Wednesday, September 29, 2010

[花蓮] 「森坂」まで足を伸ばしていただけますか?

今年七月下旬、ビザ更新で厦門から戻ったその晩電話が入った。「明日花蓮に建物を見に行くけどいいね」。「アタシャ疲れている、別の日にしない?」 「いやいや早いほうがいい」。ハイハイハイと生返事で承諾した。

台湾で今流行の建物は打ち放しコンクリートなのだそうで、これは日本の建築家、安東忠雄氏の影響が大きいらしい。建築雑誌にも彼の作品を模した建物が多く見受けられる。打ち放しコンクリート造の欠点を述べ伝えても施主が気に入っているの一言で決まってしまう。ある小さな施工会社がこの打ち放しコンクリートを売り出したいと考えた。実験的に花蓮で試した、それを見てくれというのだ。

台湾の東海岸、太平洋に面した一帯の風景は荒涼としている。海べりから始まる急峻な崖地、強い海風。大陸に面する西海岸の、穏やかで平坦な土地とは大きく異なっている。花蓮から車で一時間、南へ南へ移動したとある小さな町近くの荒涼とした場所にその建物は建っていた。技術的には平均的だったし、内部も打ち放し、若く当世風を好む人間でなければなかなか住みこなせそうにない。塩害への配慮も乏しかった。

帰路につく際、私はひとつお願いをした。寄り道をしてほしいと。不審顔の面々。車は海岸線から山越えで内陸の幹線道路へと移動、単線の鉄道駅・萬榮をすこし、花蓮寄りにある「オバサンの豚足」屋の角を山に向かって入っていく。「森坂」と呼ばれるこの地は、かつて日本占領期に栄えたヒノキの積み出し基地のあったところである。今でも台湾政府が引き継いで風倒木の管理などを主な仕事にしている。営林署のある建物に入り人を探す。受付で彼の名が呼ばれると、不振そうに私を眺める彼。「覚えておいでですか?」 一呼吸おいて 「アー、ブリキネコさん!」。

始めてこの地を訪れたのは二十数年前のこと。マイナーな雑誌だったが、気骨のある編集者と台湾をしばしば訪れてネタを捜し歩いた。台北で、ホテル近くのなじみのクラブで酒を飲み、「おーい、明日東海岸に出かけるんだけど誰か案内してくんないかなー」。一人の女性が手を上げた。

彼女が連れて行ってくれたのは亭主の住む官舎だった。それが森坂。すでにヒノキの切り出しは制限され、かつ山火事で多くのヒノキを失ったこともあり、衰退の一途をたどっていた。しかしここに残されていたのは旧日本官舎群、ヒノキ造りの木造官舎群。木材搬出用の山岳鉄道はすでに撤去され、わずかに一部さび付いた線路が残されているのみ。駅舎跡に小さな雑貨屋、真夏の昼下がり、私と編集者は横になる。私はフーっと息を吐き出し「トトロの住んでいる村みたいだなー」。

その後、我々は台湾に日本時代の旧官舎跡を探す。金鉱跡の金瓜石、塩水の製糖会社、それに林業の森坂を加え、「三つの村」と題してまとめた。

森坂の官舎群、東京生まれの東京育ちの私にはまるでキンダーブックでしか見たことのない風景そのもの。それにいまだ山の管理を行い、職員がこの地に住み、保存状態はほかと比べようがないほど良かった。今後もそのまま残っていてほしい、そう願い「再生森坂」というキャンペーンを始めた地方行政に組み込めることができるよう、日本から専門家を呼び寄せ、大学の研究室で学会の論文にここをテーマに選んでもらい、研究室全員がこの地を訪れ調査を行い、その報告をかねてシンポジウムも開いた。営林署の荘さんが窓口となり実現する。今回訪れた際、彼は当時のことを詳しく覚えており、懐かしそうに話してくれた。

シンポジウムが開かれた日の晩、住民の手作り料理を御馳走になり、写真に写っている広場では、参加した面々、客家人、福建人、タイヤル族とその酋長のお上さん、そして我々日本人、真夜中まで飲み明かした。

現在、ちょっと我々の意図とは違う方向に見えたものの、村はきれいに整備され、日本のガイドブックにも紹介されるようになり、村は観光地として今後生計をたてていけるように見受けられた。高度成長期のまっただ中にあった台湾、新と旧の混在した時代、私にとって最も魅力的な台湾だった時代である。

*写真: 森坂営林署前の広場。左に事務所、右の建物はかつての職員食堂。背景の山はそのまま四千メートル級の山々へとつながっていく。
*シンポジウムにはある新聞社の方が加わり、その記事が残されていたので掲載します。文末にリンクが貼ってありますが、どうやら切れているようです。繁体字です、御了承ください。


「主題報導/相會摩里沙卡~來自日本的森阪之友」

1996年6月有位東京都立大學研究生加藤三香子,正試圖尋找一個社區形村落研究居住民的組織與土地結構等,因緣際會的她發現了林田山。這個日本人為了產業需要而開發的日式居住村,令她驚訝的是,在日本目前也找不到的戰前日本官舍村落,卻在台灣花蓮一個叫萬榮的地方依然存在著,未遭到破壞而且被繼續使用著。
九月二十三日月六有在林田山活動中心有場主題為‘台灣林業村-森阪’的研討會,起源於1996年6月起,來林田山做論文研究的東京都立大學研究生加藤三香子帶著她的論文『關於台灣林業村『森阪』日式住宅之維持與變化之考察』回到林田山發表。

加藤的論文除了做林田山的、歷史背景書寫、住宅建築考據外,尤其以台灣光復後對原日式住宅所做之增改等變化之記錄為重點,並對林田山之未來的觀光產業規畫提出一番建議。

日治時代沿著河川開發成細長的社區,住戶的配置依自然環境之良疋、職能的高低予以分配建置,也就是以事務所為中心,以靠近鐵道配置中高級職員宿舍,較遠之地則配置下級或員工宿舍。另高級官員則建在事務所之上,斜坡景觀較好之地。當然,光復後再建的住宅,因為台灣人所建蓋,主要廚房改為水泥地接近台灣人習慣,屋頂採水泥則接近日式風味,還有透氣窗被封閉了,紙門變成木板門、踏踏米亦改為木板式地板。從這些現在尚存的建築物中可以觀察到不同族群因生活習慣的不同而改見得的化變遷。

加藤在提出的森阪規畫書中將目前的林田山規畫為以森林遊樂觀光產業為主的園地,從入口處有住民文化區、運動區、行政中心及野外活動散步區跟宿泊設施區。畢竟,隨著人口逐漸稀少,昔日的美麗林業村是否將一去不返,是很多人憂心的問題!

國立花蓮師院鄉土研究中心主任姚誠會中亦表示,像這樣的文化觀光規畫是很多關心林田山的亦曾設想過的規畫,包括文化局曾一度希望將之規畫為藝術家進駐的國際藝術村,但是如何兼顧到社區裡住存的現居民,才是最令人感到兩難的問題,如何不反客為主並兼顧居民的意願都是未來要考慮的方向。

日本NPO月非營利組織有綠色列島事務局長高橋純先生,十年前曾來過林田山,本身是詩人的他不僅帶來日本非營利組織的工作實例與大家分享,也一再呼籲認識自己的財寶、加以保護利用,營造更健康、藝術化的社會都是林田山居民應共同體認的。

同屬NPO的青檜之會主催者,本身是建築師的市川皓一則提出如何保存日式房舍及義工組織如何運用的作法,讓昔日的摩里沙卡成為『
匠的里』。

林田山有分特殊情感的大行征先生,每年會來林田山一次的他則提出傳統工匠技術在林田山之運用,他建議林田山可以將現有住宿改良並雇用工作人員,從事木材加工生產等附加價值的事業,再創林田山。自然景觀優m的林田山,日式風味的房舍一直吸引離去的日本人及遷出的居民常常來此流連回顧,檜木興建的日式住宅極具觀賞與居住的實用性質,他深深地相信林田山的未來不會消萎


文化局郭課長亦在場表示文化局已將林田山社區納入明年社區總體營造的重點社區了,她並響應NPO的理念,希望在地有心復興林田山,可以統合現有資源,與縱管處、萬榮工作站、林務局等單位相互配合,以達社區、文化、產業、生活等兼顧的總體營造。

參加的當地耆老以流利的日語與日本人士交談各項問題及交換意見,莊明儀先生亦精心準備了當地檜木製作的匾額『森阪之友』贈予日本友人留念,會後的餐點由豪邁的女里長親自煮了兩大席大餐招待,酒酣耳熱之際,拍照留念、敬酒自不在話下,客家話、福老話、日本話、泰雅語也都出籠了。這場深具文化交流與歷史傳承的座談會就像瀰漫林田山周遭的芬多精,也像這頓大餐一樣,芳香四溢。

月撰文/戴惠莉有
http://city.keyciti.com/taiwan/taiwaneven/play.asp?citi=lie&pno=314

Monday, September 27, 2010

[厦門] コロンス島あたりでのんびり過ごすか......

私は台湾滞在ビザを取っていない。九十日を越えてブラブラしていると不法滞在になり、多額の罰金を支払うことになる。一度ならず二度もこの件で面倒を引き起こした経験者である。どちらも私の能天気な性格、いや自分を管理できていないことが原因でおきたことなのだ。それにここ台湾に特別な庇護者がいるわけではないので保証人もいない。

そんなこんなで、人様には職業を ”無業遊民 [wúyèyóumín] [ㄨˊ ㄧㄝˋ ㄧㄡˊ ㄇㄧㄣˊ]” と伝えている。”無職渡世人”、翻訳に間違いないと思うのだが、こちらの方はそれは単なる失業者ですよ、”自由無業”ではどうですか?という。 ”嬉皮 [xī pí] [ ㄒㄧ ㄆㄧˊ ] ” (嬉=女偏+喜)ヒッピーかー、似たようなものだがまあそれもいいか。

横道にそれるが、この”無職渡世人”という語呂というか声調が好きというか、辰巳竜太郎という新劇の大御所さんが、東映任侠映画のなか、吉良の仁吉を演じ、警察官に職業を問われたときの返答でして、これをいたく気に入ったので使わせていただいている。

ともあれ、七月末にビザの有効期限が切れてしまう。出国しなければならない。香港の知人から消息を問うメールが届いていたこともあって、会いにいってみるかとも考えたが、あそこは辛い。ラッシュアワーの地下鉄に一度乗り合わせたが、東京以上に息苦しいし、潤沢な金がなければそれこそ無職渡世人、誰も相手にしてくれない。せいぜい新しい携帯を手にするときぐらいに出向く場所、だと私は考えている。

やはり大陸厦門か。緑豊かな湖濱北路あたりのコーヒーショップでだらだらと過ごし、私の口に合うカレーライス専門店で華やかな夜景を眺めながらカツカレーを口にし、人造湖の周りをなにをすることなく歩き回り、旧市街の迷路のような界隈に元運転手が営む洋品店へと足を運び、雑談に花を咲かせながらお茶をすする。知人は一人、また一人とこの地を去っていったので相手を探す手間も省ける。そして週末をはさんだ七月末の四日間、私は厦門に出かけていった。

それからまた台湾滞在九十日を迎える。おそらく今回も厦門への旅になりそうだ。しかし今までとはちょっと違った過ごし方を考えている。厦門本島、そう厦門は海に囲まれた東京山手線より一回りぐらい大きい程度の適度なスケールを持つ都会、その沖合いに浮かぶコロンス島、かつての租界の島に滞在するつもりだ。租界時代の別荘を改装した瀟洒なブティックホテル、そこで何をすることなく、日々海を見ながら時間が流れるのを待つことにする・・・。

こう書くと贅沢三昧っぽいが、バスつきシングルが190人民元、最上階三階の一番高額な部屋で388人民元、日本円三千円弱から五千円ちょっとのルームチャージ。ホテルのサイトをご紹介しようとしたら”This web page at www.○○○○.com has been reported as an attack page and has been blocked based on your security preferences.”とでた。つい先日までなーんの問題なくみれたんですけどね。

*写真は厦門の東渡フェリーを出た沖合い。ブイの右側にぼんやりと見えるのがコロンス島、左側は厦門本島輪渡フェリー周辺。
*発音記号が文字化けしているかもしれません。その場合はメニューの表示のなかのキャラクター・エンコードをUNICODE (UTF-8) にしてみてください。

Sunday, September 26, 2010

[台北] 自由市場の文昌宮

自由市場の廟、文昌宮 [Wén chāng gōng][ㄨㄣˊㄔㄤ ㄍㄨㄥ]、昨夜訪れて夜景をカメラに収めてきました。セブンイレブンでナーテコーヒーのスモール30元片手に、秋の、さっぱりした空気を味わいながらの訪問です。さすがに昼間のような賑わいはありませんでした。しかし真摯な様での参拝姿は変わりません。私も加わろうと思い立ったのですが、意味なく拝んでみては失礼かと遠慮いたしました。

ネットで調べてみました。祭っている神様、参拝の順序、線香を差し上げる神様の順序とその数、願い事の内容まで詳しく紹介されていました。民権東路にある行天宮のように大きくありませんが、小さいながらしっかり管理されているようです。

神様とお線香の数、数が決められているらしいのが面白いですね、は・天公(一炷香)・文昌帝君(一炷香)・文魁帝君(一炷香)・關聖帝君(一炷香)・黒令(一炷香)。カッコ内の「炷 (火偏+主)」が線香をともす単位らしい。最後の黒令は私には意味不明でした。

時に神頼みを思うことはあっても、常日頃信心しているわたしでありません。この廟、道教の神様、参拝の礼儀作法、心得が足りません。境内に入りじまいでした。

中国語がわからなくても写真付きで大体理解できるサイトは「台北文昌宮~考生守護神 文昌帝君」。興味のある方は現地を覗き、ついでに自由市場の賑わいと、素食を口にし、その日は精進されてみてはいかがでしょうか。

Saturday, September 25, 2010

[台北] 土曜の昼下がりは公園通りの自由市場へ...

厦門から台北に移動して、食を菜食に変えるようになった。厦門の、塩気の多い、油が滴るような料理で身体が重くなっていた。それに身体のあちこちが不具合を示し始めてもいた。都合のいいことに、台湾では「心身を清める」宗教的な慣わしが民間に染み込んでいるので、菜食料理・素食が普及している。それが健康志向と若い連中のダイエットと結びついて街中いたるところ素食のブッフェ・自助快餐店がある。

私お気に入りの素食自助快餐店は中山北路を錦西街に入ってすぐの店。時間が許す限り夕食のほとんどをここで賄う。何がお気に入りかというと、ほかの素食店に比べ惣菜にちゃんとした味付けがしてあるからだ。有機・自然食と名をうっても、おいしく感じなければ続かない。それと専門店以外では見かけることの少ないメニューも備えている。麺類、餃子類、イタリア麺、特に大豆のチーズを使ったマカロニグラタンは味も一品。店内単品で最も値が張る。といっても100元(日本円約270円)なのでお手ごろ価格だ。週末は土曜の昼だけで店じまいしてしまう。

快晴で爽やかな風の今日、昼食をこの店でとった後、地下鉄路線の上を公園にしつらえた場所を散歩た。線上の公園脇は細い路地、ここが露店で埋まっている様をただ眺める。ウィークデーも開いているらしいが、夕刻食事を終えた後、私が訪れる頃にはすでに店をたたんでいるので雰囲気はわからない。

土曜の昼下がりともなると露店がいっぱい、客もいっぱい、掛け声いっぱい。実に華やかである。最近はビューティーサロン並みに修眉毛、ネールショップ、といっても化粧ボックスと丸椅子を抱えてやってきて公園の樹木の下で店開き、デッキチェアーを使った足裏マッサージなんてのも加わった。客の多くはオバサン連中。彼女たちは会話に余念がない。私が通りかかると「社長さん、社長さん」と声がかかる。

露店はカート・リヤカーだったり、バイクや自転車の荷台だったり、プラスティックボックスだったり、なかにはダンボールひとつ抱え裏返しにしてそこに飾っただけというのもある。売り物は季節ものの果物や野菜類が多い。日差しの強い夏場は商品に盛んに霧吹きで水をかけている。勝負はもちろん値段、隣どうして同じものを売っているわけだから、オバサンAが「○○元だよー」と掛け声がかかると、ドミノ倒しのようにその隣、さらに隣、向かい、そして戻って値をかけあう。ただしどの店も値段は同じ。ほとんど台湾語なので私にはいったいいくらなのか判別できていない。掛け声を耳にしているだけで心地よい。そんな様を適当にカメラに収める。

この露店街のほぼ真ん中当たりに廟がある。豪華絢爛だ。夜には煌々と照らされ、さらに華やかさと御利益の妙を強調している。台湾の人はよく廟を訪れ、線香を手に拝んでいる姿を目にするが、ここの廟、文昌宮では若い連中、とくに女性の姿が多い。実に多い。彼らが真剣な眼差しで願い事をしている様は美しい。姉妹らしい若い学生二人、門前で線香をかざし、公園側に向かって、西に向かって何かを口にしていた。暫くそこに留まり帰路に着いた。

日本ではどうだっただろうか。少なくとも東京ではそんな真摯な様は見かけなかった気がする。大阪に旅をし、信貴山を訪れたとき似たような風景を見たぐらいだろうか。

Friday, September 24, 2010

[竹東・内湾] 山あいの映画館

不思議なものでなんでも”飽き”ってものがやってくる。かつてはホームページに、そしてblogに、今やtwitter、やがて興奮が去っていく。持続することの難しさ、いまさらほざいてみても手遅れなのだが......

blogを更新していなくても身の回りではいろいろなことが起きている。それも起伏の激しい変化が訪れている。ゆえにいつも疲れる。特にこの夏の暑さと湿気が加わり、これで身体までバテバテである。とはいえ、秋分も過ぎたことだし、落ち着いてデスクに向かおうかと、たまっていたあれこれから心穏やかな話題を取り上げることにした。

7月16日の金曜日、二ヶ月前、台北の南、竹東にでかけた。ここの知人が盛んに土地購入の段取りを進めている。今は大陸北京あたりでコンサルタント会社の役員を務めているが、やがて故郷に戻る下準備らしい。新しい山地を購入したいので見てほしい、この一言に私はひとつ返事をした。こちらにはこちらの目論見があった。

竹東に出かけるひと月ほど前、日本からメールが入っていた。「鉄男さんじゃないですよねー。鉄道関係のなんかネタありませんか?」。懐かしい、アネさんからだ。まったく鉄男ではないですし、鉄道にもほとんど乗っていない。新幹線を利用するぐらいで、ローカルな味を楽しんでもいない。「ないですよー」と返事を出したものの、鉄道かー、思いが馳せた。早速地図で探ってみる。

しかしローカル線と思われるものはほとんど見当たらない。「恋恋風塵」という映画で「十分」という駅までの映像が流れた。これは平渓線、台湾北部東海岸沿いにある端芳駅から出ている。渓谷沿いに緑深い山あいを縫って走っている。まだ乗ったことがない。

台湾西部、新竹から山あいに入った竹東駅、ここから西部幹線内湾線がでている。終点が「内湾」、山あいでなぜ内湾、名前の由来は知らない。このあたりには客家人が多く住んでいた関係で開発の遅れていた地域。住民の足としてローカル線が残されていた。そして経済発展、遅れてやってきた発展。遅れた分、残っていたのが古い町並み、古い建物。これを観光に利用して成功したのがこの内湾界隈。週末は台北から直通で臨時電車が出ているという。訪れてみたい。機会がやってきた。

土地見の場所から車でほんの二十分、切り立った山肌のあいだ、等高線に沿って走る鉄路、その終点駅のやはり等高線沿いに連なる家屋、ほとんどが飲食雑貨店、明らかに観光客目当てのしつらえ。とはいえ、「悲情城市」の「九分」のレンガ造民家と違い、木造で、おおくは平屋で、古び、よく目に馴染む。

駅前の、おそらく昔は小さな広場だったろう一角に、木造二階建ての映画館が残されている。当時、この町が栄えていただろう時代、この映画館が上映したフィルムを食事つきで観る、いや食事をしながら映画を。中は当時のままだそうだ。売店には非売品ながら当時のタバコが並べられ、上映もののDVDを手に入れることができる。薄暗い館内に入ると、力道山時代かと思わせるような白黒フィルムが流されていた。急な梯子に近い階段で二階に。粗末な椅子とテーブルで食事をする客、薄暗く、そのメニューは判別できない。しかし落ち着く。懐かしい。観光客でにぎわう喧騒は木造の床壁天井が吸収してくれる。同行した方の話では、映画館は演芸場でもあって、島内を渡り歩く劇団が一瞬の華やかさを送り込んでくれたそうだ。

十年はたっているだろう、九州熊本の小国へ所員とともに知り合いを尋ねたことがある。町中でスパーを営んでいた。その脇に小国会館、ここの人たちの自慢は、水前寺清子、熊本出身、彼女がショーを開いたこと。今では町の寄り合いに使う程度だと聞いた。内湾の映画館、どこか小国会館に似ていた。