Wednesday, June 23, 2010

[East Asia photo inventory] 「ベトナムは東アジアの匂いーサイゴンの中国人」

ホームページを閉鎖することにしました。古い記事、当時の東アジアの雰囲気を伝えた部分をこちらに掲載しておくことにします。

メコン川フェリー乗り場の物売り photo:(C)Eiji KITADA

建築雑誌 "at" 連載 第12回
「ベトナムは東アジアの匂いーサイゴンの中国人」

文:大行 征
写真:北田 英治

サイゴン空港に降り立った我々を出迎えたのは、中国系ベトナム人の女性である。日本語のできる通訳を期待していたリーダーの苛立ちを尻目に、彼女は我々が当然のように中国語を理解するものと思って話をはじめた。聡明な眼差しと、毅然とした態度と、人の上下関係を即座に理解する中国人特有の素養を彼女は身につけていた。歴史を遡れば、ベトナムも日本同様、中国の友好国であった。それに、十九世紀後半までは漢字が使われていた国である。そんな知識が彼女にどこかにあったのか、日本人が中国語を理解できないとは思わなかったのかも知れない。

たしかに、ここには中国の匂いがある。メコンの街、カントーでは、英語を勉強中の、外国人というと話しかけてくる類の中国人女子学生に出会ったし、かつての日本人街もあったという中部の街ホイアンには、騎楼をもった中国南方様式の街屋が残されていた。サイゴンの中国人街チョンロン地区では、独自に中国語の新聞「解放日報」まで発行されており、ほかに外字新聞をもたないベトナムで、湾岸戦争の記事を入手できる数少ない媒体でもあった。しかし経済活動の中心を占め、常に新しい情報を手にし、中国人を表明するかたわら、賑わいを見せるサイゴンのベンダン市場では、中国人の物乞いに出会うことになった。

南の都市には物乞いが多い。かれらはあらゆる機会をつかまえ、使えるものなら何でも、親でも病人でさえも引っ張り出し物乞いのネタにする。市場で出会わせた子供を抱えた母親は、三十分ちかく我々についてまわり、ベトナム語とカタコトの英語と中国語とで二人のおかれている惨状を語り続ける。そして最後には、自分の子供を買ってほしいとまで言いだす始末である。僕はお金をあげることにして話しかけた。「よし、子供を引き取ろう、いったいいくらだい?」。

市場を舞台にした彼女の演技はここで幕を閉じる。彼女は、僕が与えた以上の演技をみせてくれた。それに荷担した子役も見事であった。彼女は上海の出身、結婚してご主人についてベトナム中部に働きに来る。雇い主がサイゴンに出てきたものの、事業が芳しくなかったのか、また中部に戻ってしまう。ついてきた彼女の一家は、残って働くことになった。彼女にいわせれば、物乞いも立派な職業である。

それにしても、ベトナムに住む人々は中国人を含めて活き活きとしている。世界最貧国といわれながら、彼らの表情にはそのかけらも見受けられない。むしろ、久しぶりに表情豊かな人々に出会った思いである。市場の物乞いや、メコン川のフェリーで出会った物売りがみせた仕草、そして街なかの建築物にいたるまで、いまの日本では失われた表情を見せてくれた。
(第11回終り- "at" '91/04掲載)


「ベトナムは東アジアの匂い」ーサイゴンの中国人 十年後記 2001年7月7日

掲載されたベトナム人女性の写真は、どの絵を載せるか写真家の北田君と話し合った際、僕が強く希望した一枚である。建築雑誌に女性の写真を全面に出すのを、編集者の高橋君はきっと嫌ったにちがいない。しかし、女性の豊かな表情と、ベトナム人というよりは中国人にちかい顔つきで、連載の趣旨にかなうものとして大きく載せることにした。

場所はサイゴンから南、カントンというメコン川南の街にわたるフェリーの埠頭で彼女に出会った。埠頭では、メコンを行き来する客を相手に物売りがあふれていた。マイクロバスで南に向かっていた我々は、バスを降りてフェリーが出発するまで辺りを歩き回った。埠頭は人と自転車とバイクと自動車、それにバスでごった返していた。子供たちが客にコインを河に投げ込むようせがんでいる。おもしろ半分に投げ込むと、子供たちは河に飛び込んではそのコインをすくい上げる。客にその成果を見せびらかせ、コインはその子たちのものになる。

フェリーの出発時間が来て、我々はバスに乗り込む。その瞬間、多くの物売りが閉まる扉に篭を押し込み最後の売り込みを計ってきた。一人の物売りの、扉から我々に向けた表情があまりに印象的だったので、僕は写真家にシャッターをせがんだ。バスは動き始めようとしていたし、扉を閉めないと物売りは立ち去る気配をみせなかったので、押されたシャッターはわずかに二回程度だった記憶がある。日本に戻り、できあがったこの時の写真を僕はかなり気に入った。

[注:内容的に間違いのある部分も含め、手は加えてありません]
[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」  に収録されています。]

Monday, June 21, 2010

[East Asia photo inventory] 「蘇る”旧体制”」ーサイゴンのホテル (ベトナム)

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REX Hotel の屋上 photo:(C)Eiji KITADA

建築雑誌 "at" 連載 第11回
「蘇る”旧体制”」ーサイゴンのホテル (ベトナム)

文:大行 征
写真:北田 英治

二十数年前、ラングーンからの帰路にベトナム上空を横断した。旅客機の窓から、爆撃であがる爆煙を見ることが出きると言われていたが、上空はどこまでも澄んでおり、地上は深い緑で覆われていた。サイゴンが陥落したのは一九七五年四月三十日である。

あれから十六年を経ようとしている。いまだに旧アメリカ大使館は取り壊されず、廃屋同然の姿をさらしている。そのほかにも、北の首都ハノイと異なり空爆を受けなかったサイゴンには、かつての国会議事堂や大統領官邸が呼び名を変えて使われていた。市内の街路も読み替えられてはいるが、街なかには多くの”旧体制”が残されている。”旧体制”とは、”建築物”とその”ネーミング”のことである。

サイゴンを愛した人たちがその宿としたホテルには、二つの名称が記されていた。今では点灯されることのない、控えめな看板には「九龍」(クーロン)「独立」(ドクラップ)「ペンダン」の名が、それらを覆い隠すように「マジェスティック」「カラベル」「レックス」の大きくネオンサインで強調された名称が浮き彫りにされている。

自由主義陣営の人々の去った後、彼らの置き土産をそのまま引き継ぐ必要がなくなったホテルは、その由来も来歴も知る必要のない東側の人々に利用されてきたはずである。

解放後、中国とカンボジアとの戦いで経済的な復興の遅れたこの国は、八十五年以降、安全なドルを獲得するため、侵略し続けた国々の人々を迎え入れざるを得なかったのかも知れない。外国人の支払いにはドルが求められ、物乞いを振り払うために内貨を差し出すと、やはりドルをせがんできた。

開かれはじめたサイゴンを訪れる自由主義陣営の人々は、記憶のなかの”旧体制”を確かめようとする。その際に「九龍」「独立」「ペンダン」では、この旅に支払われた代価は半減してしまう。我々はいまもって、何処かで「落日のサイゴン」を求めているのである。

ベトナムの土を踏んだその晩、程度の悪い「独立」を抜け出し、「レックス」を訪れた。ホテルの屋上庭園には、テーブルを囲んだ西洋人のグループがいくつか見受けられた。彼らはベトナム珈琲を傍らに、円テーブルの中央に置かれたポータブルラジオに耳を傾けている。スピーカーの音は不明瞭で雑音が多く、我々のテーブルからは内容を聞き取ることはできなかった。

「戦争が始まったな」、そう気がつくまでにはかなりの時間を要した。

BBC放送は、湾岸戦争の開戦からすでに半日が過ぎていることを伝えている。そして、自分たちの母国が参戦しようとしている状況にあって、常に戦争に直面してきた元植民地所有者の西洋人が、この戦争でも敏感に反応する様を目の前で知らされたのである。「レックス」はいぜんとして”旧体制”に寄り所を与えているかのようであった。

一九九一年一月十七日のことである。
(連載第11回- "at" '91/3掲載)


「蘇る”旧体制”ーサイゴンのホテル」 十年後記 2001年6月23日

二年前、台湾の仕事は数カ国の関係者の関わるため、英語が共通語として使われることになった。現地の会社で英語習得のプログラムが組まれ、私もそれに参加させられた。英語教師の面接が行われ、最初に登場したのはカナダ人女性。闊達な性格はよかったのだが、話をしていると彼女の口元しか見えなくなってしまう。とても大きいのだ。副総経理に遠慮してもらいたいむね伝えた。

次がやはりカナダ人のガッシリした男性。日本、韓国と英語教師を務め、いまは台湾に滞在していた。彼の場合は呼吸困難なのかと思えるような息づかいで、遠慮していただいた。後で聞いたところ、ラガーマンだそうで、鍛えられた首周りが気管を圧迫していたのかも知れない。

私のわがままを満たしてくれたのが、英国人の若者。はじめてあったときには高圧的で横柄に見えた。ただ、発音が良かった。英国人特有の切れのいい話し方もいままでに味わったことのないものだった。私からOKがでたその場から授業をはじめたのには驚かされた。

この若者、なかなか面白かった。実は若者ではなく若造だったこと。年をごまかしていた。25だという話だったが、本当は22歳。なす事ハイティーンのよう。そのくせ部屋にはいるときには私を先に立たせるという慇懃さも持ち合わせている。

ちょうどその頃、コソボ紛争が激化しており、教材にも英文ニュースが扱われた。この紛争の意見を求められたので、「空爆は不公平だ。圧倒的な戦力差がありながら地上での戦いをしない。湾岸戦争もそうだったが、紛争を押し進めるのはいつもアングロサクソンだ。」と英国と合衆国をやり玉に挙げた。彼はそのまま聞き流していたが、このところの大きな紛争はみなアングロサクソンが仕掛けた戦いだっようなきがする。

サイゴンのレックスホテルでポータブルラジオを屋上のテラスに持ち出し、熱心に聞き入っていたのも当事者の英国人だったことを思い出す。

[注:内容的に間違いのある部分も含め、手は加えてありません]
[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」  に収録されています。]

Saturday, June 19, 2010

[East Asia photo inventory] 「二つの香港」ー英国の置きみやげ (香港・英領香港)

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香港地下鉄プラットフォーム photo:(C)Eiji KITADA

建築雑誌 "at" 連載 第10回
「二つの香港」ー英国の置きみやげ (香港・英領香港)

文:大行 征
写真:北田 英治

香港には二つの顔がある。九龍サイドと香港サイド。ハーバーサイドとマウンテンサイド。ヒルトップに住むものと水上に住むもの。「東洋の真珠」と「アジアの屑籠」。香港を故郷とするものと、半数の革命中国からの合法的移住者および難民。パスポートも、おなじ英国籍でありながら英国に住める者と住めない者。英国航空から中国民航に乗り換える者と、中国民航からやってきてそこに留まる者。中国系米国人I・M・ペイの設計した中国銀行と、生粋の英国人ノーマン・フォスターの設計した香港上海銀行。中国人でありながら、香港の中国返還を望まない多くの人間と、少数のそれを望む者。「北京の政権」と「台北の政権」。二つの香港を並べることはいくらでもできるだろう。ただ一つできないものがある。それは香港は地球上に一カ所しかなく、決して二つに分けることができないことである。

香港はわずか一世紀あまりで、二つの風景をもつに至った。九龍サイドのスターフェリーの桟橋に接して建てられたペニュンシュラホテルと、香港島浅水湾の入江の波打ち際に立てられたリパルスベイホテルは、ともに一攫千金を目論む英国人の異国趣味を満足させるために造られた。ペニュンシュラは、今では香港の道化を演じるに過ぎず、「慕情」を演じたリパルスベイホテルは、一九八二年に取り壊されてしまった。

島のホテルは、客室がどちらを向いているかによって価格が異なる。ビクトリアパークのケーブルカーの往来を眺めるよりは、誰もがビクトリア湾の「百万ドルの夜景」を楽しむだろう。とはいえ、現在まではベイサイドは超高層オフィスで占められており、ハーバーサイドに部屋をとっても、その価格に見合う光景を得られる可能性はほとんどない。むしろ九龍サイドのリージェントホテルあたりに逗留すれば、香港の絵はがきに登場するほとんどを手にすることができる。

ピークに住める人間も、水上に住み着くことのできる人間も香港では少ない。かつて、香港の英国人はピークに住めることをステータスとした。執事をオーストラリアから、召使いをインドから連れてきて、急造の紳士を演じてきた。一方で、香港人といえどもアバディーンなどの水上居民にはなかなかなれない。南京条約で英国が香港を割譲したとき、香港全人口七千五百人のうち水上居民は二千人。現在でもこの数字は変わらないのではないだろうか。

香港は英国領である。英国が二つの香港をつくったといって間違いはあるまい。引き算でいえば、英国が清朝から香港を「借りた時間」は後五年間しかない。すでに九十四年間を英領香港として香港の風景を築いてきた。そして一九九七年六月三十日をもって、香港は中華人民共和国の一部となるはずである。
(連載第9回- "at" '91/2掲載)


「二つの香港」ー英国の置きみやげ 十年後記 2001年4月20日

返還以前の香港の魅力は、なんといっても「チャイナウォッチャー」の役割だったろう。当時、鎖国を敷いていた大陸中国の情報は、すべて香港から発信されてきていた。文化革命が嘘八百の固まりだったこと見抜いていた当時の識者は、やはり香港情報の行間からそれを探り当てていたという。そんなことなどつゆ知らない私などは、MLなどという集団に同調、日比谷公園や新宿駅周辺で花の七機(第七機動隊)に襟首を捕まれ、危うく棍棒の餌食になるところだった。

世界中が落ち着いて、私も「東アジア世紀末研究会」などと名打った旅を何度か行うようになっていた。香港の旅に、当時話題になった香港上海銀行の見学を依頼しておいた。ところがなかなか許可が下りない。出発のほんの寸前でOKがでたのだが、銀行の案内人と話してみると、我々のグループ名が問題になったそうだ。「東アジア世紀末研究会」、うーん極左グループと読めないこともなかったか。

天安門事件の時は台北にいた。メディアは反大陸キャンペーンで盛り上がっていて、私も毎日新聞とテレビを覗いていた。ある日「トショウヘイ死亡」の記事。出所は香港、しっかりガセネタだった。

[注:内容的に間違いのある部分も含め、手は加えてありません]
[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」  に収録されています。]

Thursday, June 17, 2010

[East Asia photo inventory] 「深く青き夜」ー闇の中のソウル (韓国・ソウル)

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ソウルの屋台 photo:(C)Eiji KITADA

建築雑誌 "at" 連載 第9回
「深く青き夜」ー闇の中のソウル (韓国・ソウル)

文:大行 征
写真:北田 英治

「.........アメリカには住みたくない、でも生きていくために行かざるを得ないんです.........」。五年前のソウルの夜のことである。韓国系中国人の友人は、始めて自分自身の移民について話をしてくれた。韓国は東アジアの国々のうちで、アメリカ合衆国への移民が最も多いといわれている。もちろん日本人にも枠があるはずだが、いまどき移民しましたという話はついぞ聞いたことがない。移民という手段を必要としない日本で、この言葉の持つ意味を理解することはなかなか難しい。

彼女と知り合ったのは台北の中国語学校である。彼女はソウル中心街、明洞にある中華学校で中国人として教育を受ける。医者であった父親の病死によって、自らの仕事場を探すことになる。しかし韓国の中の中国人という異邦人の彼女が、ソウルで満足できる仕事を得るのは至難の業であった。仕方なく父親の国の中国・台湾に移り住むものの、そこでも彼女は韓国系中国人としてよそ者扱いされる。そんなある年、黄砂が朝鮮半島にとどき始めた春先、彼女は韓国へ里帰りする。そのときを利用して我々はソウルを訪れてみることにした。始めての韓国ということで、観光気分であちらこちらと歩き回り、南大門が国宝指定第一号であるとか、秘苑は農家を模した桂離宮みたいなものだとか、東大門市場は食い物が旨い、と結構楽しんでいた。

そしてその日の夜、仲間たちとしこたま飲んだ後の腹ごなしに入った道端の屋台で、我々は「移民」がすぐ身近な問題であることを教えられたのである。春先とはいえ、ソウルの夜には底冷えが残っていた。空気中の水蒸気すべてを日本海に運んでしまったかのように、町の光景は乾いている。太平路と南大門路の分岐点に建つ国宝南大門を浮き上がらせるサーチライトの光が、よけいにそれを強調している。風景が凍てついて見えたのはそのせいかもしれない。わずかに、表通りを外れた屋台の橙色のテントが、残された暖かさを保っているのみであった。

「深く青き夜」は韓国映画の題名である。ロサンゼルスで偽装結婚をくりかえす韓国女性と、合衆国に一攫千金の夢を求めてやってくる韓国男性との悲惨な結末を描いたものである。米兵との結婚ですぐに望みを失ってしまった女性が、永住権を手にするために偽装結婚の相手を捜している男の話を聞いて、最後の望みを託した彼に、「ここは、どこ」と尋ねる。彼は「天使の地、ロサンゼルス」というと、彼女はこう答える。「ここは砂漠、荒涼たる砂漠......」。国を捨て、夢を抱いてやってきた異国にも、結局は荒涼としたイメージしか残らなかったのであろうか。

その後、韓国系中国人の友人は、居心地の悪い台湾を捨ててアメリカへ向かった。米国で再婚した母親が市民権をとるにいたって、一家そろってロサンゼルスに出発した。多くのアジアの人々が、アメリカで永住権を得るのに不法行為までして必死になっていたが、彼女は母親の血の出るような苦労の末、自由と可能性のある国へ希望を持って出かけていった。
(連載第9回- "at" '91/1掲載)


「深く青き夜」ー闇の中のソウル 十年後記 2001年3月28日

この回の原稿を読み直してみて気がついたのは、十年の間でアメリカへ向かったアジアの人々の、国籍の変遷だ。ベトナム戦争に参戦した韓国の移民枠が大きくなっていたし、その前までは中国との対立から、台湾人のアメリカ留学と移民が始まっていた。その後、ベトナム戦争終結で、多くのベトナム人がアメリカに移り住むことになる。中国との国交成立の後からは、大量の中国人がアメリカに流入することになった。それでもアメリカ合衆国で労働許可証を得るのは未だにかなり難しいようだ。

アメリカに移り住んだ彼女を訪ねたことがあった。フリーターで日本料理屋のウェイトレスをしていたが、外国からやってきた友人のために仕事を休ませてもらえるなどということは許されない。少しでも隙を見せれば仕事は他の人へと回ってしまう。彼女は、妹や友人たちに頼み、空いている時間を利用しては、代わる代わる私の相手をしてくれた。

アメリカでの成功は、金持ちになること。明白だ。そのために1セントでも稼ごう、浮かそうとする。ロスからシアトルの国内便を予約しに、ハリウッド通りの中国人が経営する券売屋を紹介してもらい訪れた。友人の友人のため、あれこれ問い合わせた結果、ある便を薦められた。大手と比べて10ドルも安い。航空会社の名前は一度も聞いたことがない。国内便でも、墜落すればその話は即座に世界を駆けめぐるが、アメリカでも墜落となるとあまり話を聞いたことがない。しかし豊かな日本人は安全をブランドで買うことにし、ユナイテッドが最終的に選ばれた。これではいつまでたってもアメリカンドリームに近づくことはできない。

[注:内容的に間違いのある部分も含め、手は加えてありません]
[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」  に収録されています。]

Tuesday, June 15, 2010

[East Asia photo inventory] 「看海的日子ー風櫃の三合院住居」 (澎湖島・風櫃)

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風櫃の三合院住居 photo:(C)Eiji KITADA

建築雑誌 "at" 連載 第8回
「看海的日子ー風櫃の三合院住居」 (澎湖島・風櫃)

文:大行 征
写真:北田 英治

七月だというのに雲が低く肌寒い海上を、つい数カ月前まで瀬戸内海の往来に使われていた高速艇で台湾本島から澎湖島にむかった。東シナ海の波頭がひときわ大きく見えるのが珊瑚礁の島、中国大陸の文化を最初に受け止めた場所、澎湖列島である。

出発の前日、「あした澎湖島に行くんです。どんなところですか」と台北の飲み屋で女の子に話すと、居合わせた全員が笑ってこう答えてくれた。 「あそこは三つの点で有名です。太陽が大きい、水が塩辛い、鶏も卵を生まない」。厳しい自然環境を言いあらわして秀逸である。

百余の島々からなる澎湖列島に、人影はその内の二十一島。台湾本島から四十五キロメートル、向かい合う福健省から百四十キロメートル、平均の海抜三十メートル、最高七十メートルを出ることはない。雨が極端に少なく、始終強い風が吹き、「風島」の異名を持つ。二つの要因は、この島の光景を決定づけている。珊瑚礁の地肌にはりつき、北西の季節風で押し曲げられた潅木。草も木も横へ横へと地をはっていく。日陰を求めるべくもなく、塩分を含んだ土地に手を加える女たちは全身を布で覆っている。

澎湖島開発の歴史は台湾本島に比して四百年早い。大陸のミン南地方、泉州周辺からやってきた移民によって発展する。建築物も町の形態もミン南の様式を残しているという。強風と水源確保の難しさは、集落の形態を独特なものにしている。農村は南下がりの斜面の窪地に寄り集まる。季節風を遮り、少しでも地中の水源に近付こうとする。漁村は海岸線の珊瑚に囲まれ、海に向けて建てられる。季節風と海風から作業場を中庭に求め、共同で彫られた井戸を有効に利用するため、三合院という住居形式がとられている。木材も煉瓦も遠く対岸から運ばざるをえず、主要な建材のほとんどに珊瑚が使われてきた。海との戦いを強いられ、神への依存心はことさら強い。全島で二百あまりの廟を数え、そのほとんどが海神媽祖を祭っている。

この島のはずれに風櫃とよばれる集落がある。風のヒツ。風のしまい込まれた場所。珊瑚礁の突端の風道に位置するこの村では、海面の動きにともなって地面から風が吹き出す。空洞となった珊瑚のなかを海水が出入りする度に、フイゴのように音を出す。南方系中国人の陽気さとは裏腹に、あたり一面に悲痛なうめき声を漂わせている。そのためか、かつての台湾本島への文化・経済の玄関口も、時代とともに取り残されていった。

漁を捨て、島を捨て本島にわたる若者。すみ手を失った民家。かわって荒涼とした風景を求めてやってくる本島の若者たち。映画のなかでみつけた、活き活きとした少年たちを探しに訪れた初老の日本人は、村はずれの海を見つめる小廟に腰を下ろし、限りある明日を考えることにした。
(連載第8回- "at" '90/12掲載)


「看海的日子ー風櫃の三合院住居」十年後記 2001年3月12日

台湾映画界の重鎮、侯孝賢監督若き日の作品に「風櫃からきた少年」という映画がある。澎湖島で生活する悪ガキ達の生態を活き活き描写して傑作だった。その少年たちの仕種に勝って映ったのが、澎湖島の風景。どの場面も左右にのびた水平線が占めていた。台湾本島では見ることのない情景に一度訪れてみたい、で仲間達と旅をした。

映画のなかで一番印象に残ったシーンがある。悪ガキたちが喧嘩をする。別のグループの人間に怪我をさせ、警察沙汰を引き起こす。家に戻るに戻れず、ガキたちは海岸際に立つ小さな廟の前で思い悩む。ガキたちの横顔、小さな廟、波立つ海、夕日の赤。ここを訪れた大人たちは、小さな廟に座り込み同じように写真をとった。

atに文章が掲載されると、もの書きの友人から電話が来た。初老という表現はおかしい、自分の事を書いているとしたら初老ではない、同年代の人間に失礼だ、というものだった。当時40台後半だったはずだから、今思えば確かにおかしい。しかし、カミさんが死んだ直後ということもあり、限りある明日などと思い巡っていたのが、初老という表現になったのかも知れない。

[注:内容的に間違いのある部分も含め、手は加えてありません]
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Sunday, June 13, 2010

[East Asia photo inventory] 「岩肌をよじ登る民家ー釜山の電柱」

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韓国・釜山の電柱 photo:(C)Eiji KITADA

建築雑誌 "at" 連載 第7回
「岩肌をよじ登る民家ー釜山の電柱」

文:大行 征
写真:北田 英治

「日本のお父さんがなくなられたそうですね」。昭和天皇の葬儀の翌日、釜山の国際市場の横の屋台で聞いた言葉は、そんなせりふだった。去年の冬、下関からフェリーで渡った釜山は雨が降り続き、港から見渡す市内の光景はもやっとして捉えどころがなかった。

冷たく刺すような雨のため一日を棒に振った翌日、岩山にびっしりと貼りついた住居群を目のあたりにする。港からはり出した半島の一角へ車を走らせ、山腹の大半を埋め尽くした民家の集合体を這い登ることにした。ようやっと人がすれちがえるほどの階段は、利用者に媚びることなく、目的地を最短距離で結んでいる。ほぼ三十メートル登るごとに、ペンキで塗かためられたコンクリートとブロックの塊はいったんここで途絶え、下からあえぎながら走ってくる車の道と交差する。三度ばかりそんなことを繰り返し、ようやく本来の山肌にたどり着く。コンクリート壁が途切れたとたんに、山は素顔を覗かせる。むき出しの岩と、わずかばかりの緑、斜面を切り崩してつくられた一坪にも満たない畑地、そのまた上にはトタンと軍用テントでつくられたバラック小屋が、新規共同建設者の登場を待っていた。

階段の途中を横道にそれると、路地はうねり、上下し、民家の屋上を伝い、最後には、幅四五センチの余地となって終ってしまう。というより、平らな部分はどこでも人の通行が許され、蟻の巣のように上下左右往き来ができる。 脇道に入ると、水道管は地上に表れてくる。塩ビのインチ管が、壁を伝わり、となりの家を横切って屋上の貯水タンクにたどり着くまでのびきっている。道路の中央には排水構が切り込まれ、急勾配もあいまって、流れは良く、悪臭をたてることもない。一本の電信柱からは、櫓を組むときのロープのように電線が張り巡らされている。

六十年代後半、韓国では都市の人工集中とともに、不良住宅が不法占拠をくりかえし、都市の風景をつくりだしてきた。土地を求めて上へ上へとよじ登っていった。上の人間は下から壁を、屋根を、電気を、水道を租借する。しかし、現代世界は物の所有者、所属、領域を明確にしたがる。建築基準法は曖昧な領域を欲しない。あらゆる物にナンバーが記され、管理されている。空中権から地中権と、目にみえない領域にも規程が及んでいる。それぞれに色付けをしてみると、余白という部分が一切無いということになるのかも知れない。スラムが不法建築と呼ばれるのも、領域があいまいで、かつ使用者を確定できないところに由来している。

釜山の傾斜地住宅では、1階の壁の延長が上にすむ住まいの壁へと続ながっていく。屋根は集落の共用の通路として利用され、時には子供達のかっこうな遊び場となり、キムチの壷置き場、洗濯物干し場として使い分けられる。複層した用途が空間にはり付いてくる。場があれば機能を誘発する。現代建築の、着せ換え人形のような物つくりでは、決して創り出せない空間を、釜山の山は教えてくれているかのようである。
(連載第七回- "at" '90/10掲載)


「岩肌をよじ登る民家ー釜山の電柱」十年後記 2001年2月18日

「日本のお父さん」という表現は外国人が日本を言い当ててなかなかの表現だと思った。外から見ると日本の「お父さん」は総理大臣ではなく、「天皇」なのだ。

台湾の飲み屋で女の子が日本と台湾の比較する際に口にするのが、「わたしたちの総統、あなたたちの天皇」。少し時代を遡って日本の中国識者竹内好さんが、「外国人に日本人のものの見方考え方を知ってもらうのに紹介するのは教育勅語です」という文章をどこかに書いていた。書かれたのは60年代だったかもしれないので、高度成長期の日本人を教育勅語の精神が言い表しているのだと思われる。

竹内さんは教育勅語を批判的に引用しているのではなかった。天皇制を悪用したのは軍人たちだという思いがあったのだと思う。

台湾で仕事をしていたとき、幼少時に日本教育を受けた方々からよく教育勅語を聞かされた。今でもまるまる暗唱できる。これは驚きだった。

先日、写真家の北田君がソウルから戻ってきた。総督府のない風景、ファーストフードとローマ字の看板、地下鉄の車両にまで張り巡らされた携帯電話網。かつて、儒教の教えが色濃く残っているのは韓国しかない、といっていたのが嘘のようだ。目上の人と話をするときは顔を横に向けて話をしなさい、先にたばこを吸うのはやめましょう、などなどごく日常の仕草にも礼節があったのだが、携帯電話の普及はそんな話を無縁にしてしまったのではないか。

[注:内容的に間違いのある部分も含め、手は加えてありません]
[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」  に収録されています。]

Friday, June 11, 2010

[East Asia photo inventory] 「アジアを夢見る-上海1945」

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中国・上海市内 photo:(C)Eiji KITADA

建築雑誌 "at" 連載 第6回
「アジアを夢見る-上海1945」

文:大行 征
写真:北田 英治

日本植民地時代の始まりとその終りに、上海を舞台とした二人のヒーローが登場する。同性同名で名前を本郷義昭という。二人は時代を共有することもなければ、中国に対する世界観もまったく異なっていた。しかし、アジアの解放を望んでいたことで二人は共通している。

ひとりは陸軍情報部の将校として日本帝国主義による中国の解放のためにアジアを駆け巡る。もうひとりは終戦まぎわの上海に特派員としてやってきて、敵対する民族の男女がお互いを理解し合うことによる解放を体験する。

昭和六年、日本植民地政策の最盛期に、少年小説作家の山中峯太郎は「亜細亜の曙」を発表する。本のなかで主人公の陸軍将校本郷義昭はインディー・ジョーンズばりの冒険活劇をみせてくれる。ジョーンズとのちがいは本郷が鉄の意志をもって「国家の危機」を救ってみせるところにある。アジアの開放を望む本郷は中国人に向かって号ぶ。 「聞け!支那人諸君!諸君は日本帝国の真精神をいまだ知らず、○国に従ってみだりに亜細亜の平和を破る。めざめよ中華国民!たって日本とともに亜細亜をまもれ!」

もうひとりの本郷は、コミック作家の森川久美が昭和末期に描いた「上海1945」に登場する。主人公は「大和魂がある限り日本は負けん!貴様は日本人の恥だ ! !」といわれ続けられた新聞記者である。 特派員の本郷は、日本が無条件降伏したとき、「死に損なったよ・・・」とつぶやく。彼にたいしてどうしても素直になれなかった中国人の女友達は、抗日戦線の友人からいわれたと、はじめて見せた恥じらいで彼に伝える。 「新シイ中国ノ建設トイウノハナンダト思イマス?ソレハアナタヤ私一人一人ガ、自分ノ心ノママニ愛スル人ト共ニ幸セニ暮ラセルヨウニスルコトデス」。

二人はアジアを夢みている。その中心にとてつもなく大きい中国がある。その大きさのためか、民族のためか、われわれは中国を捉えきれないでいる。本郷義昭のこだわりもそこにあるような気がする。 上海は二人の本郷が熟知している場所である。二人の間には二十年の隔たりがある。にもかかわらず上海の風景に変化はない。二十世紀初頭から三十年まで、英国を中心としたヨーロッパ列強は上海の風景をつくりあげた。二人の本郷を生みだした山中も森川もこの風景から逃れることはできない。いやこの風景があったからこそ、本郷はヒーローになりえたともいえる。

建築のもつ凄みの一つはここにある。作品としての質にかかわりなく、時間を経ることができただけで価値を生み出してしまう。上海の風景は歴史に翻弄されることなく、現在にいたっている。それゆえに、時代を越えて描かれた記録を、いまでも重ねあわせることができるのである。 上海は二人の本郷義昭を虜にした不可思議な都市である。
(連載第六回- "at" '90/09掲載)


「アジアを夢見る-上海1945」十年後記 2001年2月10日

テレビで見る現在の上海は異様としか思えない。まるで万国博覧会のようだ。

十年前の上海はまだ、アンドレマルローが、金子光晴が、蒋介石が、「太陽の帝国」の作者バラードが愛した上海の面影は残っていた。そこには20世紀前半に上海を埋め尽くした建物が残されていたから。薄暗く、雑踏と猥雑さの匂いが残されていた。また、外国の観光客にもそれで売っていた。今の観光客は上海で何を見るのだろうか。

1985年だったか、一冊の本が出版される。「宋王朝」という宋家三姉妹について書かれた本だ。長女は中国金融界を牛耳った男の妻、次女は孫文の妻として中国人民に操を捧げる、三女は蒋介石の妻、彼女たちを中心に激動の中国の歴史を描いた本として有名である。出版前、この本の内容が知られるようになると、作者は見えない影からいろいろな圧力を受ける。刺客が指し向かれたとか、終いには出版元からすべて本を買い取ってしまえという話もあったらしい。

原因は上海時代の蒋介石の行状が描かれているからだ。嘘か本当かは判らないが、蒋介石はやくざの庇護の元で権力を維持してきたというのだ。英文の本の作者紹介欄には、資料の出所にはFBIからのものもある、と記されている。台湾の一部では大騒ぎだったようで、中文に翻訳され台湾で出版されたものには、原本にあった箇所がいくつか削除されていた。やはり上海はよほど魅力あふれる都市だったのだろう。


「アジアを夢見る-上海1945」二十年後記 2010年6月10日

「亜細亜の曙」の作者山中峯太郎は生粋の軍人であり、生粋の右翼でもある。しかし彼の経歴は別として、少年少女向けに書かれた「亜細亜の曙」は面白かった。何しろ話が痛快なのだ。それゆえ少年少女たちが主人公の本郷義明に憧れたことは疑いもない。戦後ある左翼系著名評論家が山中峯太郎とその作品を帝国主義を小国民に押し付けたと評した。しかしだ、少年たちは強いものに憧れるものなのだ。苦悩する反戦左翼系知識人の話を少年少女に押し付けても、学習することのできる彼らにはおそらく糧にはならなかっただろう。

J.G.バラードの自伝的作品、「太陽の帝国」を紙で読んだわけではない。スピルバーグの映画で見ただけだ。そのなかで、上海の豪邸に住むイギリス人一家のバラードは親の心子知らずで日本の戦闘機ゼロ戦を手に勝ち誇ったように空中を走らせる。当時ゼロ戦は最も優れた戦闘機として知られていた。バラードも強いものに憧れていたのだ。そこには敵も味方もなかった。

森川久美さんは少女コミックスの読者にとっていまやレジェンドなのかもしれない。いち早く中国を舞台に作品を続けさまに発表、どれも面白く興味深かったと記憶している。いや私は娘の本棚から森川さんの本を見つけ出して面白い面白いといっていたただけで、本屋で少女コミックスを購入する勇気は持ち合わせていなかったのだが・・・。

[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」  に収録されています。]

Wednesday, June 9, 2010

[East Asia photo inventory] 「三十八度線の北-建築のない風景」 (韓国・束草)

ホームページを閉鎖することにしました。古い記事、当時の東アジアの雰囲気を伝えた部分をこちらに掲載しておくことにします。[二十年後記を追加]

韓国・束草(ソクチョ)の渡し photo:(C)Eiji KITADA

建築雑誌 "at" 連載 第5回
「三十八度線の北-建築のない風景」 (韓国・束草)

文:大行 征
写真:北田 英治

韓国の北西部を江原道と呼ぶ。ここには朝鮮動乱以前に、三十八度線より北にいたい人たちが集まって住んでいるという。いつの日にか北に帰れるかもしれない、という想いがこの地方にはあるという。

動乱の後、大国の取り決めで引き裂かれた分割線、東西の話し合いが進むなか、彼らはこの線の南側に集まってきたという。それも着の身着のままで。線の消える日がやってきたならば北へ帰るのだという思いが、ここを定住の地と考えることもなく今に至っている。そのためか風景は貧しく、建築らしい建築も見あたらない。

二年前の冬、ソウルから高速バスを乗り継ぎ、鉛色の海岸線を北上した。彼方まで続く鉄条網沿いに、緯度が北に最も近い小都市・束草に入る。かつて、海岸線は街の奥まで入り込んでいたが、日本海の荒波を遮るために埋め立てられた。その帯状の防波堤には、今では海風を避けるための、軒の低い民家が薄く長く張り付いている。運河状に残された水路の奥には漁港があり、ちょうど街は分断された格好になっている。そのため、人の往来は渡し船に頼っている。わずか両岸五十メートルの間にスチールロープを渡し、鉄のフックを乗客が代わる代わるに引きながら向こう岸へと渡っていく。番所が海岸仙川にあり、乗客はそこで十ウォンを支払う。彼らは町にでるのにも運河のロープを手繰らなければならない。人影の途絶えたときと漁船の出入りのとき、この風景は停止する。束草の町のなかで、動きのある風景はここにしかない。

見るべき建築があるわけでもなく、ただ荒涼とした風景が広がるのみの場所。見えるものは、北からの進入を防ぐため海ぎわに張られた、どこまでも続く鉄条網と、運河の傍らでひたすら三十八度線の北へ戻れる日を待ち望む人々の姿かもしれない。束草では、人が住み続けているにもかかわらず、建築のない風景がひろがっている。

韓国の風景は美しい。しかし、多くの古建築は長年にわたる動乱で原型を留めていない。近代建築のほとんどは植民地時代の遺産であり、それも二流品の焼き直しである。とはいえ、そんなこととは関係なくたたずまう、名もない風景の中の建築に魅力を見いだすのは、明らかに空間が民族やその地方の文化を表現しているからであろう。その点を心得て東アジアの空間を見るならば、西洋合理主義のものの見方・考え方とは、別の切り口を探り出せるにちがいない。もし建築を、いかに効率化と合理化するかを中心に考えるとするならば、東アジアの風景は退屈きわまりないと感じることだろう。
(第五回終了- "at" '90/08掲載)
 

「三十八度線の北-建築のない風景」十年後記 2001年2月10日

三十八度線沿いの旅から戻って間もない頃、日本のテレビで「チケット」という韓国映画が放映された。舞台は韓国のひなびた地方都市、そこの喫茶店で働く女たちのお話。喫茶店にコーヒーの出前を注文すると、女性が配達してくれる。女性は配達以外のサービスをして収入を得ることになる。

ソウルから束草のバスターミナルで降り立ち、我々は宿の手配をしなければならなかった。2月、三十八度線に近い日本海側のこの小都市はやたら寒い。ホテルでも簡易旅館でも良かったが探しあぐねていた。暖と口を潤すために喫茶店にはいる。客は若い女性ばかり、それもだらだらと適当にテーブルを占めている。コーヒーを運んできた女性に身振り手振りで宿はないかと尋ねると、案内しようと近くのひなびたホテルに連れてってくれた。その女性は、帰り際にコーヒーを持ってこようか?らしいことを言って戻っていった。

それから二日たった早朝、我々は三十八度線に向かう道路が行き止まった町の宿で警察官にたたき起こされた。昨夜は遅くまであちこち歩き回って酒もしこたま飲んだ後、酔いの残った顔で質問を受けることになった。仲間のうちの何人かが、飲み屋で前線から戻った若い軍人たちとちょっとした口論があったらしい。年寄りの、日本語の通訳が職務に忠実そうな警官に我々の返答を翻訳してくれていた。警察官は、無礼があってはいけないとの配慮からか、簡単な朝食を注文してくれた。温かいコーヒーとトースト、配達してくれたのは若くて魅力的な女性、我々のやりとりをおもしろそうに聞き入っていた。

「チケット」という映画を見たのはそれから半月もたたない後だった。


「三十八度線の北-建築のない風景」二十年後記 2010年6月9日

韓国テレビドラマ「冬のソナタ」がNHKで放映され始めたのが2003年のこと、一躍韓国はドラマの輸出国となっていく。あるとき、韓流紹介の番組を目にしていたところ、あるドラマのいちシーンが目に留まった。どこかで見たことのある風景。紛れもない、束草(ソクチョ)の渡し場だった。ドラマの題名は「秋の童話」。小さいときに切り離された少年と少女、二人は一途に思い続け、成長した少年は彼女を捜し続ける。二人のすれ違いの場がその渡し船だった。

テレビで見る渡し場周りの風景は当時と異なっていた。本島側にはビルが、遠くには高層マンションの姿が。残されていたのは彼女の母親が営む小さな雑貨屋。昔我々は店の前に置かれた箱に船賃1ウォンを投げ入れた。「チケット」を売るコーヒー店がいまだに残されているのかは解らない。

束草を後にバスで朝鮮半島を横断する。たどり着いたのは春川。「冬のソナタ」のロケ地のひとつだと知るのは十年以上もしてからだ。我々は春川の風景に満足できず、さらに北へ、38度線へと向かった。夕暮れ時たどり着いたのは華川という小さいながら飲み屋食い物屋キーセン宿もある前線の補給基地。それとは知らず、平和な日本人たちは飲み食いを満喫した。そして兵士といざこざを起こし、我々の存在は小さな町に知れ渡ることになった。翌早朝我々は警官に尋問される。

人のよさそうな日本語のできる親爺さんと若い警官、一行四人、私の部屋に集まった。まず警官が話を切り出したのは以外にも「食事は済まされましたか?」というものだった。いやまだですと答えると、若い警官は親父さんになにか指図をする。型どおりパスポートの提示、そして職業を聞かれる。建築家ですと答える。脇の一人がそれに続く。続いて元来建築家だったが今では一流のもの書きになっている彼も「建築家です」。最後の一人、写真家は口ごもって言葉が出てこない。通訳の親父さん、同様に「彼も建築家です」などと話したらしい。そう、メディアがらみの人間は怪しまれる。厄介ごとにならないよう、親父さん当たり障りのない通訳をしてくれたようだった。

そこに小柄だが美形なお嬢さんがコーヒーとサンドイッチを運んできてくれた。そのまま出て行くと思いきや、警官の脇で興味深そうな目でわれわれのやり取りを眺めている。本題はというと、この先38度線の向こう側でダム工事をしていることを知っているか?というものだ。知る由もない。そう答えるよりほかにない。38度線の先でダムを工事しているのがどう問題なのか、今年はじめの放流により多くの被害者を出したことで答えがでた。

結局どうみても特務を帯びているとは見えない我々、朝食をご馳走になって解放された。

[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」  に収録されています。]

Monday, June 7, 2010

[East Asia photo inventory] 「不確定な風景-香港一九八七」

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1987年6月31日/英領香港も借りた時間はあと10年 photo(C)Eiji KITADA


建築雑誌 "at" 連載 第4回
「不確定な風景-香港一九八七」

文:大行 征
写真:北田 英治

一九八七年七月一日の香港はその年最高の温度を示していた。一歩建物の外に出ると、体全体に三四度の水蒸気がまとわりついてくる。香港全体が上海風呂のようである。ビクトリア湾に浮かんだ木っ端のような啓徳空港で、比重が一に近い空気を味あわされて五日が過ぎていた。十年先の今日、自由経済のもっとも基本的な姿で機能していた英領香港が、地球上から消え失せてしまうこの日を期待して香港に滞在していた。中国銀行を始め、中芸や九龍城の一角に五星紅旗が翻るのではないかと、朝早くからタクシーを雇って町中を走りまわろうと考えていたものの、湿った熱気をホテルの窓ガラス越しに感じ取り、またベッドに戻ることにした。

その日の午後、地下鉄で九龍に渡った。街はなんら変わることなく、昨日と同じように汗を流した。当然、五星紅旗も青天白日旗もユニオンジャックも見ることはなかった。スターフェリーの入口で、手当たり次第に七月一日付けの新聞を買いあさり、一等船室に乗りこむ。新聞をひろげると、ある記事に目が止まった。一つは「移民」、もう一つは「ベトナム関連」である。アメリカ合衆国とカナダへの移民のお手伝いをしましようというもの。もう一つは「ベトナム親族捜し」「ベトナム定期航路案内」「ベトナムエキスプレスメール」。一つは香港からの脱出を、もう一つは香港に辿りついたポートピープルに向けたメッセージである。限られた十年という時間。時間のみが引き算の香港にあって、この地を見棄てようという人間、失われた国から十年後に消失する国にやってきた人間。そしてそれを商売にする人間。

自分の国籍を疑われることのない国民は幸せである。税金さえ払っていれば、憲法で保証された最低限の権利だけは守ってくれる。しかし、香港に居を構えようというなら、話は別である。七月一日の新聞のすべてが、新しい身分証の実施について第一面をさいた。十年後、おまえたちはどの国を選択するのかを問うている。新しい身分証は一九九七年以降、中華人民共和国香港特別行政区政府のものにとってかえられることになる。政治などクソくらえだと言っていた香港の人間も、今度ばかりは自分自身で自分の国を選択しなければならない。限られた時間、それも英中のボス交で取り交わされた約束ごとにそって、明日なぞ考えもしなかった連中が、十年間の引き算のなかで明日のことを考えねばならなくなった。

三年前のセントラルには、まだ中国銀行はその威容を表していなかった。香港上海銀行の隣の旧中銀の会議室で、我々はペイとパートナーを組んだ構造設計者から、革新的なトライアングルストラクチャーの説明を受けた。ピークの中腹では日本の商事会社が大規模最高級マンション群の竣工を急いでいた。銀行家はリパルスベイを見おろす集合住宅の改装に手をかさないかとささやいてきた。

現在、高級マンションは裁判沙汰の最中、銀行家は職を離れ、大陸向けの商売をはじめている。今なお香港の風景はきわめて不確定であり、明日を予測することは難しい。
(第四回終了- "at" '90/08掲載)


「不確定な風景-香港一九八七」 十年後記 2001年2月9日

一九九七年、私は香港を訪れなかった。その一年前、香港で何かが起こるかもしれないことを期待して宿の確保を手配しようとした。当日の7月1日前後は、信じられないような宿泊料が香港から伝えられ、日本の旅行会社はそれでも多くの客を信じて疑わなかった。返還の日が近づくにつれ、当地からの情報は魅力的なものではなかった。

当日、香港は予想以上に統制された行動で始終した。中国の思惑通りに進んだ返還行事といえるだろう。キャンセルを受けた多くの宿はダンピングで客を誘い、それでもどこもが満室になることはなかったという。

先日「甜密密」(日本題「ラブソング」)という香港映画を見た。はやりのラブソングを口ずさむ男と女の十年にわたる恋愛映画である。男は天津から、女は広州から働きにやってきた。男も女も大陸の人間である。香港映画が時代劇を除いて大陸の人間の話を中心に据えた映画を今まで見たことがない。

映画の中で香港の風景は今までと変わることはなかった。いや、むしろ今まで以上に商業主義のにおいを強烈に振りまいていた。テレサ・テンの歌を歌い、標準語を話す香港の人間は大陸からやってきたものだ、商売で成功するには広東語(香港で一般の人が話す言葉)と英語(英領香港の公用語)が話せなければならないと女はいう。変わったのはその中の人間だったのか。

[注:内容的に間違いのある部分も含め、手は加えてありません]
[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」  に収録されています。]

Friday, June 4, 2010

[East Asia photo inventory] 「多言語な風景 - "悲情城市"のなかの上海人」

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騎楼と呼ばれる連続店舗のアーケード/台北 photo:(C)Eiji KITADA

建築雑誌 "at" 連載 第3回
「多言語な風景 - "悲情城市"のなかの上海人」

文:大行 征
写真:北田 英治

日本の敗戦から中華人民共和国成立までの5年間を描いた台湾映画「悲情城市」では、おなじ漢民族同士でありながら、話し言葉が違うだけで殺し合う悲劇を描いている。ある地方の言葉を使えるというだけで権威を手にする人間をみつめている。映画のなかで、蒋介石の軍隊とともに台湾に渡ってきた上海のやくざと,地元台湾のやくざとが話しをつけるシーンがある。始めに台湾の親分が台湾語で付人に話しをすると、付人が相手の付人に広東語に翻訳する。その付人は上海人のボスに上海語に訳して伝える。台湾語↓広東語↓上海語、そしてまた元にもどってゆく。

建築の世界にも似たところがある。台湾の首都台北には、福建省に多く見られる騎楼(アーケード)を持った都市型連続住居、農・漁村に多い三合院住居、日本占領時代の帝冠様式の政府官庁建築、日式木造二軒長屋、中国北方様式の記念建造物等々、時代と地域を越えた建築様式がポストモダン建築と一緒に顔を並べている。地方的伝統と外来様式とが渾然一体となって併置されている。

言葉の世界でみてみると、中国同様、台湾も北京地方語をもとに標準語・共通語が規定されるのは、第2次世界大戦以後である。それまでは、話し言葉は地方語、文章は文語文の時代が延々と続いてきた。標準語・共通語が制定され、多くの中国人は標準語と地方語の二つの言葉をもち、時と場合に応じて使い分けることになる。使い分けの巧さは見事というほかなく、右を向いて北京語、左を向いて台湾語、まったく違和感をもたない。時にはそれに日本語も英語も混ざってくる。まさに大都市台北の風景によく似ている。

言語は文化である。多言語を使いこなすことはそれぞれの文化を享受することになる。歴史的にみても、台湾は外部から人間の流入がはげしかった。十七世紀の半ば、鄭成功が漢人を大挙引き連れて中国文化の基礎を築いて以来、客家人、日本人、外省人と絶え間なく異文化が持ち込まれてきた。建築の様式にもそのことがよく反映されている。平面は伝統的四合院形式だが、立面は西洋館。東棟は日本風、西棟は洋館、中央の正庁とそれをつなぐ回廊は中国伝統様式。特別なきまりが見あたらない。

どちらにしても、台湾建築はひとつの様式に因われることが少ない。あるルールさえ守れば多くのことが実現可能である。そのルールとは、まず異文化を翻訳し、再解釈した後に建築のなかに取り入れることである。必ず再解釈が必要である。再解釈することによって、ローマン語文化も日本語文化も漢字文化に馴染ませることが可能となる。中国人がマルチリンガルに対応できるように、台湾の建築も多種多様な建築様式を翻訳し、再解釈し、多言語な風景を生み出しているのである。

(第3回終了 - "at" '90/07掲載)


「多言語な風景」十年後記  2001年2月9日

「悲情城市」のなかの上海人は映画の中では評判が悪かった。組織暴力団と地回りのやくざでは、勝ち目は最初から判っている。後ろ盾に軍がついている組織暴力ではどうしようもない。「悲情城市」公開までは、表だって228事件について語られることはなかった。

それ以降、台湾では台湾独立という話が現実味を帯びることになる。現総統選出の背景には、「悲情城市」があったのかもしれない。長年、中国大陸も台湾も「一つの中国」を標榜してきて、今回の総統選で破れた国民党が掲げてきた「一つの中国」を、中国大陸が逆手に取って現総統を攻撃したのは皮肉なことだ。

台湾には、鄭成功以降に大陸から渡ってきた福建人(いわゆる台湾人)、遅れて渡ってきた客家人、そして日本の敗戦以降中国大陸各地方から外省人が入ってきた。元々の台湾人(高砂族、山地人などと呼ばれてきた)を含め、多くの言語が入り交じって使われてきた。必要に迫られ、彼らは他の言語を理解しなければならなかった。今でこそ、義務教育の充実で標準語が普及しているが、ほんの一昔前までは、いたるところで「多言語な風景」にお目にかかったものだ。

[注:内容的に間違いのある部分も含め、手は加えてありません]
[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」 に収録されています。]

Tuesday, June 1, 2010

[East Asia photo inventory] 「揚子江の南」

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上海預園の石像彫刻 photo(C)Eiji KITADA

建築雑誌 "at" 連載 第2回
「揚子江の南」

文:大行 征
写真:北田 英治

設計指導のため北京に滞在した折、I. M. ペイの香山飯店を見に行った。北京設計院の連中は南方形式(楊子江以南の地域の様式)を持ち込んだといって嫌っていた。白壁に灰色の瓦をあしらい、緩い傾斜地に馴染ませた配置は私的であり、おおらかでないという。しかもペイはただの瓦を外壁に貼るため、削り、隅を出し一枚十角のものを十倍の単価にしてしまった。しかし外国人である僕はかなり気にいっている。ちなみにペイは中国南部、広州の生まれである。比較的歴史が浅く、文化的土壌の異なる北方の人ではない。

同じ中国でも、上海と北京の風景はちがう。当たり前である。しかし、同じ文字を異なって発音することはあまり知られていない。だが、これも当たり前である。上海の預園の屋根は大きく反っているが、北京の紫宸殿は水平線によくなじんでいる。上海のバンドの風景はやはり北京には合わないだろう。同様に北京飯店は上海では高圧的すぎるかもしれない。

日本人にとって南の建物は奇をてらい過ぎだと感じるかもしれない。饒舌なのである。玄学的であり人によっては辟易とするかもしれない。上海出身の友人にこの件を話してみると”小功玲瓏”と書いてくれた。小粒にして秀麗巧緻とでも訳すのだろうか。

上海の旧中国人街にある預園はある金持ちの私邸であった。ここは小功玲瓏の展示場である。回遊する庭園の随所に光庭が展開し、一巾の絵のように彫刻がしつらえてある。梅にしろ鶴にしろその全てが石塊でできている。庭をくぎる白壁では龍が天空に飛び出そうとしている。空間はうねりそして歪む。写真のファインダーで切り取ってみればどれも感嘆に値するのだが、集合したものを見せつけられるといささかうんざりする。

これ程までにして表現しようとしていることは、いったいなんなのだろうか。おそらくこの建物に係わった全ての人々が自分の宇宙を表現しておきかったのではないだろうか。一つの要素に意味を与え、別の要素を付け加えて物語りをつくり、更には叙事詩へと導いていく。部分としても全体としても成り立っている。ちょうど漢字が一字一教義なのと似ている。一字でさえすべてを語ろうとする。南の文化にはそんな背景が色濃く感じとれる。もしかすると、南北の違いは漢字を創り出した南とそれを利用した北との違いかもしれない。このことはとりもなおさず、文化を伝達した漢字が、表意・象形文字ゆえに、どの地方でも翻訳され易かったことと無縁ではあるまい。

東アジアの国々は中国文化を受け入れながらも、その国独自の展開を比較的自由におこなっている。切り取る部分とその組み合せにより新しい教義をつくりだしている。漢字が各々をとりもって同義異音の文化圏を生み出していくのである。
(第2回終り- "at" '90/06掲載)


「揚子江の南」十年後記 2001年2月3日

北京の香山飯店の現在について詳しくは判らない。しかし、初めての訪問から3年もたたないうちに、建物は汚れ、庭は手入れが不十分、客層の顔つきも違っていた。なぜだかは知らない。市内から離れすぎているからなのか、南部が嫌いな北京人が近ずくのを嫌ったのか。

北京は空間も人間も何か大雑把でとげとげした印象しかない。政治の中心地となると、どこもそうだろうか。退屈をしのぐ場所も上海に比べれば圧倒的に少ない。夜中まで仕事が続いたある週末、同僚と二人天安門広場前の大通りで退屈しのぎを考えていた。人と自転車が行き交うだけの通り、同僚に提案する。「おい、抱き合って見せようぜ!」。この案は決して彼に受け入れられなかったが、今ならどうだろうか。

上海は北京に比べるとはるかにくだけた感がある。
魯迅の上海時代の住まいを取材した夜、友人とホテルの外にでると若者たちが近寄ってきた。「話をしたいんだけど・・・」 「飯にしたい」「あっちだ、こっちだ・・・」「安くて美味しいとこ」「OK!」で、連れてこられたのはバンドの入り口に建つかつてブロードウェイマンションとよばれたホテル裏。こぢんまりとした普通の店、料理は上海家庭料理、しかし何かが違う。若者たちはにやにやしている。客は男ばかり、それも結構いい男たちだ。オンナはわずかに掃除のばっちゃんだけ。そう、ここはホストが店の始めや終わりに食事をするための溜まり場だった。

[注:内容的に間違いのある部分も含め、手は加えてありません]
[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」 http://www.sinkenstyle.co.jp/sub_contents/asianlile/index.html に収録されています。]