっとの間離れただけで人を罵ります。日中、些細な用で会社勤めの彼らを呼び出します。それが当然のことのように振舞っていました。三日もすると彼らも我慢できなくなり始めました。

すぐに問題が顕著になります。まず、北京と連絡ができなかった時点で私と台湾側の投資家とは帰国を勧めました。首を縦に振り同意の意を表したので台湾への切符を手配します。手配を終え、ホテルに戻るとみなが私を非難します。ボスは帰らないと言っている、あなたたちが連れてきたのだからあなたたちが連れて帰ってくれと。

北京の人間との会談が不成功に終わった時点で再度確認します。見込みはありません、帰国しましょう、午後の便が間に合います、よろしいですね? ここでも彼は首を縦にふりました。私は台湾の投資家にその旨伝え席を立ちます。すぐに投資家がやってきて、帰国はしないと言っている、と。

ホテルに戻ったロビーで私は大声を出しました。

受不了你! [ shòubùliǎo nǐ  ]

車椅子の彼は悲しそうな目でわたしを見つめるだけで何も言いませんでした。大勢いるホテルのロビー、皆が私たちに視線を投げかけているのがわかりました。

部屋に戻ると彼はほかの人間を外に出します。そして私に語りかけます。アナタハワタシニ汚イ中国語デハナシマシタネ。私は答えます。あなたは自分以外他の人のことを考慮したことがない、面倒を見てくれている彼らがどれほど大変か思うことはしない。あなたが意見をコロコロ変えるのでどれほどのお金を使ったことか。

その日のうちに台湾の投資家と私は廈門空港から台北に向かいました。戻ったその足で彼の母親が住んでいる家に行き状況を報告します。母親は投資家の説明を聞きながらただただ「お願いします、お願いします」と答えています。詳細は分かりません。彼らが台湾語で話していたからです。家を出て投資家に話の概要を聞きます。彼は憤慨している様子でした。投げやりに答えます。わたしたちには廈門に出かけて行っても面倒見切れないので、第一夫人か第二夫人にお願いしてくれと言っていたと。

国に戻れず、台湾人でありながら中国は私の母国だと見栄を切り、中国で死ねれば本望だとうそぶき、死ぬまでの時間をどう過ごすのかは考えていないのです。いや賢い彼です、考えていても語らないだけなのかもしれません。

[写真: これも部屋から。屋上のかつての違法建築群の仮設建造物には人が住みこんでいる。都市化が進み、容積率が上がり、おそらくこれらの違法建築物は合法化されたのかもしれない。なにかこのところの写真は裏窓シリーズのよう。]

1 comment:

fumanchu said...

浜松の中心市街地、路地裏に中華雑貨店があります。王到和の臭豆腐をここで買っていました。30がらみの青年がいつも店番をしながら3dソフトで車の絵を描いていました。「車に興味あるの?」「はい。カーデザインの勉強をしてるんです。」「インドで27万の車が出たよね。」「中国でワゴンRのコピーを27万で売り出した人がいます。でも、私がやれば20万で出来ます。」

しばらくして行ってみると、棚から臭豆腐が消えて、車のお絵描きもしていません。「カーデザインはやめたの?」「やめました。その代わりヒューマンマネージメントの勉強をしています。」だんだん彼も、従業員が会社を信じることが出来れば、近代化は成功するという、日本の産業近代化の秘密に、近づいて来た様です。