Sunday, June 13, 2010

[East Asia photo inventory] 「岩肌をよじ登る民家ー釜山の電柱」

ホームページを閉鎖することにしました。古い記事、当時の東アジアの雰囲気を伝えた部分をこちらに掲載しておくことにします。

韓国・釜山の電柱 photo:(C)Eiji KITADA

建築雑誌 "at" 連載 第7回
「岩肌をよじ登る民家ー釜山の電柱」

文:大行 征
写真:北田 英治

「日本のお父さんがなくなられたそうですね」。昭和天皇の葬儀の翌日、釜山の国際市場の横の屋台で聞いた言葉は、そんなせりふだった。去年の冬、下関からフェリーで渡った釜山は雨が降り続き、港から見渡す市内の光景はもやっとして捉えどころがなかった。

冷たく刺すような雨のため一日を棒に振った翌日、岩山にびっしりと貼りついた住居群を目のあたりにする。港からはり出した半島の一角へ車を走らせ、山腹の大半を埋め尽くした民家の集合体を這い登ることにした。ようやっと人がすれちがえるほどの階段は、利用者に媚びることなく、目的地を最短距離で結んでいる。ほぼ三十メートル登るごとに、ペンキで塗かためられたコンクリートとブロックの塊はいったんここで途絶え、下からあえぎながら走ってくる車の道と交差する。三度ばかりそんなことを繰り返し、ようやく本来の山肌にたどり着く。コンクリート壁が途切れたとたんに、山は素顔を覗かせる。むき出しの岩と、わずかばかりの緑、斜面を切り崩してつくられた一坪にも満たない畑地、そのまた上にはトタンと軍用テントでつくられたバラック小屋が、新規共同建設者の登場を待っていた。

階段の途中を横道にそれると、路地はうねり、上下し、民家の屋上を伝い、最後には、幅四五センチの余地となって終ってしまう。というより、平らな部分はどこでも人の通行が許され、蟻の巣のように上下左右往き来ができる。 脇道に入ると、水道管は地上に表れてくる。塩ビのインチ管が、壁を伝わり、となりの家を横切って屋上の貯水タンクにたどり着くまでのびきっている。道路の中央には排水構が切り込まれ、急勾配もあいまって、流れは良く、悪臭をたてることもない。一本の電信柱からは、櫓を組むときのロープのように電線が張り巡らされている。

六十年代後半、韓国では都市の人工集中とともに、不良住宅が不法占拠をくりかえし、都市の風景をつくりだしてきた。土地を求めて上へ上へとよじ登っていった。上の人間は下から壁を、屋根を、電気を、水道を租借する。しかし、現代世界は物の所有者、所属、領域を明確にしたがる。建築基準法は曖昧な領域を欲しない。あらゆる物にナンバーが記され、管理されている。空中権から地中権と、目にみえない領域にも規程が及んでいる。それぞれに色付けをしてみると、余白という部分が一切無いということになるのかも知れない。スラムが不法建築と呼ばれるのも、領域があいまいで、かつ使用者を確定できないところに由来している。

釜山の傾斜地住宅では、1階の壁の延長が上にすむ住まいの壁へと続ながっていく。屋根は集落の共用の通路として利用され、時には子供達のかっこうな遊び場となり、キムチの壷置き場、洗濯物干し場として使い分けられる。複層した用途が空間にはり付いてくる。場があれば機能を誘発する。現代建築の、着せ換え人形のような物つくりでは、決して創り出せない空間を、釜山の山は教えてくれているかのようである。
(連載第七回- "at" '90/10掲載)


「岩肌をよじ登る民家ー釜山の電柱」十年後記 2001年2月18日

「日本のお父さん」という表現は外国人が日本を言い当ててなかなかの表現だと思った。外から見ると日本の「お父さん」は総理大臣ではなく、「天皇」なのだ。

台湾の飲み屋で女の子が日本と台湾の比較する際に口にするのが、「わたしたちの総統、あなたたちの天皇」。少し時代を遡って日本の中国識者竹内好さんが、「外国人に日本人のものの見方考え方を知ってもらうのに紹介するのは教育勅語です」という文章をどこかに書いていた。書かれたのは60年代だったかもしれないので、高度成長期の日本人を教育勅語の精神が言い表しているのだと思われる。

竹内さんは教育勅語を批判的に引用しているのではなかった。天皇制を悪用したのは軍人たちだという思いがあったのだと思う。

台湾で仕事をしていたとき、幼少時に日本教育を受けた方々からよく教育勅語を聞かされた。今でもまるまる暗唱できる。これは驚きだった。

先日、写真家の北田君がソウルから戻ってきた。総督府のない風景、ファーストフードとローマ字の看板、地下鉄の車両にまで張り巡らされた携帯電話網。かつて、儒教の教えが色濃く残っているのは韓国しかない、といっていたのが嘘のようだ。目上の人と話をするときは顔を横に向けて話をしなさい、先にたばこを吸うのはやめましょう、などなどごく日常の仕草にも礼節があったのだが、携帯電話の普及はそんな話を無縁にしてしまったのではないか。

[注:内容的に間違いのある部分も含め、手は加えてありません]
[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」  に収録されています。]

2 comments:

fumanchu said...

1949年生まれの私の辺りに、境目が一つあるようです。
同年輩の韓国人と飲み会をやると、先ず生まれ年を聞かれます。
少し年上の先輩諸氏は
「先輩の酌がうけられんとは言わせんぞ。」と軍隊調で来ます。
ちょっとと年下の方々は
「そう言うのは最近流行らんのヨ。」という感じで手酌です。

昨年ソウルに観光に行ったら、飲み屋で企業の飲み会みたいのに出くわして、
密かに観察していたら、結構面白かったです。内輪では相変わらず
「上司の酌が受けられんのか。」とやっているようでした。

burikineko said...

そうなんですね。

中国語学校で知り合った勧告系台湾人の仲間が若造を連れてきていまして、もちろんワタシが年長者、タバコを吸う際にも横を向き、酌を受けて飲むのも横を向き、なんですけど、何度か会っているうちにそんな儒教の教えはどこかに......って感じでしたよ、ええ。