1990 年代初頭、勃興期にあった東アジアを肌で感じ、書き綴った旅の記録です。 建築総合雑誌 "at" 1990年5月号から1992年4月号まで二年間にわたって連載されたものを、雑誌社の好意によりWeb Magazineとして再録しました。その後の東アジアを「10年後記」で述べています。写真は北田英治氏 (Oct/30/02)
第一回は東アジアの共通文字「漢字」にまつわる話
十数年前までは中国語をパソコンで扱うことなど、一般の人間にはほとんど考えられなかった。台湾のIBMを訪れた後、日本IBMに中国語を扱いたいのだけ れどと電話を入れたが、当時のIBMは個人ユーザーにはけんもほろろ、相手になどしてもらえなかった。この時からしばらく、決してIBMユーザーにはなる まいと思った。結果、IBMは個人ユーザーの必要性への決断を迫られることになるのだが。
それからしばらくして、友人がモンゴルの留学生を事務所に連れてきた。すでにマッキントッシュではOSレベルで中国語が簡単に扱えるようになっていた。そ んなことで、モンゴル語がパソコンで使えないだろうかということを知りたがった。ちょうどモンゴルはロシアから自立を図っていたとき、それまでの公用語の ロシア語からモンゴル語がパソコンで使える必要があった。
パソコンで外国語を扱う「お助け寺」でならしていたマキ・エンタープライズの野原さんに電話を入れてみる。「もちろん可能ですよ、ですがソフト開発に○○万円はかかります」で、話は終わってしまった。当時のモンゴルではとてつもない金額だった。
野原さんの話の中で興味深いことがあった。世界中には五千から七千という言語が存在し使われているという。今後、パソコンに移植できない言語は間違いなく 淘汰されるだろう・・・。言語はそれを使う人たちの文化を形成する源である。もし、それらの言語が失われるならば、それらの文化も思考構造も精神構造も失 われることになるのだから。
台湾では、戦後蒋介石とともに台湾に移ってきた外省人と呼ばれる人々が入ってくるまで、台湾語が使われていた。 もちろん今でも多くの人たちが使っているが、都市の若者たちは話すことができないという。できても味わいのある語り口にはほど遠いという。
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