Tuesday, October 6, 2015

金門島:八二三砲戦




この島にまつわるよく知られた数字がある。八二三と八三一(幺 yāo)。共に金門島を死守した中華民国国民党軍と関連している。で今日は八二三について。

1958年8月23日から10月5日にかけ、中国人民解放軍が中華民国の金門島に侵攻すべく砲撃を行った戦闘、金門砲戦のこと。攻撃が起きた日にちから八二三砲戦と呼ばれている。砲撃開始の一晩に五万発以上の砲弾が島に降り注いだそうだ。

島は花崗岩の塊であり、海岸線に、山間に洞窟を掘るだけで立派な要塞と化していた。島民以上の兵士が常駐していたという。目と鼻先、僅か1.5km足らずの先に毛沢東の軍隊が島を奪還しようと虎視眈々としている極度の緊張状態に置かれていた蒋介石の兵士たち。

開戦時に米国は金門の放棄を中華民国当局に要求したものの、蒋介石はこれを断固として拒否したという。米国は仕方なく付き合うことになるのだが、ひと月半後、毛沢東の軍隊は島の奪還を放棄する。彼は蒋介石に負けたのだ。

Wikipediaによると、この砲撃戦で島には47万発の砲弾が撃ち込まれ、砲弾の弾殻に非常に硬質な鋼が使用されていたので、金門の住民は不発弾等を再利用して包丁を製造するようになり、これらの包丁は金門包丁(金門菜刀)として金門を代表する名産となっている、と書かれていた。また、米軍が提供した23サンチ砲の砲弾やケースは、島が解放され、観光化された今、戦跡のあちらこちらで嗜好を凝らして展示されていた。

私が関係している事務所の二人が兵役で金門島に逗留していた。一人は島で一番高い山、といっても三百メートルもない岩山、太武山の地下壕に一年半を過ごしている。もう一人は、向かいの島、厦門(アモイ)と金門島のあいだの航路、今年から中断したままのもうひとつの航路から見える小さな島、彼曰く二十分あれば歩き回れる島に駐留したそうだ。
砲戦後とはいえ、今のように二国間での交流の始まる前、緊張感がまだまだ残っていた時期のことである。兵役が決まって、誰もが貧乏くじを引きたがらなかった金門島での一年半である。

八二三砲戦の詳細についてはWikipedia日本版を参照していただきたい。 
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%96%80%E7%A0%B2%E6%88%A6)




Sunday, October 4, 2015

金門島:「58」の文字がひときわ冴える金門高粱酒



金門島といえば高粱酒、それもラベルに自慢げに書かれた58の文字。そう58度を表している。これが旨い。38度ってのもあるのだが、わたしには水っぽくて口に合わない。

金門島には田んぼが無い。雨が少なく、島自体が岩でできている。おかげで稲作ができない。できるのは高粱。酒が売りの島となった。

今でこそ向かいの大陸から飲料水を買っているものの、かつては島の至るところに溜池を掘り、耐え忍んできたという。兵役をここで過ごした友の話では、体を洗えるのは週に一度きりだったそうだ。

金門高粱酒は土生土長を代表する金門の特産品である。うまいですよ、本当に...



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金門島:民俗村の餐廳の厨房は手入れがよく行き届いていた


山后民俗文化村(十八間大厝)(金門民俗文化村)には、伝統的な民家を利用した売店や地産料理を提供する食堂があったりする。

私が訪れた日、中秋節の連休前、客足は細く、かつ夕暮れ時だったこともあってか、人影は少なかった。 ぶらぶらと立ち並ぶ民家の路地を歩きながら、ふと目にしたのがこの写真。じつに手が細やかにかけられている厨房機器。使い込まれた鍋釜、盆に鉢、レンジフードに油汚れなし。ここの主の人柄がうかがわれた。



Tuesday, April 8, 2014

花蓮:田舎の小都市を訪れると目にする古き良き時代の看板


Hualien: Tobacco and salt signboards of the old Taiwan Monopoly Company.
花蓮: かつての台湾鉄道花蓮港駅跡地脇、小奇麗なレストランの店先に吊るされていた旧台湾専売公社の塩と煙草のホーロー製看板。

先日訪れた花蓮は様変わりが激しかった。多くの若者たちが集まり、彼ら好みに設えられたブティックやスナック、レストランが至る所で見受けられました。そして、おそらく、これらのオーナーたちが若いだろうと想像もできた。しつらえもメニューも手作りだったり、あるのもは利用し無いものは自分たちで作ってしまえ、大人がダメなら俺達私達で…的なセンスに溢れていました。

ひとにぎりのお金を財布に起業するにはいい場所なのかもしれませんね。



Sunday, April 6, 2014

花蓮:折に触れて三十年 林田山・森坂からメッセージ



 三十年近く前、’at’という建築雑誌の編集者と気ままにネタ探しの旅していたときのこと、台北の飲み屋で次はどっちを向こうか... 何があるかわからんけど花蓮なんかどうだ、しかし右も左もわからない、案内役がいるな...。飲み屋がハネて店のお姐さんたち誘って夜食にお粥を食べに出かけました。そこで聞いたんです。これこれの事情で花蓮方向に出かけようと思っている、誰か詳しい人いない?アテにしていませんでしたが一人のお姐さん手を上げました。

彼女が案内してくれたのは、 彼女の家、亭主の働く林務局・営林署の官舎でした。古びた木造住宅の官舎が集落をつくっていました。日本時代から続く檜の伐採の集積場所、それを管理していたところだったのです。既に伐採は禁じられ、かつては栄華を誇ったというここ林田山、土地の人たちが日本統治時代から「森坂」と呼んでいたところです。軌道をなくした駅舎跡を利用した雑貨屋だけのホームに編集者とゴロンと寝転がり、青空と迫った緑の濃い山を眺めながら「トトロが住んでいるみたいなとこだな...」とつぶやいたものでした。

台湾にはいまだに日本統治時代の産業遺産が多く残されていると知った私達は、その後台湾の日本官舎を、雑誌に「三つの村」と題して発表します。林業の森坂、鉱山の金瓜石・九分、塩水の台湾製糖工場です。

金瓜石・九分はホウ・シャオシェンの映画のロケ地として使われ、観光地に変貌してしまいます。様変わりは激しく、彼は後にそのことを強く嘆いています。
塩水の製糖工場はというと、平地、サトウキビ畑ですから平地でなければ成り立たない、開発にはもって来いという事で、立ち並ぶ日本家屋も防空壕も今では姿を消してしまったそうです。

「森坂」は少年時代に田舎をもたなかった私のキンダーブックになります。台湾にやってきた際に必ず立ち寄る場所になります。しかし木造住宅は年を取り、定年を迎えたこの地に住む営林署の職員は住み続けることが許されず、一人また一人と姿を消し、空き家が目につくようになります。建物の痛みが始まりました。なんとかこの村を残せないものだろうかと、日本の雑誌で取り上げてもらったりしましたが、当地の林務局は動かない。 それでは村の記録だけでもと、ある雑誌の取材の際に同行した院生の耳元で囁きました。「卒論、ここにしたら?」。

彼女は研究室一同七名とともにやってきて、村の変遷を、住民にヒアリング、住宅の利用形態の変遷を記録していきます。論文の完成後、報告とこれから村の姿を話しあうためのシンポジウムを開きました。

下に記した文は、その際ご厄介になった職員の方と先日再開した際、論文を作成した女性の近況を私に問うた返事になっています。

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Hualian: Morisaka Graduate's Association...
花蓮:林務局花蓮林区林田山林業文化園区・突然の森坂同窓会


写真左から
荘さん−林務局職員
林さん−林務局退職後文化園区案内センターにてボランティア活動中
李さん−台北市易之網董事長
李夫人−台北市都市計画局退職後計画局相談役

加藤さん、荘さんから切実なメッセージを頂いております。「加藤さん、今どうしていますか。よく整備された今の林田山を見に来てほしいのです。あと三四年で私も退職です。加藤さんが調査された村から、この林業の村から私は出ていかなければなりません」。
私からは加藤さんの今の状況を説明しておきました。次回、私がここを訪れる際には引っ張ってきます。それまでここにおいでですよね、と話すと荘さん「願わくば願わくば...」と手を合わせておりました。


林務局で働く原住民、阿美族の友人ケンちゃんはあいにく不在でした。ケンちゃん、新しいカミさんと問題なく過ごされておいでのようです。ケンちゃん、昔は 酒が好きでオンナが好きで檜の維持管理で山に入るとひと月降りてこないという生活していたんですね。「モリサカ」っていう野球チーム編成したりしていた。 紅葉少年野球隊やKANOの影響を強く受けていたんですね、原住民は。
 
この地は日本統治時代に檜や松、樟の木の伐採で賑わった地。十年前の公共電視台連続ドラマ「風中緋櫻」、原住民の反日反乱・霧社事件をテーマにした話のなかで何度となく登場しています。
(4月4日訪問)


Saturday, April 5, 2014

花蓮:台湾の産業遺産についてちょっと考えてみる...


Hualian: Industrial Heritage - a_ZONE - Drainage palate which treated the type of alcohol that is manufactured in Hualien brewing old factory.
花蓮:産業遺産 − 花蓮酒造工場跡地 “a ZONE” 当時工場で製造された酒の種類をあしらった排水口蓋


台湾が自分たちの歴史を語るとき、特に近代、そのほとんどを日本が残していった遺産について語ることでした。近代建築史しかりです。こちらの職人さ ん、年老いた大工さんに話を聞いた時でも、その大部分が日本人技術者との交流についてなんです。じゃ台湾独自の歴史じゃないのでは、当時そんな思いでし た。

現在でもそんな状況は大きく変わっていない。花蓮酒造工場跡地だって日本統治時代の酒造工場を引き継いで発展させてきた。しかし今私の考えは変わっ てきています。台湾ってそもそも数百年前までは原住民だけでしたし、彼らの文化が台湾の文化だった。それがオランダ人がやってきたり、鄭成功なんていち地 方の豪族だったでしょうし、清朝の軍隊がやってきて占領したり、日本がそして蒋介石が。いろいろ入り込んだ混血の文化。

今、世の中、世界中、ネットによって文化の混血が始まっている。台湾は先行していた。上手く混じり合ってきた。かの地のように「真理は一つ」なんて考え方はしない。多種多様。享受力がある。

私がここに留まる言い訳にできるとてもいい口上なんです。