Wednesday, February 16, 2011

[台北] 高一生と高慧君

[写真:高一生 原典:護國臺灣神高一生 ]
高慧君はある音楽会に参加している。2006年5月19日に開かれた『鄒之春神 高一生 音樂・史詩・歌』、サブタイトルには - 山なみを歌声で音符で春の風景を描く - 。原住民の著名な音楽関係者に混じって、高慧君は日本語で書かれた歌「長春花」とツォウ語・彼女の母語と日本語の曲「狩猟歌(鹿狩り)」を披露している...。

日本が台湾を占領してしばらくたった二十世紀初頭の1908年、海抜千メートルを超える阿里山(現在の嘉義縣阿里山鄉)の原住民ツォウ族の部落に一人の少年が誕生した。Uyongu Yatauyunganaという名の達邦蕃童教育所に学ぶ少年は、その聡明さで嘉義市内の旭小学校に転入する。父親が突然の事件で殉職すると、日本人警部の養子となり日本名矢多一生を名乗ることになる。日本の敗戦。代わって蒋介石の軍隊がやってくる。矢多は阿里山鄉の鄉長と駐在所の所長を兼任する。彼は漢名の高一生を選択する。高砂族の「高」と原住民の英才という意味で高一生とする。

矢多一生は台南師範学校に入学し、教師になる教育を受ける傍ら音楽と文学にも造詣を深める。特に音楽には深く傾倒していたという。卒業後は部落に戻り教師と警察の職を兼務、竹の子の品種改良など部落の農業の発展にも功績を挙げている。その傍ら日本語や族語で多数の作詞作曲をし、そのなかの一曲「狩猟歌」は当時台湾総統府で披露されている。

高一生のお嬢さんが父親のことを語っている。
「...朝、学校に遅れないよう子供を起こすのに普通の家ではお母さんが声をかけていましたが、私の家ではレコードなんです。」

[Paicʉ Yatauyungana 高慧君]
『鄒之春神 高一生 音樂・史詩・歌』の出演者紹介欄には

高慧君: 是當代流行音樂界一個難能可貴的歌手,
她純粹的唱腔與美麗的聲線, 都源自於她鄒族的家族傳承,
因為她是高一生先生的孫女,這也是她第一次公開演唱祖父的歌。

と紹介されている。高慧君は矢多一生・高一生の孫娘である。そしてこの音楽会で祖父が作詞作曲した歌を自ら初めて披露している。高一生の歌を孫娘でポップス界のベテランが”初めて”公開の場で歌ったという。
この音楽会の前年、「歳末総統府音楽会」が開かれ、総統を前に一生の二曲が披露されている。しかし歌ったのは高慧君ではなく阿美族の小美である。ビデオが残っている。非常に綺麗な曲である。民族衣装の小美も美しかった。

高慧君が祖父について語っている記事に目を通したが、彼女の誕生を前に孫娘の顔を見ることなく亡くなった祖父はやはり遠い存在なのだろうか、頭のよい彼女、祖母から聞かされた祖父のことをしっかり話していた感を受けた。むしろ仕事で不在な両親に代わって面倒を見てくれた祖母の印象、彼女が深く高一生を愛し続けたという思いを強く記憶している。祖母は高慧君に「當風吹向你的臉、像我撫摸你的臉、山林裡面的聲音就像我對你說話」と話しかけたという。私には詩のようなこの一節は翻訳できない。

日本の敗戦。蒋介石の軍隊がやってくる。矢多は阿里山鄉の鄉長と駐在所の所長を兼任する。彼は日本名に代わって漢名の高一生を名乗る。しかし映画「悲情城市」の背景となった二二八事件に巻き込まれ処刑されている。1954年のことである。

娘さんのお話。「...父はよく言っていました。中国人がやってきて、日本人がやってきて、そしてまた中国人がやってきた。私たち部族は...」。父は部族の自立が自冶が必要だと考えるようになったていたという。

原住民族電視台を見ていると感じられること。原住民の若者は町に出る、都会に流れる。職を見つけられず、都会生活になじめず、一部のものは部落に戻ってくる。部落に戻ったから生活できるかというとやはり難しい。仕方なく海辺で何をすることもなく時間を過ごす。しかしそのなかから意識的に部落に戻ってくる人間が少なからずでてきている、という記事をしばしば目にする。彼らの口からは「伝承」「部族」「族人」「族語」「現代化」「自立」という言葉が聴かれた。台湾全土2千3百万の人口のうちわずか50万人の原住民、彼らは何を考えどこに向かおうとしているのだろう...。

高慧君・彼女は自らの歌手生活は三つの時期に分けられると語っている。この三つの時期を見てみると、彼女が匿名の原住民に代わって彼らが彷徨してきた時代の代弁者のような気がしてくる。

こちらに「歳末総統府音楽会」のビデオがアップされている。10分と長いが、前半は高一生の紹介。紹介するお二方は原住民の歌手。女性はTV番組で司会者も勤めている林佩蓉。男性は素晴らしい歌唱力と低音が魅力の胡徳夫。ついでにWikipedia Taiwanからお二方の簡単な紹介をすると、林佩蓉氏は花蓮阿美族。2004年部族名「Ado’Kalitaing Pacidal 阿洛.卡力亭.巴奇辣」に戻している。TVでみる彼女のテロップは「阿洛」。胡徳夫氏は台灣卑南族。「台灣民歌の父」と呼ばれ「台灣原住民」運動の先駆者。彼の創作歌曲が歌う《美麗島》は戒厳令時代に禁歌とされ、長期間TVおよびラジオへの出演も禁じられた。]
(追記:正しい情報を得るのは難しい。「美麗島」の作詞と作曲はおのおの別の方がなさっておいででした。この題名は台湾の民主独立運動に使われたり、原住民族の運動に使われたりと歌自体が翻弄されてきた歴史がありそうです。機会があれば話題にしたいと思っています。 03/Apr/11)

3 comments:

fumanchu said...

少しYoutubeを聞いてみました。胡徳夫さんのおしゃべりは卑南語なんでしょうか、さっぱり分からないのですが、「がっこう」と「きょうかい」というのが、日本語の発音ですね。最初に出会ったときに聞いたのが日本語の発音だったのでしょう。

高一生の「長春歌」も聴いてみました。「フロフスの花」という歌詞があるのですが、どんな花なのでしょう。「クロッカスの花」だと、20数年の「軍国」の時代を隔てて、「大正モダン」が再び花開いた228前後の雰囲気にぴったりなのですが。

幌馬車之歌
http://dehoudai.exblog.jp/12504430/

も1950年代に再生した「大正モダン」だと思います。そう考えると1990年代の台湾の雰囲気は1945年からの数年間に似た「お祭り期間」であった様な気もしてきます。

fumanchu said...

「長春歌」聴いてみました。「フロクスの花」というのが分かりません。「クロッカスの花」なら、1945年8月15日以降、短い間台湾で咲き乱れた「大正モダニズム」という感じがします。1990年代の台湾もあの頃と同じ「お祭り期間」と思います。

幌馬車之歌
http://dehoudai.exblog.jp/12504430/

burikineko said...

ハナシノブ科フロクス属の花だそうです。きっと阿里山村の野山に咲き乱れていたのでしょうね。

なお胡徳夫は国語で話しています。
原住民の会話には族語に混じって日本語が混じっていますね。