Monday, July 18, 2011

[台北] 司馬庫斯原住民部落がめざす自立と自冶

今月はじめ「司馬庫斯」という聞きなれない地名を冠したドキュメンタリーが放映された。


司馬庫斯は新竹県新竹から竹東に向かい、さらに尖石を越え、山あいのそのまた先にある泰雅族(タイヤル族)の部落、廃村寸前の村を頭目の努力により28戸178人の住民が共同経営・自主管理を実践する部落である。


彼らの生活は早朝の会合から始まる。参加者の確認、その日の仕事内容を説明し段取りをする。観光客受け入れのための宿泊施設の準備、食材の確保、サービスの段取りをする。共同で畑を耕す。とくに小米は原住民にとって今まで彼らを支えてきた穀物は疎かにしない。収穫祭での主役である。そして水蜜桃と観光が最大の収入。


共同経営に参加する部落民は給料一律、上下関係なし、年齢に関係なく男性が1万1千元女性1万4千元。男女差があるのは、育児・畑仕事以外に観光客用の賄いを担当する女性の労働負担が大きいから。
冠婚葬祭などは部落が面倒見る。小学校が土地面積不足土地供出でないと政府援助できないならと、自前で建設し、分校として認可をとり、部落民の有志が教師となり子供たちの教育をおこなっている。そこにはタイヤル族の言語や文化の継承という目的も含まれている。


しかし観光客の車の管理、彼らがもたらすゴミ、共同トイレの清掃など負担も大きい。ゴミと公共トイレの清掃、車の管理にかかる経費を回収するため、部落入り口にゲートを設け課金するも、政府からは道路上は公共用地ということで違法とみなされ中断してしまう。自然環境保護の上でも車を制限したい。彼らは今、シャトルバスで観光客を出迎える運行を考えている。


さらに部落民すべてが一体となっているわけではない。なかには個人で事業を考える人も。彼には先祖代々受け継いできた少なからぬ土地があった。それを手放すわけには行かない。活かさなければ祖先に顔向けできない。しかし彼の事業は成功に向かっていない。資金は底をつきかけている。問題は彼の事業が行き詰ったときのこと。部落以外の人に土地を手放したり、外からの資金が流入し、部落民のなかからより高収入な道を選ぶ人間がでてくるやも知れない。安定してきた共同経営方式・経済環境が変ってしまうかもしれない。

[video: 司馬庫斯 A Year in the Clouds 預告片]
問題はそれ以外にもある。法律。山あいの原住民部落のほとんどは国家公園区域内。色々な法律が関わっている。国家公園法、森林法、自然保護法、水利管理法などなど無数の網がかけられている。これらの法律と、原住民基本法とのせめぎあいが今おこなわれている。自立のためにはこの問題を避けて通れない。自立できな原住民に自治もない。”飄搖的竹林”のテーマ、土地を持てない原住民、かつて親父が植えた竹林で竹の子を取るだけで罰せられてしまうのだ。

六年前、櫸の巨大な風倒木が台風で下界とつなぐ一本の道をふさいだ。部落民は会議を開き、この木を部落内に飾る彫刻に利用しようとした。結果はどうだろう。国家公園を管轄する林務局から訴えられ、三名の部落民が有罪判決を受けることになった。彼らの生活環境を維持管理することは部族民として当然の権利なはづが犯罪とみなされた。頭目は部落一丸となりこの問題に取り組み、昨年初め、高等裁判所から無罪判決を勝ち取っている。その後国側が上訴したのかわからないが、そもそもは地方裁判所の判事が原住民基本法に原住民に無理解だったことが原因といわれている。
これに類した出来事は司馬庫斯部落だけではない。各地で問題が発生し、しばしば報道されている。

司馬庫斯原住民部落がめざす共同経営・自主管理という”国中有国”の継続は可能なのだろうか。かれらの活動を見守り続けたい。

Monday, July 4, 2011

[台北] David Darling & The Wulu Bunun

[video: Bunun + David Darling 霧鹿布農族 布音合唱團]
私は”音楽”に関して門外漢である。好きなだけだ。ジャンルにこだわることもない。好きと感じればそれが私の”音楽”になる。ただ”なぜ好きになったのか”を探ることが好きだ。音の"由来"を探ってみたり、なぜなんだと”分析”してみたりする。これは私の仕事柄(主に建築デザインのプログラミング)からくる習性みたいなもので、この一連の行為が脳みそを活性化させるのに役立っていると思っている。

最近もっぱら台湾原住民に関わるあれこれを覗いている。興味深い。私の思考のお手本になっている。彼らのライフスタイルや文化は間違いなくトレンドになるはずだ。

台湾原住民族は歌と踊り、最も人類の根源的な衝動を表現することに長けている。なかでも布農族の「音」は人を引き付ける。これは私が感じるくらいだから、西洋音楽系の連中が見逃すはずはない。そうなると、いったい彼らの「音」はどのようにして組み立てられているのか分析したり再構成しようとする試みがなされて当然だろう。

David Darlingという米国人チェリストが布農族の「音」に魅せられた。環境音楽系の演奏家でコンポーザーというのか、私には映画のBGMで知的な音を映像に与える作業が印象に残っている。
彼が布農族の布音合唱團とコラボしたフィルムを目にした。台湾東海岸、米どころの池上郷から山あいに入った霧鹿部落、そこでDavid Darlingと布農族布音合唱團のフィールドレコーディングがおこなわれている。

どのような情景のもと、どのような人たちが、どのように参加してこの録音がおこなわれたか、映像を見ていただければいい。私は、計画されていたとはいえ、この即興演奏が好きだ。絵と音と重ねて見ながら聴いている。

このとき得た「音」の体験は彼らにとってかなり衝撃的だったらしく、別のビデオクリップで流れるテロップには・・・
「下山の支度を終え、録音の結果を、撮影はどうだったかを気にしながら帰路につく。その道すがら、「我々の音楽は、天上から降りてきた音なんです」という布農族の友人の言葉を思い出した。・・・途中我々一同言葉を交わすことはなかった。」
とある。
[video: 勤快的小孩 by 霧鹿布農 Bunun, Wulu and David Darling]
映像は夕刻の山道をただただ映し出すだけだ。そこにレコーディングした布農族の音とDavid Darlingの弦の音を重ねている。

このとき収録されたいくつかの曲は、デジタル処理され、ECMレーベルから「David Darling & The Wulu Bunun / Mudanin Kata」というアルバムになっている。非常に綺麗な仕上がりだ。ある意味あまりに綺麗すぎてなにかが欠けてしまっていないだろうか気になってしまった・・・。