Wednesday, March 2, 2011

[台北] 私はSayum 撒韵_武荖

[台北電視節表演活動に参加して踊るSayum  写真:【人物】光頭拚正名 凝聚族人心 撒奇萊雅女孩 找回族名から(撮影:朱芳瑤) ]
歌と踊りを愛するごく普通の阿美族の女性がいた。彼女はもっと踊りに関わりたいとスタジオで働くことにした。面接にやってきた彼女の差し出した経歴書を見た阿美族のスタジオマスターは彼女に尋ねる。名前の欄に漢名しか書かれていなかったからだ。「きみは阿美族だよね、族名はなんていうの?」。彼女が族名はないと答えると、マスターは「そんなことはないよ、家の人に聞いてみて」という。父親に電話をするも無いという。他の人には族名があるのに自分に族名がないのなら付けてちょうだいとたのむ。父親は本当に必要なのか?と何度も念を押したという。それならお母さんと話してみようということになった。

それから数日たって実家に呼ばれた彼女に、母親が「これはお祖母ちゃんが使っていた名前ですよ」といってひとつの族名を与えた。彼女はその名前を持ってスタジオを訪れる。それを見たマスターは不審そうな顔をして尋ねる。「これは阿美族の名前じゃないけど...」。彼女は始めて自分が異なる部族だったことを知る。彼女は自分が歴史の中で消滅したSakiraya族(撒奇萊雅族)の出身だということを知らされる...。

これは2008年に作られた番組「火中的太陽」の再放送(再々放送?)の出だしの部分を、私のわかった範囲で再現したものである。このセミドキュメンタリードラマは百数十年前に四散流失した部族・Sakiraya族(撒奇萊雅族)が蘇るまでの話である。

Sakiraya族(撒奇萊雅族)の歴史は紀元前三千年以上遡ることができるらしい。ある学者の話では、台湾島の北東海岸べりに住み着き、海路を使った交易を生業にしていたという。その中には金が含まれていた。「悲情城市」のロケ地にも使われた九分に隣接する金瓜石は金鉱だった。ここで砂金を採取していた。この金を狙ってスペイン、そしてオランダ東印度会社が戦いを挑むも、地の利を活かしたゲリラ戦にあって引き下がっている。

時代は下がって19世紀末、台湾原住民に対して懐柔政策を試みていた清朝は彼らの激しい抵抗にあう。清朝の軍隊は部落を焼き払う。Sakiraya族(撒奇萊雅族)人は四散し阿美族の土地に紛れ込み、それ以降彼らの姿は歴史から消え去る。1878年のことである。ある学者の話では部族民自ら火をつけたのではないかという。この「火」は重要なキーワードとなっている。部族が正式に承認された2007年、第一回目の祭り・火神祭で当時の建物を再現、祭りの最後にそれを焼き払っている。燃え尽きる建物は部族民ですら圧倒されるほどの勢いがあった。その時の映像を見ると、一歩一歩と退く彼らの姿が映っていた。

話を戻そう。スタジオのマスターは彼女に一人の小学校校長と同じ部族名だと教える。彼がSakiraya族の帝瓦伊・拉一斯(Tiway Rayis)(李來旺)だと伝える。李來旺は長年にわたってSakiraya族復活のために働いていた人物。阿美族の中に埋もれて百数十年、言語系統もまったく異なるSakiraya族の族人は、家の中以外で、部族以外の人の前でSakiraya語を決して使わなかったという。清朝の追及を逃れるため、匿ってくれた阿美族に迷惑をかけないために。しかし李來旺はSakiraya族の復活、言語および文化の復活と継承に奔走していた。残念なことに彼はSakiraya族が正式に承認されるのを目前に他界している。75歳だった。

彼女はその人物を知るよしもなかった。李來旺の活動を知った彼女は、自らの、部族のアイデンティティーを取り戻すためにSakiraya族の名前、祖母と同じSayum (撒韵_武荖)を名乗る。そして全精力を傾けはじめる。今まで誰も無駄な努力だと試みようとしなかった独立した部族であることを証明し始める。自慢の長い髪を切り落とし、光頭・スキンヘッドでその決意をみなに知らしめる。

徐々に試みは実り始める。協調者も増え続け、台湾原住民最大の数を誇る阿美族がそれに加わり、復活は現実味を帯びてくる。実現の際には部族衣装はなくてはならないと阿美族のファッションデザイナーに依頼する。まったく彼らに関する資料の残っていない中、デザイナーはいろいろな文献や長老たちから話を聞き探り続ける。探り続けるうちに自らもSakiraya族の末裔だということを知ることになる。再現ドラマ撮影の際、彼女は途中から涙を抑えることができず嗚咽する。

2007年1月17日、行政院はSakiraya族(撒奇萊雅族)を十三番目の台湾原住民族であることを正式に認めた。現在、Sakiraya族として登記されている数は500名前後に過ぎない。長いあいだ阿美族の中に埋没し、混血となったり、本人もSakiraya族と知らずにいる者もいたのだろう。それらの人間も含めるとおおよそ五千から七千人がSakiraya族と推定されるという。

[お断り:下敷きとなった「火中的太陽」のほかにいろいろな文献から書き起こしていますが、大筋間違っていないはずです。ただ、詳細な部分の正確さには疑問があると思います。撒韵_武荖の発音がわからない、部族名の族語表記がわからない。私の周りには漢人しかおらず、尋ねるも、「私は原住民でないので...」と断られてしまいました。どうも武荖は土地の名前、Sayum(撒韵)が姓名、”武荖のSayum”ということらしい。参照先を記述するにはあまりにも多く、かつ断片を使って構成しています。ご了承ください。なお、この番組の主持人・司会者のPaicu Yadauyungana・高慧君が貴重な記録を取り上げてくれたことに感謝です。]

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