1958年8月23日から10月5日にかけ、中国人民解放軍が中華民国の金門島に侵攻すべく砲撃を行った戦闘、金門砲戦のこと。攻撃が起きた日にちから八二三砲戦と呼ばれている。砲撃開始の一晩に五万発以上の砲弾が島に降り注いだそうだ。
島は花崗岩の塊であり、海岸線に、山間に洞窟を掘るだけで立派な要塞と化していた。島民以上の兵士が常駐していたという。目と鼻先、僅か1.5km足らずの先に毛沢東の軍隊が島を奪還しようと虎視眈々としている極度の緊張状態に置かれていた蒋介石の兵士たち。
開戦時に米国は金門の放棄を中華民国当局に要求したものの、蒋介石はこれを断固として拒否したという。米国は仕方なく付き合うことになるのだが、ひと月半後、毛沢東の軍隊は島の奪還を放棄する。彼は蒋介石に負けたのだ。
Wikipediaによると、この砲撃戦で島には47万発の砲弾が撃ち込まれ、砲弾の弾殻に非常に硬質な鋼が使用されていたので、金門の住民は不発弾等を再利用して包丁を製造するようになり、これらの包丁は金門包丁(金門菜刀)として金門を代表する名産となっている、と書かれていた。また、米軍が提供した23サンチ砲の砲弾やケースは、島が解放され、観光化された今、戦跡のあちらこちらで嗜好を凝らして展示されていた。
私が関係している事務所の二人が兵役で金門島に逗留していた。一人は島で一番高い山、といっても三百メートルもない岩山、太武山の地下壕に一年半を過ごしている。もう一人は、向かいの島、厦門(アモイ)と金門島のあいだの航路、今年から中断したままのもうひとつの航路から見える小さな島、彼曰く二十分あれば歩き回れる島に駐留したそうだ。
砲戦後とはいえ、今のように二国間での交流の始まる前、緊張感がまだまだ残っていた時期のことである。兵役が決まって、誰もが貧乏くじを引きたがらなかった金門島での一年半である。
八二三砲戦の詳細についてはWikipedia日本版を参照していただきたい。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%96%80%E7%A0%B2%E6%88%A6)