Thursday, September 30, 2004

両岸の新幹線 (台湾・中国)

台 湾と中国が超高速鉄道の導入と建設を進めています。台湾では、北の台北から南の高雄まで、日本の新幹線を走らせます。来年開業予定。一方の中国ではすった もんだの様子です。新幹線は採用されないというのが巷のうわさです。移動手段は、高速になればなるほど地理的なかかわりから切り離され、旅を味わうには余 計なものに見えてしまいます。[写真は台湾東海岸を走る単線の鉄道駅・萬榮]

Wednesday, September 29, 2004

一枚の写真・台南の八人

ア トリエを代々木から勝間へ転居の際にわからなくなった古い写真、納屋に山積みになったダンボールから探し出しました。そのなかから東アジアの旅のきっかけ となった一枚の写真が見つかりました。日本人七人と台湾の建築家一人が写っています。撮影は私。一九八五年五月、台北から車をチャーターし、オーバーヒー トを繰り返してようやくたどり着いた台南のお寺さんの塀の前での記念写真です・・・

台湾での仕事が終わり日本で事務所を始めて間もないころのことです。ろくに仕事もなく、近くで事務所を開いていた 秋山東一 を毎晩のように訪れ、ビールを山のように空けながら、「イヤー台湾はサー」とクダを巻いては、彼の床に穴の開いたワーゲンを運転して帰宅するという生活を送っていました。

秋山、あまりに台湾台湾という私がうるさくなったのか、「オーそれじゃ一度いってみるかー」。集まった八人、夏にさしかかったころ、穏やかだった当時の台 湾の地を踏むことになったのです。トントンおじさんやら、中国将棋やら、暑さにすぐバテる米国のミニバンに乗って(確かシボレーだったかと)、ひたすら南 に南に車を走らせました。皆さん、日本ではなかなか体験できないことを味わった一週間でした。

その後 東アジア世紀末研究会 と称し、アジアの各地を旅するだけの会を開きました。初めての台湾の旅から、まもなく二十年を迎えようとしています。二十年目にはもう一度、台湾を皆さん と訪れてみたいと考えています。ただ残念なのは、このうちお一人はお亡くなりになり、もうひと方が明け方の湯河原でその姿を消してしまったことです。

Monday, September 27, 2004

「蘇る”旧体制”ーサイゴンのホテル」 十年後記


二年前、台湾の仕事は数カ国の関係者の関わるため、英語が共通語として使われることになった。現地の会社で英語習得のプログラムが組まれ、私もそれに参加 させられた。英語教師の面接が行われ、最初に登場したのはカナダ人女性。闊達な性格はよかったのだが、話をしていると彼女の口元しか見えなくなってしま う。とても大きいのだ。副総経理に遠慮してもらいたいむね伝えた。

次がやはりカナダ人のガッシリした男性。日本、韓国と英語教師を務め、いまは台湾に滞在していた。彼の場合は呼吸困難なのかと思えるような息づかいで、遠慮していただいた。後で聞いたところ、ラガーマンだそうで、鍛えられた首周りが気管を圧迫していたのかも知れない。

私のわがままを満たしてくれたのが、英国人の若者。はじめてあったときには高圧的で横柄に見えた。ただ、発音が良かった。英国人特有の切れのいい話し方もいままでに味わったことのないものだった。私からOKがでたその場から授業をはじめたのには驚かされた。

この若者、なかなか面白かった。実は若者ではなく若造だったこと。年をごまかしていた。25だという話だったが、本当は22歳。なす事ハイティーンのよう。そのくせ部屋にはいるときには私を先に立たせるという慇懃さも持ち合わせている。

ちょうどその頃、コソボ紛争が激化しており、教材にも英文ニュースが扱われた。この紛争の意見を求められたので、「空爆は不公平だ。圧倒的な戦力差があり ながら地上での戦いをしない。湾岸戦争もそうだったが、紛争を押し進めるのはいつもアングロサクソンだ。」と英国と合衆国をやり玉に挙げた。彼はそのまま 聞き流していたが、このところの大きな紛争はみなアングロサクソンが仕掛けた戦いだっようなきがする。

サイゴンのレックスホテルでポータブルラジオを屋上のテラスに持ち出し、熱心に聞き入っていたのも当事者の英国人だったことを思い出す。

Sunday, September 26, 2004

日本で使えない携帯電話は・・・

今日の台湾は休日。農暦八月十五日は中秋の満月、中秋節です。天気がよければみな月見に出かけます。

今年4月に台湾を訪れた時購入した携帯電話、東アジアでは立派に働きますが日本では役に立ちません。この携帯電話、電話機能にMP3プレーヤーを加えたも のです。まあ購入の動機が不純で、騒音で溢れる台湾の環境から切り離れていたいというものだったのです。PCを使ってお気に入りの張恵妹のCDから、この 携帯にケーブルで転送して聴いていました・・・

こ の夏、vodafoneがシャープの携帯を提供したので購入しました。100メガのカメラが使えて(このblogに掲載している写真のほとんどはこの携帯 で撮影しています)海外でも使えて音楽も聴けて・・・と思ったのですが、音楽がどうしても転送できません。どうも他のソフトを購入しなければならないよう です。台湾で購入したNOKIAには、PCと携帯とでデーターやムービーまでもが至極簡単にやり取りできるソフトが始めからついているのにです。結局携帯 電話とミュージック・プレーヤーとは別々に用意せざるを得ません。

テレビ好きの私は「人間の証明」などという連続ドラマを見ていました。ここで久しぶりに耳にしたのが「A Place In The Sun」。主題歌でした。私が知っているこの歌の歌手はスティービー・ワンダーです。しかし歌っていたのは河口恭吾。彼が歌う「A Place In The Sun」は乾いています。デジタルプレーヤーにぴったりです。張恵妹の歌の後にこの歌を加えて聴いています。

Thursday, September 23, 2004

胡椒売りのベトナム人 (台湾・台北)

ア トリエには格別な味の胡椒がある。台湾の知人から頂いたこの胡椒、味が深い。深いのにはわけがある。知人は台北の高級住宅地天母の高層高級マンションに移 り住んでいる。マンションにはベトナム人の胡椒売りがやってくるそうだ。注文すると、マンションにあがって何種類もの胡椒のカンからいくつかを選び、計量 し、おもむろに胡椒を擂りだす。確かに格別な味である。舌にピリッとする味、丸く舌触りのいい味、鼻に独特な香りをもたらす味、絶妙に交じり合っている。 胡椒というのは奥が深い。教えられた。

Tuesday, September 21, 2004

ロケ地の古い写真 (台湾・澎湖島)

台 湾の映画監督、侯孝賢監督の作品「風櫃からきた少年」を観て思い立った旅。台湾海峡に浮かぶ島の小さな村はずれにあるロケ地を訪れます。喧嘩ばかりをする 少年たちが、ついに家出をする決意を固める場面の小さな廟の前で撮った記念写真。紙焼きのもので、裏には1988年7月9日と記してありました。

[参照: 「看海的日子ー風櫃の三合院住居」 ]

Saturday, September 18, 2004

「二つの香港」ー英国の置きみやげ 十年後記


返還以前の香港の魅力は、なんといっても「チャイナウォッチャー」の役割だったろう。当時、鎖国を敷いていた大陸中国の情報は、すべて香港から発信されて きていた。文化革命が嘘八百の固まりだったこと見抜いていた当時の識者は、やはり香港情報の行間からそれを探り当てていたという。そんなことなどつゆ知ら ない私などは、MLなどという集団に同調、日比谷公園や新宿駅周辺で花の七機(第七機動隊)に襟首を捕まれ、危うく棍棒の餌食になるところだった。

世界中が落ち着いて、私も「東アジア世紀末研究会」などと名打った旅を何度か行うようになっていた。香港の旅に、当時話題になった香港上海銀行の見学を依 頼しておいた。ところがなかなか許可が下りない。出発のほんの寸前でOKがでたのだが、銀行の案内人と話してみると、我々のグループ名が問題になったそう だ。「東アジア世紀末研究会」、うーん極左グループと読めないこともなかったか。

天安門事件の時は台北にいた。メディアは反大陸キャンペーンで盛り上がっていて、私も毎日新聞とテレビを覗いていた。ある日「トショウヘイ死亡」の記事。出所は香港、しっかりガセネタだった。