Sunday, October 31, 2010

[台北] 「風中緋櫻-霧社事件」を演じた若者たち

「風中緋櫻」を演じた若者たち 左から高慧君 韋苓 柯奂如 馬志翔 田麗
ブログが中断していたこともあって、シンさんから「いかがしておるのかね」とメールが届き、返事を書き始めたものの、どうせならこれをブログに載せてしまえという浅ましい考えでできた文章です。以下にその記事を......

先々週に襲った台風は、台湾の東海岸、太平洋から盛り上がった急峻な崖地を走る道路を寸断、多くの犠牲者を出しました。大陸からやってきた旅行団のバスがそのまま海底深く沈み、海中に生息する鮫の餌食となり、片手片足を失ったご夫人の死体が近くに打ち上げられたとか、かなりの事態でありました。

その台風を追うように写真家の北田氏がやってきて、建物の写真を撮る、とはり切っておりました。しかしそこは被災地、結局災害写真を収めたのみで、当の建物は豪雨の中の写真となったようです。その彼が台風一過とともに台北にやってきまして、ほぼ一年ちょっとぶりの再開です。

お互い貧しい懐ということもあり、近くの安いもそれなりの料理屋で飯を食い、コーヒーショップで近況を報告しあい、先立った知人の消息を聞くことになりました。

飲み屋に出かけることなく、私の、何もないサッパリとした部屋に戻り、ウィスキーをちびりちびりさせ、私が今最も関心を寄せているテレビ連続ドラマ「風中緋櫻 - 霧社事件」を二人で見たのであります。

霧社事件については、その昔日本統治時代、高砂族の反乱があったらしいね、ぐらいにしか知りませんでした。このドラマを見てからというもの、この高砂族、サイダク族というんですが、ここで選ばれた部族の若者が皇民化教育を受け、日本人以上に日本人らしく生きる様が映し出される。反乱のさなか、かれらは部族と日本占領政府との板ばさみのなかで自害する、それも割腹自殺をする、介錯なしで腹を切る、という凄まじい生き様の話なんですね。そしてこれはそこで生き残った若者の奥さん、高彩雲さんをヒアリングして書かれたノンフィクション小説からの、ほぼ忠実な再現だというものです。

この役を演じる若者のおおくが台湾原住民族の若者たち。こちらの原住民独特の、きりっとした顔立ちで、日本のどこを探しても今では探し出すことさえできない、かつての日本人を思い起こさせるように演じきっていました。NHK大河ドラマの出演者たちだってそんな日本人は演じきれていないですし、霧社事件どうこうより、そんなところに痛く感動したのです。

二人の若者、花岡一郎と花岡二郎という名前です。反乱のさなか自害を決意して遺書を書く。その遺書をネットで見ました。達筆です。字が生き生きとし、自由闊達なのです。これを蕃人と呼ばれた連中が書いたのですね。日本の教育が優れてといえばそれまでですが、それに答えることができた彼ら蛮人の能力を知らさることになります。

この二人の嫁になった同じ部族の娘の初子と花子を演じた女優たちもまた、役柄を好演していました。とくに二郎の嫁の高彩雲役の彼女、顔が小さくスレンダーて背が高い、そのためか和服を着るとちょっと様にならないのですが、部族の民族衣装を着るとガラッと様変わり、美しいことこの上ありませんでした。(ただし彼女の見かけから原住民系ではないかと思っただけで、正確な消息は検索できずじまいでした)

ドラマや文献などを読むと、このサイダク族、勇猛果敢でかなりの武闘派集団だったらしい。酋長の優れた戦術と組織力で日本に戦いを挑んだ。負けを覚悟に挑 む。そして日本軍は討伐にてこずり、重火器、爆撃、確かではありませんが糜爛ガス弾をもちい、やっと壊滅する。しかしサイダクが他の部族と比して特殊な能 力を持った部族なのかどうか、私にはわかりません。

ここ台湾、九十年代終わりに原住民族基本法が制定され、徐々に彼らの権利が認められ、また彼らも自らのアイデンティテイーを探り始めているということです。このドラマのサイダク族はつい最近一つの族として認められます。それまではタイヤル族の一部族とみなされていたのです。

このときの戦いは「海角七号」という映画を撮った若い監督によりつい最近クランクアウトされ、来年公開と聞いています。サイダクと同じ種族タイヤル出のビビアン・スーがでていると聞いています。

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Friday, October 15, 2010

[台北] ガジュマルと共棲する建物

不思議というほかない。ガジュマルが壁をよじ登り葉を茂らせている建物。何十年もかかっている。私が馴染みにしていた飯店裏の通りの建物。三十年前と変わっていない。変わったのはガジュマルが建物と共棲している姿だ。

台湾の田舎を旅すると小さな村の小さな広場に枝を大きく広げたガジュマルをよく目にする。夏の昼下がり、その下でご老人が籐椅子で昼寝する姿がなんとも長閑で、あんな生活ができたらと思い続けていた。そんなこともあり、こちらでの景観設計、庭作りに提案するのがガジュマルのある庭。ところがこれがなかなか受け入れられない。

ガジュマルは根が強い。枝が地中に向かって伸び、入り込み、横に下に伸びる。自身の重量を支えている。この根が厄介だそうだ。建物の基礎の下に入り込む、壁にひび割れをつくる。周辺に空間の余裕がなければ植えられないという。そういわれて思い浮かべてみると確かにそうだ。広場とか公園の中、キャンバスの芝生の中でゆったりとしている姿が目に浮かぶ。

ではこの写真の建物はどうなのだろう。すでに三十年以上が過ぎている。嫌われるガジュマルならばとうの昔に根元から切り倒されていたろうに。もしかしたらそれを繰り返してもまた枝が出てきたのかもしれない。人さまのほうが根負けしたのかもしれない。強力な生命力。しかし私は、厄介なのかもしれないが、緑の少ない都心に建物とともに生き続けている姿が目に優しいので気に入っている。

まるで「ラピュタ」の城に出てくる廃墟のような建物、先日火災を起こした建物である。写真は数ヶ月前に特長ある都会の風景として記録していたもの。

火災の原因の消息が入ってきた。ある女性が屋上の部屋を借りていた。この女性、部屋にごみを溜め込んでいた。ごみの種類によっては売りに出せる。しかし彼女、そんな素振りもなく溜め続けた。住民からも文句が出て当局がしばしば勧告するもそのままになっていた。部屋に備えた電子蚊取りが明け方に山積みされたごみを燃やした。頭にきたのはその部屋を貸していた大家だろう。屋上の増築はもともと違法建築の部分、今後は建て直しもできなくなった。

余談:火災の当日、ほぼ鎮火したので戻る途中のこと。大通りをタクシーから降りてきた女性を目にした。中年の女性。私に向かって尋ねる。「火事はどこ?」。目元が当惑し顔が引きつっている。バックを開き鍵束を探しながら火元に向かっていった。明け方五時半のこと。お水系の方には見えない。何があったのだろう。

Wednesday, October 13, 2010

[台北] 夏の雲・秋色の空

昼飯時、朝方の火災現場を訪れてみる。現場は跡形もなく片付けられていた。ただ火元の屋上から道端に、六時間も立っていたにもかかわらず、途切れることなく水が流れ落ちていた。向かいの自助快餐店前では、消火栓を修理するおじさんが名残を留めていた。

狭い路地裏通り、覗ける空も狭い。見上げると夏の雲と秋のうろこ雲が半々に交じり合っていた。
「秋かー、どうする日本......」、思わず一言口をついて出た。

Tuesday, October 12, 2010

[台北] 今日の出来事 - 朝火事

外がやけにうるさい。いつまでも花火が打ち上げられているかのようだ。そして女性の緊迫した声が聞こえてきた。カーテンの向こう側が赤く染まっている。まだ空が開け切る前に起きた火事。それも私の部屋から百メートルも離れていない裏通りで。

出窓越しに見てみる。火の手は強くなり、赤い炎も勢いを増す。あたり一帯サイレンの音でいっぱいになる。下に降り、現場へ。すでに大勢の人たちが思い思いの服装で消火活動を見ていた。

火災もとのアパートに上がる階段から水が流れ出している。一人、おじいさん、そこへ入っていこうとしている。若い女性がしきりにおじいさんの袖を引っ張って止めようとしている。おじいさんが何かを口にした。女性が聞く、「何階?」 「四階だよ」。火の手の下の階だ。女性が返答すると、おじいさん、あきらめた様子でその場に立ち尽くしていた。

火元は立ちこんだ裏町の四階建ての長屋。その屋上階に増築された部屋。すでに隣家に延焼していた。放水車のノズルが四方からこの部屋に向けられていた。表通りはというと消防車の列。次から次へと増えていく。路上の消化栓に何本ものホースが突き刺さっていた。

しばらくして鎮火にむかう。戻ることにして家のある通りに出ると路上は煙でもやっていた。負傷者のでなかったことを願って部屋に戻るも気持ちが落ち着かない。そこで朝一番のブログ更新となった次第だ。

Saturday, October 9, 2010

[台北] 時が刻んだもの 時とともに消えたもの

TPadで送られてきた電子書籍を読む

・久しぶりに厦門の姐姐からショートメールが届いた。「ジジイ 身体の調子どうなのよ」 「老頭子、最近身体好嗎(口+馬)?」 [lǎotóuzǐ、zuìjìn shēntǐ hǎo ma?] [ㄌㄠˇ ㄊㄡˊ ㄗˇ、ㄗㄨㄟˋ ㄐㄧㄣˋ ㄕㄣㄊㄧˇ ㄏㄠˇ ㄇㄚ˙?] 。彼女流の心のこもった問いである。
日本の老友からも同様なメールをいただいている。ブログ更新なし、メールの返事なし、心配していただいている。時を経ても何らかの形で繋がっていることに、感謝したい。

・かつてのMac仲間からメールが届いた。ご一緒にMac本を作成させていただいた方からだ。そのホンがPDFの電子書籍になって蘇っていた。「Machintosh Desktop Architecture Guide - Macで建築を考える」の電子版。紙の印刷物からデジタルデーターに。1992年出版だからまだ二十年たっていない。なにか大昔のような気がしていたのですが。お疲れ様でしたiGaさん、感謝です。
このとき書いた「アイデアプロセッサとしてのMac」という考え方はいまだ変わっていないですね。もちろん「Mac」を「PC」に「スマートフォン」に「タブレット」に置き換えてもいいんですけど。

・F1日本グランプリが鈴鹿で始まった。1994年の春先英田を、そして秋に鈴鹿を訪れた。しかし春に目にした一人の男が秋には姿を消していた。アイルトン・セナの死。

・フェルナンド・アロンソ(F1ドライバー)「昨日の夜遅くに鈴鹿に到着して、すぐに衝撃を受けた。多くのF1の人間に人気がある伝統的なイタリア料理店の“カンパネッラ”がなくなっていた。90年代にカートのレースで初めて鈴鹿に来たときからそこに行っていたので残念だよ。今と同じホテルだったし、このサーキットのたくさんの良い思い出がまさにその最初の経験と結びついている」 http://goo.gl/2Eim

・むかし、小田急デパート地下から千疋屋が消え、代わりにおいしいケーキ屋がはいってきた。クリスマスが近づくと千疋屋にかわってこの店でケーキを買い、事務所のスタッフと口にしていた。翌年も同様にその店で購入して戻った。ところがスタッフいわく、「最近この店はやらないんですよ、今は○○のケーキが一番ですよ」。私に流行廃りは縁がない、おいしいかどうかなのだ。これでは店は育たない。老舗とは店と客が一緒に作り上げてきたものでしょうに。

Thursday, October 7, 2010

[台北] 今日のニュース - ユニクロ開店

今日、ユニクロが台湾でお店を開いた日でした。

[厦門] 港が......見えなくなっていた

今年の七月末、馴染みのサービスアパートメントのいつもの部屋にチェックインした。カーテンを引き外をのぞいてみた。東渡国際埠頭の屋根は煌々と輝いていたものの、見えたのはそのホンの一部に過ぎなかった。

この辺りの風景は訪れるごとに変化している。国際埠頭一帯は総合開発の最中である。はじめにフェリー、続いてマンション群、そして今はホテルとオフィス群の建設が進められている。
始めてこのアパートを利用したのが二年ほど前だろうか、港に面した部屋からは向こう岸の、それも建設最中のマンション群が見えるだけだった。それがどうだろう、港の風景は建物の隙間にしか存在しない。いまだ厦門は開発真っ只中なのだ。

定宿をサービスアパートメントと呼んでいるが、日本流にはウィークリーマンション。1DK。おそらく投資用に購入した家主、これをマネージメント会社が借り受けてホテル代わりに貸し出している。部屋はマンションのあちこちに点在している。必要最低限な調度品備わっていて、ネットに接続もできるし、やる気になれば食事も作れる。実際長期滞在中に作ったこともある。

特に私が気に入っているのは洗濯機のあること。何しろ洗濯が面倒くさい。一般のホテルでの下着類の洗濯を入浴と一緒にシコシコと洗うのががいやでしょうがない。だから選んだのだ。服務員も最少の人数、その分割安だ。価格は年毎に値上げされているものの、一晩120元台から140元台、日本円で1600円台から2000円。それでいてこぎれいな超高層マンションの一室であり、そして安全である。これは私のような外国人にとっては重要だ。なおかつ超高層マンションには必ずといっていいほど1階に便利店、小さなコンビニのあること。下にいけばほとんど用が足せる。

このマンションにはあと一つ部屋をマネージメントしているところがある。初めて利用しようとしたところ、間違ってこちらに入ってしまった。話が違ってネット接続ができない、部屋は小さい。予約してくれた友人に問い合わせたところ、違う違うあの階のあの部屋でチェックインしてくれという。すでに支払いを(ここでは必ず前払い)済ませている。もう戻ってこないよ、そのお金。いわれて交渉した。取り戻しましたね。珍しいですよ、と元来のホテルの人。間違いの元をつくったオバサン、今回も顔を合わせて「商売どう?」、「アンタいないからだめだよー」。恒例の挨拶になっている。

しかし今月の厦門訪問ではここを利用しない。もと租界の島、コロンス島を滞在地に選ぶ予定だ。