Friday, December 24, 2010

[台北] 聖誕夜快楽!そして”Do They Know It's Christmas?”

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聖誕夜快楽!そして”Do They Know It's Christmas?”快楽!

[今日はクリスマスイブ、意味もなく勝手気ままなヨタ文を書くことにした。以下の内容はいたくいい加減であり、ネットをさまよって得たネタを組み合わせたに過ぎない。ネットではいとも簡単にほしい情報を探し出せるが、それが正しい内容かどうか、しばしば考えてしまう。元ネタはどこに、行き来するうちに堂々巡りしてしまう。正確と思われる情報は個人個人で判別してほしい。]

26年前のクリスマスを前に、英国のボブ・ゲルドフという人気下降気味のミュージシャンが昼間は時間をもてあましていたのか、アパートの混乱した一室で見ていたTVで繰り返し映し出されるエチオピアの大飢餓に腹を立て「くそ!なんてこった!」とバンド仲間のミッジ・ユーロに電話をし、国中の若い、疑心暗鬼な奴も含め、音楽仲間を一晩(二晩)引っ張り出し一枚のチャリティー・ディスク”Do They Know It's Christmas?”を作成してしまう。このプロジェクトはBAND AIDと呼ばれた。

このプロジェクトがその後の同様なプロジェクト、たとえば”We were the world - USA for Africa”などと大きく異なっていたのは、歌詞のある一節にあると思っている。ウィキペディアから丸まる引用するとこうなる。

「..."Well tonight thanks God it's them instead of you" <それ(飢餓の犠牲者)が君ではなく彼らだったことを神に感謝しよう>という部分があまりにひどすぎるとミッジに反対された。しかしボブはうわべだけの言葉ではなく、本音を伝えたいと彼の反対を押し切ってそのままこの歌詞が採用されることになった。...」

英国ポップス界を彩る面々の登場は見ごたえがあった。しかしなんといっても26年前のことだ。今の若い連中にはまったく持ってピンとこないだろうし、私自身も彼らは今いったいどうしているのだろうかという疑問もある。探ってみることにした。こちらの都合で参加者すべてを取り上げるわけにもいかないので個人的な偏見で選んでいるが、この曲を冒涜するつもりはまったくない。何しろ歴史に残る快挙なのだ...

・ボブ・ゲルドフ
ボランティアにいそしむボブのせいで、本業のブームタウン・ラッツが活動停止状態に陥り、メンバーが貧困にあえいでいるらしい(実際彼らは解散する)。[英国音楽倶楽部・STORY OF BAND AIDから]
ゲルドフの富は、2001年にイギリスの放送局の一覧で第18位である三千万ポンドであるとブロードキャスト誌によって見積もられた。[Wikipediaから]
ボブは航空チケット会社、広告プラン会社、など多数の会社の役員でもある。[Wikipediaから]
2005年ブームタウン・ラッツの元バンド仲間にバンドのレコーディングからの相当な利益を与えずにおいたとしてゲルドフを訴えた元バンド仲間との法的争いに巻き込まれた。LIVE 8が成功したことによりボブ・ゲルドフの講演料が約600万円から約1,000万円に値上がりをみせた。[Wikipediaから]

・スティング(ポリス)
熱帯雨林の保護活動家、国際的な人権保護運動家の側面を持つが、ベーシストとしても一流であり、ポリスのアンサンブルを語る上で欠かせないものである。アコースティックで培ったダイナミズムをエレクトリックに反映させた骨太の音で、時にはテクニカルにビートの隙間を縫うようなフレーズを歌いながら難なく弾きこなす。[Wikipediaから]
・ジョージ・マイケル(ワム!)
1998年に公衆わいせつの現行犯で逮捕された。"OUTSIDE"のプロモーションビデオでは、この事件のことを自らパロディにしている。のちにテレビ番組でゲイであることをカミングアウト。2006年2月26日未明、ロンドンの中心部に停まっている車の運転席で、もうろうとしているところを通行人に警察に通報され、車内からクラスC(大麻など)の薬物が見つかり、運転が不適であるとの理由から逮捕された。2010年には7月に大麻を吸引して車を運転したとして9月14日にロンドン治安判事裁判所より禁固8週間の実刑判決が下され、刑務所に収監されている。[Wikipediaから]

・ボーイ・ジョージ(カルチャー・クラブ)
2007年4月27日、ゲイ専門の出会い系サイトを通じて知り合ったノルウェー人の男性を、ロンドン東部の自宅に1時間近く手錠を使って監禁し、鎖で殴打したとして逮捕された。ジョージは手錠をかけたことは認めたものの、監禁や傷害の容疑に対しては否認した(共同通信社2008年12月5日付)。[Wikipediaから]
2008年12月5日、ロンドンにある刑事裁判所の陪審団は有罪の評決を出した。2009年1月16日、裁判官はジョージに対し禁固15ヶ月の実刑判決を言い渡した。[Wikipediaから]
2009年5月11日、所内での勤勉な態度を理由に4か月での出所が認められ出所。[Wikipediaから]

・マリリン(近場の写真が見当たらなかったので当時のものから...左はボーイ・ジョージ)
2002年7月には、長いあいだ仲違いしていたボーイ・ジョージとの共同プロデュースで、シングル「Spirit In The Sky」をインディーズでリリースしている。[Queer Musiciansから]
2003年4月に、マリリンはイギリスのゲイ雑誌『Boyz』のインタヴューに応えて、最後に付き合った男性と別れて以来16年間ずっと、誰ともセックスしていない、と語った。その男性というのは、名前は伏せられているが現在では有名なロック・スターだそうで、当時は15~16歳だったという。彼とは4年間交際し、その少年がスターになるためにマリリンは尽力したが、彼のデビュー後、彼に捨てられたことによって、マリリンは精神的にボロボロになり、以来誰ともセックスしていないという。[Queer Musiciansから]
現在のマリリンは、薬物中毒と対人恐怖症を抱え、病院に通って治療を受けている。(最終更新日:2006年1月30日)[Queer Musiciansから]

Saturday, December 18, 2010

[MTV] アダルトなサウンドのGOTAN Project

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久しぶりにBudhha Barレーベルの連中は今どうしているのかと何人かのミュージシャンの消息を追ってみた。

地中海を囲む民族の血をごちゃ混ぜにしたようなIshtar Alabinaは風采の上がらない男と結婚していた。昨年新しいアルバムを出していて、同じイスラエル人男性歌手とデュエットした”Yahad”は彼女らしくて気に入っている。

米国ツアーのビデオ・クリップが面白くなかったGOTAN Projectは”タンゴの復権”を諦めてはいなかった。タンゴといえばアルゼンチン。アルゼンチンタンゴといえば恰幅のいい身体を黒のタキシードで包み、太い眉にギョロッとした目と鷲鼻でいとも簡単に女性をあしらう踊りがなんともいえない魅力なのだが、GOTAN Projectの連中はいささか異なる。どちらかというと貧相な容姿、しかし知的さと衒学さをまとっている。彼らが今年に出した三枚目のアルバム”TANGO 3.0”は私にはちょっと疲れる。ただそれはディスクの中にいるからかもしれない。ライブ物では彼らお得意の大画面での映像を背景に、いや時に彼らが点景となり、シンセを加えた多様な楽器、黒で抑えた衣装、そして薄暗い舞台。やはり彼らは舞台の上で魅力が存分に発揮されるようだ。

video from http://vimeo.com/13510631 "GOTAN PROJECT - Teaser Live 3min on Vimeo"

Thursday, November 25, 2010

[台北] 原住民族電視台はGreen Channel - ”ina的厨房”


 テレビのチャンネルをあれこれ行き来していたいた際に偶然見かけたチャンネルがありました。”原住民族電視台”です。これを機に「風中緋桜 - 霧社事件」という2003年に放映された連続テレビドラマの再放送を見ることができました。完結まであと二週間です。生き残った渦中の高山初子のその後が描かれるのでしょうか。

この”原住民族電視台”ですが、機会あるごとにチャンネルを合わせてみると興味深い番組で組まれていることがわかりました。(といっても私にとってなんですが)。たとえば報道番組で紹介される世界ニュースは海外の少数民族にかかわる報道。たとえば、アルゼンチンの元首相が亡くなった報道で彼が原住族出であることを知りましたし、オーストラリアで原住民基本法が制定され、前政権にいた高官が怠ってきたことに反省したスピーチで、一説の終わりごとに「・・・・・・・,I'm sorry.」と付け加えていたシーンが映し出されたりします。北朝鮮情報なぞまったくありませんしその必要もないのです。そのかわり、西域の人たちが欧州で自冶権要求のデモを行われたことについてはちゃんと紹介されていました。

族語新聞は異なる言語を話す部族むけの番組。一日ひと部族の言葉で流すニュース番組です。

”我們的故事”はいろいろな原住民族の”むかし昔話”。伝えなければならない部族の慣わしを子供たちに紹介するもの。昔話から彼らの習俗風習、宗教観を知るには最適です。

”超級部落客”は、数多くの芸人を輩出している原住民ですので、引き回し役の原住民の若いタレント男女二人が、彼らとインタビューしながら原住民のアイデンティティーを引き出して紹介してくれます。特に女性は見かけ辣妹(日本語だとなんて訳すといいのでしょうか)ですが、機転はきくは話題は豊富で核心を引き出すのもうまい。

そのほかにも海外環境問題ドキュメントの放映、高地でのエコツアー、平地でのアグリツアーの紹介など興味を引く番組がずらり並んでいます。高地エコツアーでは部族の言い習わしや宗教観などを実感できるようです。

 このチャンネルのキャッチフレーズの一つに「原住民族電視台はあなたに最も原始的な感動をお送りします」があります。原始的な感動、都会に台北にいては得られない感動、原生林のなかで生き続けてきた狩猟民族の生活の紹介などです。無いものは自分でつくる、必要なものは店先にあるのではありません、創意工夫が必要だった生活の伝承......などなど。
台湾人が大部分なここ台湾にあって、原視TVにチャンネルを合わせる人がどのくらいいるのか。まあかなり限られているでしょうが、そのなかで恐らく彼らでも興味を引くチャンネルは”ina的厨房”ではないでしょうか。台湾人芸人、「海角七号」でバンドメンバーの一人勞馬を演じた民雄が、台湾中の原住民部落のvuvu(族語:オカーサン)ina(族語:シェフ?料理人?)を訪問し、その場で足を使い分け入った土地の野生の自生の食材を採取し、その場で料理をして見せてくれる番組です。
番組の特徴は、必ずその土地に自生、もしくは有機農場の野菜を用います。ということは、新鮮、季節もの、だから元気で身体にいい食材なのです。料理は目の前でvuvuの解説付きで出来上がっていきます。手の込んだ料理はありません。変に味付けもしない。紹介される料理のほとんどは部落の伝統料理だそうで、おばあちゃんのおばあちゃんのおばあちゃんの・・・代から受け継がれてきた料理。番組の最後にvuvu曰く「養生健康美味」な料理ですと〆る。そうでしょう、空気が綺麗で、水がおいしくて、土地が汚染されていない高地なら、野菜はしゃきしゃきとして噛み応えあるだろうし、野菜本来の味は強いだろうし、なにしろその日の食い物はその日に採取して料理されるんですから。料理の基本でしょうね。

オッと、今日は木曜日、夜九時から「ina的厨房」が放映される!

Tuesday, November 23, 2010

[台北] 花岡両名の遺書

花岡両名の遺書



テレビのチャンネルをあれこれ行き来していたいた際に偶然見かけた番組がありました。原住民族電視台が再放送している「風中緋櫻 - 霧社事件」です。チョイの間見てみるとどこか興味深い。甚く惹きつけられました。

ど こに惹かれたかといいますと、番組の予告編を流している、そこに登場する若者たちは日本人らしい、ということで見始めました。じつは若者たちは台湾原住民 族でサイダク族出身。主人公は台湾の蕃人で最初に師範学校に入学し終了した模範蕃童(優秀な蕃人の子供)です。うら若い女性のほうは霧社事件で生き残った 数少ないサイダク人、事件の核心にいた方です。この番組は事件発生から半世紀を経たあと、台湾の研究生がこの女性からヒアリングして書かれたノンフィク ションをテレビ化したものです。この二人、見るからに日本人らしい、いや当時の理想的な日本人像に見える、徹底的に皇民化教育を受けた人たちなのです。

模範蕃童の一人・花岡一郎は夢を持っていた。教師になる。しかし彼の夢はかなわない。占領政策として、日本統治を円滑にするための仲介役となる警察官に任命 される。当時の台湾は警察によって統治されていた。統治する側につく統治される部族の人間、当然彼の中にいつも葛藤する自分がいた。

生き残って霧社事件を後世に伝える役を担った高山初子は看護婦として見習いを始めている。小さいときから医者も病院もない部落で怪我や出産に難儀する様を見、また、日本人教師からナイチンゲールの話を聞かされ、看護婦になることを夢見る。

一 方ドラマに登場する日本人はどれもこれもダメ人間だらけ。霧社警察の主任は事なかれ主義の役人根性丸出し。後任の男は袖の下しか考えない。蛮人との交易は 現金でなく物々交換。塩の取れない山間地で塩は命。ちょっと前まで日本でもタバコと塩は専売公社が仕切っていた。ここで警察署が管理していてもおかしくな い。狩猟民族の彼らが狩で獲た獲物を差し出しても値切りに値切る。そして警察官で蛮人を妻に娶り、ボランティアで教師をする知識人。ただし彼とてここを教 育文化の高いところにしたいと理想に燃えても、上司が彼のかみさんに横恋慕すると猜疑心で妻の前でむっつりだんまり。彼が模範蕃童の高山初子を総督府に連 れて行っていた間に彼女は首吊り自殺をしてしまう。知識人の優柔不断が生んだ結果だ。

このドラマは、異文化の衝突を描いている。稲作を狩 猟民族に押し付ける。自生している稗が米代わりの彼らに農耕定着文化の稲作を強要する。習俗習慣も異なる。狩猟民族の男として認められるために出草・首狩 をする。宗教観もまったく異なる。事件の最中多くのサイダク人が首吊り自殺をする。虹の橋を渡り、祖先の霊が住む聖山に行くために。

自殺 した教師の妻は、彼が台北に出かける前、亭主にすがって語りかける。「私は日本人ではありません。日本人の奥さんではありません。私は蕃人です。サイダク 人です」。劇中に説明らしい場面がないので推測ですが、結婚したサイダク人は不貞不倫はしない。もしそうなったならその場で自害する。サイダク人ならそう してもおかしくないのかもしれない。

霧社事件の最中、四人の模範蕃人、花岡一郎とその妻花子、花岡二郎と妻高山初子は聖山に向かう決意をする。一郎と二郎は、宿舎を出る際に宿舎廊下の白壁に筆を立てる。遺書をしたためる。

花岡両

我等ハ此の世を 去らねばならぬ
蕃人のこうふんは 出役の多い為に
こんな事件に なりました
我等も蕃人達に捕らはれ
どふすることも出来ません
昭和五年拾月弐拾七日午前九時
蕃人は各方面に守つて居ますから
郡守以下職員全部公学校方面に死セリ

ドラマの中の遺書 かなり端折っている
ドラマでは白壁に直接筆を立てているが、実際は和紙を貼った上に書いたという。筆さばきは見事だと思う。自由闊達だと思う。私のように筆の立たない人間にはこれが外国人、それも蛮人が書いたことに感嘆の念を覚える。(差別的に蕃人と呼んでいるわけではありません。強調したいからです。)

花岡一郎はサイダクの民族衣装の上に和服をまとった上で割腹自殺をする。一郎を演じた馬志翔の演技は迫真そのものだった。共演した日本人俳優によると、監督からOKが出た際スタッフから拍手が沸き起こったという。そのとおりだ。彼の目はいつも遠くを見ているようだったので、なおさらそんな印象を与えたのかもしれない。

高山初子は結局聖山へ向かわなかった。四人一緒にと誓ったものの、亭主の二郎がまだこの出来事を知らないお腹の子供に虹の橋を渡る権利はないと一郎に嘆願したからだという。非難するものは誰もいない。おかげで私は八十年経った今、霧社事件とサイダク人について知ることができたのだから。

Sunday, October 31, 2010

[台北] 「風中緋櫻-霧社事件」を演じた若者たち

「風中緋櫻」を演じた若者たち 左から高慧君 韋苓 柯奂如 馬志翔 田麗
ブログが中断していたこともあって、シンさんから「いかがしておるのかね」とメールが届き、返事を書き始めたものの、どうせならこれをブログに載せてしまえという浅ましい考えでできた文章です。以下にその記事を......

先々週に襲った台風は、台湾の東海岸、太平洋から盛り上がった急峻な崖地を走る道路を寸断、多くの犠牲者を出しました。大陸からやってきた旅行団のバスがそのまま海底深く沈み、海中に生息する鮫の餌食となり、片手片足を失ったご夫人の死体が近くに打ち上げられたとか、かなりの事態でありました。

その台風を追うように写真家の北田氏がやってきて、建物の写真を撮る、とはり切っておりました。しかしそこは被災地、結局災害写真を収めたのみで、当の建物は豪雨の中の写真となったようです。その彼が台風一過とともに台北にやってきまして、ほぼ一年ちょっとぶりの再開です。

お互い貧しい懐ということもあり、近くの安いもそれなりの料理屋で飯を食い、コーヒーショップで近況を報告しあい、先立った知人の消息を聞くことになりました。

飲み屋に出かけることなく、私の、何もないサッパリとした部屋に戻り、ウィスキーをちびりちびりさせ、私が今最も関心を寄せているテレビ連続ドラマ「風中緋櫻 - 霧社事件」を二人で見たのであります。

霧社事件については、その昔日本統治時代、高砂族の反乱があったらしいね、ぐらいにしか知りませんでした。このドラマを見てからというもの、この高砂族、サイダク族というんですが、ここで選ばれた部族の若者が皇民化教育を受け、日本人以上に日本人らしく生きる様が映し出される。反乱のさなか、かれらは部族と日本占領政府との板ばさみのなかで自害する、それも割腹自殺をする、介錯なしで腹を切る、という凄まじい生き様の話なんですね。そしてこれはそこで生き残った若者の奥さん、高彩雲さんをヒアリングして書かれたノンフィクション小説からの、ほぼ忠実な再現だというものです。

この役を演じる若者のおおくが台湾原住民族の若者たち。こちらの原住民独特の、きりっとした顔立ちで、日本のどこを探しても今では探し出すことさえできない、かつての日本人を思い起こさせるように演じきっていました。NHK大河ドラマの出演者たちだってそんな日本人は演じきれていないですし、霧社事件どうこうより、そんなところに痛く感動したのです。

二人の若者、花岡一郎と花岡二郎という名前です。反乱のさなか自害を決意して遺書を書く。その遺書をネットで見ました。達筆です。字が生き生きとし、自由闊達なのです。これを蕃人と呼ばれた連中が書いたのですね。日本の教育が優れてといえばそれまでですが、それに答えることができた彼ら蛮人の能力を知らさることになります。

この二人の嫁になった同じ部族の娘の初子と花子を演じた女優たちもまた、役柄を好演していました。とくに二郎の嫁の高彩雲役の彼女、顔が小さくスレンダーて背が高い、そのためか和服を着るとちょっと様にならないのですが、部族の民族衣装を着るとガラッと様変わり、美しいことこの上ありませんでした。(ただし彼女の見かけから原住民系ではないかと思っただけで、正確な消息は検索できずじまいでした)

ドラマや文献などを読むと、このサイダク族、勇猛果敢でかなりの武闘派集団だったらしい。酋長の優れた戦術と組織力で日本に戦いを挑んだ。負けを覚悟に挑 む。そして日本軍は討伐にてこずり、重火器、爆撃、確かではありませんが糜爛ガス弾をもちい、やっと壊滅する。しかしサイダクが他の部族と比して特殊な能 力を持った部族なのかどうか、私にはわかりません。

ここ台湾、九十年代終わりに原住民族基本法が制定され、徐々に彼らの権利が認められ、また彼らも自らのアイデンティテイーを探り始めているということです。このドラマのサイダク族はつい最近一つの族として認められます。それまではタイヤル族の一部族とみなされていたのです。

このときの戦いは「海角七号」という映画を撮った若い監督によりつい最近クランクアウトされ、来年公開と聞いています。サイダクと同じ種族タイヤル出のビビアン・スーがでていると聞いています。

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Friday, October 15, 2010

[台北] ガジュマルと共棲する建物

不思議というほかない。ガジュマルが壁をよじ登り葉を茂らせている建物。何十年もかかっている。私が馴染みにしていた飯店裏の通りの建物。三十年前と変わっていない。変わったのはガジュマルが建物と共棲している姿だ。

台湾の田舎を旅すると小さな村の小さな広場に枝を大きく広げたガジュマルをよく目にする。夏の昼下がり、その下でご老人が籐椅子で昼寝する姿がなんとも長閑で、あんな生活ができたらと思い続けていた。そんなこともあり、こちらでの景観設計、庭作りに提案するのがガジュマルのある庭。ところがこれがなかなか受け入れられない。

ガジュマルは根が強い。枝が地中に向かって伸び、入り込み、横に下に伸びる。自身の重量を支えている。この根が厄介だそうだ。建物の基礎の下に入り込む、壁にひび割れをつくる。周辺に空間の余裕がなければ植えられないという。そういわれて思い浮かべてみると確かにそうだ。広場とか公園の中、キャンバスの芝生の中でゆったりとしている姿が目に浮かぶ。

ではこの写真の建物はどうなのだろう。すでに三十年以上が過ぎている。嫌われるガジュマルならばとうの昔に根元から切り倒されていたろうに。もしかしたらそれを繰り返してもまた枝が出てきたのかもしれない。人さまのほうが根負けしたのかもしれない。強力な生命力。しかし私は、厄介なのかもしれないが、緑の少ない都心に建物とともに生き続けている姿が目に優しいので気に入っている。

まるで「ラピュタ」の城に出てくる廃墟のような建物、先日火災を起こした建物である。写真は数ヶ月前に特長ある都会の風景として記録していたもの。

火災の原因の消息が入ってきた。ある女性が屋上の部屋を借りていた。この女性、部屋にごみを溜め込んでいた。ごみの種類によっては売りに出せる。しかし彼女、そんな素振りもなく溜め続けた。住民からも文句が出て当局がしばしば勧告するもそのままになっていた。部屋に備えた電子蚊取りが明け方に山積みされたごみを燃やした。頭にきたのはその部屋を貸していた大家だろう。屋上の増築はもともと違法建築の部分、今後は建て直しもできなくなった。

余談:火災の当日、ほぼ鎮火したので戻る途中のこと。大通りをタクシーから降りてきた女性を目にした。中年の女性。私に向かって尋ねる。「火事はどこ?」。目元が当惑し顔が引きつっている。バックを開き鍵束を探しながら火元に向かっていった。明け方五時半のこと。お水系の方には見えない。何があったのだろう。

Wednesday, October 13, 2010

[台北] 夏の雲・秋色の空

昼飯時、朝方の火災現場を訪れてみる。現場は跡形もなく片付けられていた。ただ火元の屋上から道端に、六時間も立っていたにもかかわらず、途切れることなく水が流れ落ちていた。向かいの自助快餐店前では、消火栓を修理するおじさんが名残を留めていた。

狭い路地裏通り、覗ける空も狭い。見上げると夏の雲と秋のうろこ雲が半々に交じり合っていた。
「秋かー、どうする日本......」、思わず一言口をついて出た。

Tuesday, October 12, 2010

[台北] 今日の出来事 - 朝火事

外がやけにうるさい。いつまでも花火が打ち上げられているかのようだ。そして女性の緊迫した声が聞こえてきた。カーテンの向こう側が赤く染まっている。まだ空が開け切る前に起きた火事。それも私の部屋から百メートルも離れていない裏通りで。

出窓越しに見てみる。火の手は強くなり、赤い炎も勢いを増す。あたり一帯サイレンの音でいっぱいになる。下に降り、現場へ。すでに大勢の人たちが思い思いの服装で消火活動を見ていた。

火災もとのアパートに上がる階段から水が流れ出している。一人、おじいさん、そこへ入っていこうとしている。若い女性がしきりにおじいさんの袖を引っ張って止めようとしている。おじいさんが何かを口にした。女性が聞く、「何階?」 「四階だよ」。火の手の下の階だ。女性が返答すると、おじいさん、あきらめた様子でその場に立ち尽くしていた。

火元は立ちこんだ裏町の四階建ての長屋。その屋上階に増築された部屋。すでに隣家に延焼していた。放水車のノズルが四方からこの部屋に向けられていた。表通りはというと消防車の列。次から次へと増えていく。路上の消化栓に何本ものホースが突き刺さっていた。

しばらくして鎮火にむかう。戻ることにして家のある通りに出ると路上は煙でもやっていた。負傷者のでなかったことを願って部屋に戻るも気持ちが落ち着かない。そこで朝一番のブログ更新となった次第だ。

Saturday, October 9, 2010

[台北] 時が刻んだもの 時とともに消えたもの

TPadで送られてきた電子書籍を読む

・久しぶりに厦門の姐姐からショートメールが届いた。「ジジイ 身体の調子どうなのよ」 「老頭子、最近身体好嗎(口+馬)?」 [lǎotóuzǐ、zuìjìn shēntǐ hǎo ma?] [ㄌㄠˇ ㄊㄡˊ ㄗˇ、ㄗㄨㄟˋ ㄐㄧㄣˋ ㄕㄣㄊㄧˇ ㄏㄠˇ ㄇㄚ˙?] 。彼女流の心のこもった問いである。
日本の老友からも同様なメールをいただいている。ブログ更新なし、メールの返事なし、心配していただいている。時を経ても何らかの形で繋がっていることに、感謝したい。

・かつてのMac仲間からメールが届いた。ご一緒にMac本を作成させていただいた方からだ。そのホンがPDFの電子書籍になって蘇っていた。「Machintosh Desktop Architecture Guide - Macで建築を考える」の電子版。紙の印刷物からデジタルデーターに。1992年出版だからまだ二十年たっていない。なにか大昔のような気がしていたのですが。お疲れ様でしたiGaさん、感謝です。
このとき書いた「アイデアプロセッサとしてのMac」という考え方はいまだ変わっていないですね。もちろん「Mac」を「PC」に「スマートフォン」に「タブレット」に置き換えてもいいんですけど。

・F1日本グランプリが鈴鹿で始まった。1994年の春先英田を、そして秋に鈴鹿を訪れた。しかし春に目にした一人の男が秋には姿を消していた。アイルトン・セナの死。

・フェルナンド・アロンソ(F1ドライバー)「昨日の夜遅くに鈴鹿に到着して、すぐに衝撃を受けた。多くのF1の人間に人気がある伝統的なイタリア料理店の“カンパネッラ”がなくなっていた。90年代にカートのレースで初めて鈴鹿に来たときからそこに行っていたので残念だよ。今と同じホテルだったし、このサーキットのたくさんの良い思い出がまさにその最初の経験と結びついている」 http://goo.gl/2Eim

・むかし、小田急デパート地下から千疋屋が消え、代わりにおいしいケーキ屋がはいってきた。クリスマスが近づくと千疋屋にかわってこの店でケーキを買い、事務所のスタッフと口にしていた。翌年も同様にその店で購入して戻った。ところがスタッフいわく、「最近この店はやらないんですよ、今は○○のケーキが一番ですよ」。私に流行廃りは縁がない、おいしいかどうかなのだ。これでは店は育たない。老舗とは店と客が一緒に作り上げてきたものでしょうに。

Thursday, October 7, 2010

[台北] 今日のニュース - ユニクロ開店

今日、ユニクロが台湾でお店を開いた日でした。

[厦門] 港が......見えなくなっていた

今年の七月末、馴染みのサービスアパートメントのいつもの部屋にチェックインした。カーテンを引き外をのぞいてみた。東渡国際埠頭の屋根は煌々と輝いていたものの、見えたのはそのホンの一部に過ぎなかった。

この辺りの風景は訪れるごとに変化している。国際埠頭一帯は総合開発の最中である。はじめにフェリー、続いてマンション群、そして今はホテルとオフィス群の建設が進められている。
始めてこのアパートを利用したのが二年ほど前だろうか、港に面した部屋からは向こう岸の、それも建設最中のマンション群が見えるだけだった。それがどうだろう、港の風景は建物の隙間にしか存在しない。いまだ厦門は開発真っ只中なのだ。

定宿をサービスアパートメントと呼んでいるが、日本流にはウィークリーマンション。1DK。おそらく投資用に購入した家主、これをマネージメント会社が借り受けてホテル代わりに貸し出している。部屋はマンションのあちこちに点在している。必要最低限な調度品備わっていて、ネットに接続もできるし、やる気になれば食事も作れる。実際長期滞在中に作ったこともある。

特に私が気に入っているのは洗濯機のあること。何しろ洗濯が面倒くさい。一般のホテルでの下着類の洗濯を入浴と一緒にシコシコと洗うのががいやでしょうがない。だから選んだのだ。服務員も最少の人数、その分割安だ。価格は年毎に値上げされているものの、一晩120元台から140元台、日本円で1600円台から2000円。それでいてこぎれいな超高層マンションの一室であり、そして安全である。これは私のような外国人にとっては重要だ。なおかつ超高層マンションには必ずといっていいほど1階に便利店、小さなコンビニのあること。下にいけばほとんど用が足せる。

このマンションにはあと一つ部屋をマネージメントしているところがある。初めて利用しようとしたところ、間違ってこちらに入ってしまった。話が違ってネット接続ができない、部屋は小さい。予約してくれた友人に問い合わせたところ、違う違うあの階のあの部屋でチェックインしてくれという。すでに支払いを(ここでは必ず前払い)済ませている。もう戻ってこないよ、そのお金。いわれて交渉した。取り戻しましたね。珍しいですよ、と元来のホテルの人。間違いの元をつくったオバサン、今回も顔を合わせて「商売どう?」、「アンタいないからだめだよー」。恒例の挨拶になっている。

しかし今月の厦門訪問ではここを利用しない。もと租界の島、コロンス島を滞在地に選ぶ予定だ。

Tuesday, October 5, 2010

[新竹・新鋪] 客家語が話せない客家の子供たち

ラジオから流れてきた会話。最近の客家の子供のなかには客家語が話せない子が増えている。地方自冶体がそんな子供たち相手に会話教室を開こうとしているという話。十年ほど前でしょうか、同じような話を聞いたことがあります。ただしそのときは台湾語が話せない最近の子供たち、というものでした。

言語にまつわる話は以前も何度か取り上げたことがあります。結論はいつも「電脳にのらない言語は消え去るのみ」というものでした。台湾語も客家後もしゃべり言葉、口語。少数民族にとってこの結論は深刻ですよね。言語は文化です。言語が消えればそれに伴ってつくられてきた文化も消えてしまいます。

KTVあたりで歌を唄おうとする。台湾語の歌には当て字のような難しい漢字がられています。台湾人の方はこれで歌が唄える、問題なさそうです。ではそのかたがたは台湾語を文章に書き換えられるのでしょか?まだお聞きしたことはありません。どうなんでしょう。客家の歌も同様な気がします。
*マンションの管理人さん、生粋の台湾人です。この件聞いてみました。読むことはできても書くことはちょっと......。その脇を住民のオネーサン、彼女いわく、書ける人はもうかなりのお年寄りだけではないですか、とのこと。

こちらのラジオやCATVには台湾語同様客家語のチャンネルがあります。客家のラジオでは客家語の会話の時間なんていうのももあります。この方、女性、国語(標準語)と台湾語と客家を織り交ぜて番組を進めている。話が面白そうで聞き入ったこともありますが学習できるまでにはいたっていません。では客家人はどのように会話をしているのでしょうか。

私の隣人は客家人です。苗栗の方です。でも客家語で話しているのをほとんど聞いたことがありません。周りの人が台湾人ですと標準語か台湾語です。子供たちと話をする時ですら標準語です。竹東の知人は客家人です。竹東という客家人が多く住む土地に住むだけあって、同じ客家人同士では客家語を話していました。複雑ですね。それを複雑に感じずに暮らしている台湾のかたがたはすごいの一言です。

私は少数言語が少数民族同様残っていってほしいと思っています。言語は文化です。多様性ある文化がこの世の中に存在できる環境であってほしいと願っています。客家語の歌で大ヒットを飛ばすような歌手が出てきたり、映画が作られたりすると子供たちが客家語を話すきっかけになったりするのでしょうか。

*写真は日本時代の家屋を改装した客家料理の老舗”桂花園人文餐廳舘”。臺灣新竹縣新鋪鎮中正路405號にあります。当時の家具調度品、しつらえがそのまま保存されています。電話は+886-3-588-2005。

Sunday, October 3, 2010

[台北] 屋台に並ぶ野菜を見ながら中国語の学習

中国語のものの数え方、一応学んだと思っていたのですが不十分でした。自由市場に並ぶ屋台の表示の千差万別さを見ていて、アー数え方にもいろいろあったんだなーと、ケータイを取り出しメモってしまいました。

土曜の昼飯は素食屋に出かけます。その足で自由市場に向かい賑わいの中に入る。いつもはただそれを楽しんでいただけでしたが、昨日は値付けを見てみるかと表示札に目をやりました。ところが、野菜にはいろいろな種類がありますし、小さいもの大きいもの長いもの束ねたもの山積みされたもの、おのおの単位が違っている。当たり前なんですが今まであまり気にしないで見過ごしてきました。スーパーと違って、ここでは小分けされて売っているからなんでしょうね。

街中では値段の表示はあってもその単位が表示されている例はあまり見受けられません。値段はだいたいが1斤あたりいくらということになります。私は果物を買うさい、お店の人に「この梨1斤だいたい何個?」って聞いてから「じゃいくつください」といいます。この「何個?」という単位は正確ではないんですね。通用しますがほんとうは「何粒?」が正しい。

大根を売っていました。葉を落とし、先っぽも切り落としたすぐに調理できるようになっています。単位は「条」なんですね。ねぎは「一条」。韮は束ねて「一把」、山東の栗子は「1支」。

メモったものを並べてみると、

・一推 [yī tuī ] [ㄧ ㄊㄨㄟ]=ひと山: かごに盛り付け
・一斤 [yī jīn] [ㄧ ㄐㄧㄣ]=一斤: 量り売りです
・一個 [yī ge] [ㄧ ㄍㄜ˙]=ひとつ: 汎用で使ってます
・一粒 [yī lì] [ㄧ ㄌㄧˋ]=ひとつ: これが一番多く使われるのかな
・一支 [yī zhī] [ㄧ ㄓ]=ひとつ: 栗はこの単位でしたが......
・一包 [yī bāo] [ㄧ ㄅㄠ]=ひと包: ネットの袋に詰め込まれて
・一把 [yī bǎ] [ㄧ ㄅㄚˇ]=ひと束: 束ね売り
・一条 [yī tiáo] [ㄧ ㄊㄧㄠˊ]=一本: 長もの野菜
・一盆 [yī pén] [ㄧ ㄆㄣˊ]=ひと皿: 皿盛りいくら

「斤」だけが秤り売り、それ以外は数売りでした。斤には公斤(kg)と市斤があり、1公斤=2市斤になります。500gが1斤ですね。大陸では一般的に体重の単位に使っています。「わたし100斤よ」と聞かされ、はじめはギョッとしたりしました。

家に戻って辞書を引いてみますがどうもおかしい。いくつかが見当たらない。たとえば「推」、そんな単位はありません。もしかしたら、ここは台湾、日本時代に使われていた日本語が残っているのかもしれません。「ひと山」 「ひと盛り」 「一皿」 、これ単位とはいわないですよね。状態を表している。でも理解できる。そう勝手に判断しました。

路上の中国語教室、自習の時間。自習ですので正確さは問わないでください。あしからず......

*写真は魚屋さんの店先風景。

Friday, October 1, 2010

[台北] ちょっとした出来事、気になったこと、目にしたことなどなど......

十月に入りましたね。今日はちょっとしたことをいくつか......。

・先週厦門の元秘書から電話が入りました。何事かと思いきや暇に任せての国際電話でした。大陸では十月一日は国慶節、前後ほぼ一週間ほど休暇になります。「オー国慶節だなー、どうするんだ?」、「里に帰りますよー」。国中が春節に次ぐ大移動ですね。一部の報道では、尖閣問題で日本旅行が足止めされそうだったかたがたも、一瞬かもしれませんが緩和されるとのこと、憧れの海外旅行を楽しめそうですね。

・国慶節を前に北京から知人がおいでになりました。知人といってもまだ拝顔したことはありません。台湾の方が私を引き込んだ顧問会社の総経理です。圓山ホテルに滞在、出かけてきました。市内の高級ホテルはみなどこも似たり寄ったり、ここ圓山ホテルはちょっと北京飯店の趣があるので選んだと話してくれました。食事は台北最大の屋台街がある士林の夜市へ。台湾料理を楽しまれておいででした。それにしても口うるさい方だったなー。ニコンの最上級デジカメを手に、アングルを決めるのに注文が多すぎました。

・いつものように素食屋へ。店内の雰囲気がちょっと違います。オバサングループが席を占めていました。おおよそ七八名、着ているものが違う、話し言葉が違う。驚いたことに日本の方々でした。店の主人、そこそこ日本語が話せます。一人の方を捕まえて会話。どこでこの店のこと知りましたか、の返事は「本で」。日本のガイドブックはすごいですね、巷のちょっとした店まで紹介しているようです。自分で探し出す旅の楽しみを奪っているような気もしますが......。

・中国語の発音表記、ここ台湾では注音符号を使っています。私はかつて国語日報の言語中心に半年ほど通いました。ここは正しい中国語の発音を学んでもらおうという趣旨の低学年用新聞を発行していた新聞社です。困ったことは発音記号。日本にいたときに少しかじったピン音ではなく、片仮名・平仮名に似た注音符号をもちいます。何とか読み書きできるまでになりましたが、今ではほとんど忘れてしまいました。発音記号を注音でどう表記したっけ、しばしば悩みます。

日本のサイトを探ったところ、ありました。とても便利なソフトです。中国語をピン音で表記させ、それを声調(四声と呼ばれています)に変換もできますし、注音符号にも変換してくれるのです。繁体字を簡体字に、その逆も可能です。作成したのは翻訳家の方。感謝です。

”中国語のテキストをピンインや日本で使われる漢字に変換できる「Pinconv」”
http://www.karak.jp/articles/software/pinconv-4-00.html

・遅まきながら台湾映画、「最好的時光」 [zuì hǎo de shí guāng] [ㄗㄨㄟˋㄏㄠˇ ㄉㄜ˙ ㄕˊ ㄍㄨㄤ] を観ました。主演女優のスー・チー 舒琪 [shū qí] [ㄕㄨ ㄑㄧˊ] 、あらためて気に入りました。特に1911年中華民国建国の年の出来事、二号さんを演じる彼女が好きでした。語らず、騒がず、静かに三弦を奏で、日本語の新聞を読む姿がいい。時代が動いているのに自分の将来はこのままでいいんですか?と語る彼女がいい。

彼女、女性であることを最大限使いながら国際舞台に登場するまでになったんですね。グラビア、イメージビデオ、AV片、ランジェリーショー、なんでもやってきた。みんな演技の糧になっている。

*写真は士林の夜市。中国からの旅行者が必ず訪れるという名所になっている。

Wednesday, September 29, 2010

[花蓮] 「森坂」まで足を伸ばしていただけますか?

今年七月下旬、ビザ更新で厦門から戻ったその晩電話が入った。「明日花蓮に建物を見に行くけどいいね」。「アタシャ疲れている、別の日にしない?」 「いやいや早いほうがいい」。ハイハイハイと生返事で承諾した。

台湾で今流行の建物は打ち放しコンクリートなのだそうで、これは日本の建築家、安東忠雄氏の影響が大きいらしい。建築雑誌にも彼の作品を模した建物が多く見受けられる。打ち放しコンクリート造の欠点を述べ伝えても施主が気に入っているの一言で決まってしまう。ある小さな施工会社がこの打ち放しコンクリートを売り出したいと考えた。実験的に花蓮で試した、それを見てくれというのだ。

台湾の東海岸、太平洋に面した一帯の風景は荒涼としている。海べりから始まる急峻な崖地、強い海風。大陸に面する西海岸の、穏やかで平坦な土地とは大きく異なっている。花蓮から車で一時間、南へ南へ移動したとある小さな町近くの荒涼とした場所にその建物は建っていた。技術的には平均的だったし、内部も打ち放し、若く当世風を好む人間でなければなかなか住みこなせそうにない。塩害への配慮も乏しかった。

帰路につく際、私はひとつお願いをした。寄り道をしてほしいと。不審顔の面々。車は海岸線から山越えで内陸の幹線道路へと移動、単線の鉄道駅・萬榮をすこし、花蓮寄りにある「オバサンの豚足」屋の角を山に向かって入っていく。「森坂」と呼ばれるこの地は、かつて日本占領期に栄えたヒノキの積み出し基地のあったところである。今でも台湾政府が引き継いで風倒木の管理などを主な仕事にしている。営林署のある建物に入り人を探す。受付で彼の名が呼ばれると、不振そうに私を眺める彼。「覚えておいでですか?」 一呼吸おいて 「アー、ブリキネコさん!」。

始めてこの地を訪れたのは二十数年前のこと。マイナーな雑誌だったが、気骨のある編集者と台湾をしばしば訪れてネタを捜し歩いた。台北で、ホテル近くのなじみのクラブで酒を飲み、「おーい、明日東海岸に出かけるんだけど誰か案内してくんないかなー」。一人の女性が手を上げた。

彼女が連れて行ってくれたのは亭主の住む官舎だった。それが森坂。すでにヒノキの切り出しは制限され、かつ山火事で多くのヒノキを失ったこともあり、衰退の一途をたどっていた。しかしここに残されていたのは旧日本官舎群、ヒノキ造りの木造官舎群。木材搬出用の山岳鉄道はすでに撤去され、わずかに一部さび付いた線路が残されているのみ。駅舎跡に小さな雑貨屋、真夏の昼下がり、私と編集者は横になる。私はフーっと息を吐き出し「トトロの住んでいる村みたいだなー」。

その後、我々は台湾に日本時代の旧官舎跡を探す。金鉱跡の金瓜石、塩水の製糖会社、それに林業の森坂を加え、「三つの村」と題してまとめた。

森坂の官舎群、東京生まれの東京育ちの私にはまるでキンダーブックでしか見たことのない風景そのもの。それにいまだ山の管理を行い、職員がこの地に住み、保存状態はほかと比べようがないほど良かった。今後もそのまま残っていてほしい、そう願い「再生森坂」というキャンペーンを始めた地方行政に組み込めることができるよう、日本から専門家を呼び寄せ、大学の研究室で学会の論文にここをテーマに選んでもらい、研究室全員がこの地を訪れ調査を行い、その報告をかねてシンポジウムも開いた。営林署の荘さんが窓口となり実現する。今回訪れた際、彼は当時のことを詳しく覚えており、懐かしそうに話してくれた。

シンポジウムが開かれた日の晩、住民の手作り料理を御馳走になり、写真に写っている広場では、参加した面々、客家人、福建人、タイヤル族とその酋長のお上さん、そして我々日本人、真夜中まで飲み明かした。

現在、ちょっと我々の意図とは違う方向に見えたものの、村はきれいに整備され、日本のガイドブックにも紹介されるようになり、村は観光地として今後生計をたてていけるように見受けられた。高度成長期のまっただ中にあった台湾、新と旧の混在した時代、私にとって最も魅力的な台湾だった時代である。

*写真: 森坂営林署前の広場。左に事務所、右の建物はかつての職員食堂。背景の山はそのまま四千メートル級の山々へとつながっていく。
*シンポジウムにはある新聞社の方が加わり、その記事が残されていたので掲載します。文末にリンクが貼ってありますが、どうやら切れているようです。繁体字です、御了承ください。


「主題報導/相會摩里沙卡~來自日本的森阪之友」

1996年6月有位東京都立大學研究生加藤三香子,正試圖尋找一個社區形村落研究居住民的組織與土地結構等,因緣際會的她發現了林田山。這個日本人為了產業需要而開發的日式居住村,令她驚訝的是,在日本目前也找不到的戰前日本官舍村落,卻在台灣花蓮一個叫萬榮的地方依然存在著,未遭到破壞而且被繼續使用著。
九月二十三日月六有在林田山活動中心有場主題為‘台灣林業村-森阪’的研討會,起源於1996年6月起,來林田山做論文研究的東京都立大學研究生加藤三香子帶著她的論文『關於台灣林業村『森阪』日式住宅之維持與變化之考察』回到林田山發表。

加藤的論文除了做林田山的、歷史背景書寫、住宅建築考據外,尤其以台灣光復後對原日式住宅所做之增改等變化之記錄為重點,並對林田山之未來的觀光產業規畫提出一番建議。

日治時代沿著河川開發成細長的社區,住戶的配置依自然環境之良疋、職能的高低予以分配建置,也就是以事務所為中心,以靠近鐵道配置中高級職員宿舍,較遠之地則配置下級或員工宿舍。另高級官員則建在事務所之上,斜坡景觀較好之地。當然,光復後再建的住宅,因為台灣人所建蓋,主要廚房改為水泥地接近台灣人習慣,屋頂採水泥則接近日式風味,還有透氣窗被封閉了,紙門變成木板門、踏踏米亦改為木板式地板。從這些現在尚存的建築物中可以觀察到不同族群因生活習慣的不同而改見得的化變遷。

加藤在提出的森阪規畫書中將目前的林田山規畫為以森林遊樂觀光產業為主的園地,從入口處有住民文化區、運動區、行政中心及野外活動散步區跟宿泊設施區。畢竟,隨著人口逐漸稀少,昔日的美麗林業村是否將一去不返,是很多人憂心的問題!

國立花蓮師院鄉土研究中心主任姚誠會中亦表示,像這樣的文化觀光規畫是很多關心林田山的亦曾設想過的規畫,包括文化局曾一度希望將之規畫為藝術家進駐的國際藝術村,但是如何兼顧到社區裡住存的現居民,才是最令人感到兩難的問題,如何不反客為主並兼顧居民的意願都是未來要考慮的方向。

日本NPO月非營利組織有綠色列島事務局長高橋純先生,十年前曾來過林田山,本身是詩人的他不僅帶來日本非營利組織的工作實例與大家分享,也一再呼籲認識自己的財寶、加以保護利用,營造更健康、藝術化的社會都是林田山居民應共同體認的。

同屬NPO的青檜之會主催者,本身是建築師的市川皓一則提出如何保存日式房舍及義工組織如何運用的作法,讓昔日的摩里沙卡成為『
匠的里』。

林田山有分特殊情感的大行征先生,每年會來林田山一次的他則提出傳統工匠技術在林田山之運用,他建議林田山可以將現有住宿改良並雇用工作人員,從事木材加工生產等附加價值的事業,再創林田山。自然景觀優m的林田山,日式風味的房舍一直吸引離去的日本人及遷出的居民常常來此流連回顧,檜木興建的日式住宅極具觀賞與居住的實用性質,他深深地相信林田山的未來不會消萎


文化局郭課長亦在場表示文化局已將林田山社區納入明年社區總體營造的重點社區了,她並響應NPO的理念,希望在地有心復興林田山,可以統合現有資源,與縱管處、萬榮工作站、林務局等單位相互配合,以達社區、文化、產業、生活等兼顧的總體營造。

參加的當地耆老以流利的日語與日本人士交談各項問題及交換意見,莊明儀先生亦精心準備了當地檜木製作的匾額『森阪之友』贈予日本友人留念,會後的餐點由豪邁的女里長親自煮了兩大席大餐招待,酒酣耳熱之際,拍照留念、敬酒自不在話下,客家話、福老話、日本話、泰雅語也都出籠了。這場深具文化交流與歷史傳承的座談會就像瀰漫林田山周遭的芬多精,也像這頓大餐一樣,芳香四溢。

月撰文/戴惠莉有
http://city.keyciti.com/taiwan/taiwaneven/play.asp?citi=lie&pno=314

Monday, September 27, 2010

[厦門] コロンス島あたりでのんびり過ごすか......

私は台湾滞在ビザを取っていない。九十日を越えてブラブラしていると不法滞在になり、多額の罰金を支払うことになる。一度ならず二度もこの件で面倒を引き起こした経験者である。どちらも私の能天気な性格、いや自分を管理できていないことが原因でおきたことなのだ。それにここ台湾に特別な庇護者がいるわけではないので保証人もいない。

そんなこんなで、人様には職業を ”無業遊民 [wúyèyóumín] [ㄨˊ ㄧㄝˋ ㄧㄡˊ ㄇㄧㄣˊ]” と伝えている。”無職渡世人”、翻訳に間違いないと思うのだが、こちらの方はそれは単なる失業者ですよ、”自由無業”ではどうですか?という。 ”嬉皮 [xī pí] [ ㄒㄧ ㄆㄧˊ ] ” (嬉=女偏+喜)ヒッピーかー、似たようなものだがまあそれもいいか。

横道にそれるが、この”無職渡世人”という語呂というか声調が好きというか、辰巳竜太郎という新劇の大御所さんが、東映任侠映画のなか、吉良の仁吉を演じ、警察官に職業を問われたときの返答でして、これをいたく気に入ったので使わせていただいている。

ともあれ、七月末にビザの有効期限が切れてしまう。出国しなければならない。香港の知人から消息を問うメールが届いていたこともあって、会いにいってみるかとも考えたが、あそこは辛い。ラッシュアワーの地下鉄に一度乗り合わせたが、東京以上に息苦しいし、潤沢な金がなければそれこそ無職渡世人、誰も相手にしてくれない。せいぜい新しい携帯を手にするときぐらいに出向く場所、だと私は考えている。

やはり大陸厦門か。緑豊かな湖濱北路あたりのコーヒーショップでだらだらと過ごし、私の口に合うカレーライス専門店で華やかな夜景を眺めながらカツカレーを口にし、人造湖の周りをなにをすることなく歩き回り、旧市街の迷路のような界隈に元運転手が営む洋品店へと足を運び、雑談に花を咲かせながらお茶をすする。知人は一人、また一人とこの地を去っていったので相手を探す手間も省ける。そして週末をはさんだ七月末の四日間、私は厦門に出かけていった。

それからまた台湾滞在九十日を迎える。おそらく今回も厦門への旅になりそうだ。しかし今までとはちょっと違った過ごし方を考えている。厦門本島、そう厦門は海に囲まれた東京山手線より一回りぐらい大きい程度の適度なスケールを持つ都会、その沖合いに浮かぶコロンス島、かつての租界の島に滞在するつもりだ。租界時代の別荘を改装した瀟洒なブティックホテル、そこで何をすることなく、日々海を見ながら時間が流れるのを待つことにする・・・。

こう書くと贅沢三昧っぽいが、バスつきシングルが190人民元、最上階三階の一番高額な部屋で388人民元、日本円三千円弱から五千円ちょっとのルームチャージ。ホテルのサイトをご紹介しようとしたら”This web page at www.○○○○.com has been reported as an attack page and has been blocked based on your security preferences.”とでた。つい先日までなーんの問題なくみれたんですけどね。

*写真は厦門の東渡フェリーを出た沖合い。ブイの右側にぼんやりと見えるのがコロンス島、左側は厦門本島輪渡フェリー周辺。
*発音記号が文字化けしているかもしれません。その場合はメニューの表示のなかのキャラクター・エンコードをUNICODE (UTF-8) にしてみてください。

Sunday, September 26, 2010

[台北] 自由市場の文昌宮

自由市場の廟、文昌宮 [Wén chāng gōng][ㄨㄣˊㄔㄤ ㄍㄨㄥ]、昨夜訪れて夜景をカメラに収めてきました。セブンイレブンでナーテコーヒーのスモール30元片手に、秋の、さっぱりした空気を味わいながらの訪問です。さすがに昼間のような賑わいはありませんでした。しかし真摯な様での参拝姿は変わりません。私も加わろうと思い立ったのですが、意味なく拝んでみては失礼かと遠慮いたしました。

ネットで調べてみました。祭っている神様、参拝の順序、線香を差し上げる神様の順序とその数、願い事の内容まで詳しく紹介されていました。民権東路にある行天宮のように大きくありませんが、小さいながらしっかり管理されているようです。

神様とお線香の数、数が決められているらしいのが面白いですね、は・天公(一炷香)・文昌帝君(一炷香)・文魁帝君(一炷香)・關聖帝君(一炷香)・黒令(一炷香)。カッコ内の「炷 (火偏+主)」が線香をともす単位らしい。最後の黒令は私には意味不明でした。

時に神頼みを思うことはあっても、常日頃信心しているわたしでありません。この廟、道教の神様、参拝の礼儀作法、心得が足りません。境内に入りじまいでした。

中国語がわからなくても写真付きで大体理解できるサイトは「台北文昌宮~考生守護神 文昌帝君」。興味のある方は現地を覗き、ついでに自由市場の賑わいと、素食を口にし、その日は精進されてみてはいかがでしょうか。

Saturday, September 25, 2010

[台北] 土曜の昼下がりは公園通りの自由市場へ...

厦門から台北に移動して、食を菜食に変えるようになった。厦門の、塩気の多い、油が滴るような料理で身体が重くなっていた。それに身体のあちこちが不具合を示し始めてもいた。都合のいいことに、台湾では「心身を清める」宗教的な慣わしが民間に染み込んでいるので、菜食料理・素食が普及している。それが健康志向と若い連中のダイエットと結びついて街中いたるところ素食のブッフェ・自助快餐店がある。

私お気に入りの素食自助快餐店は中山北路を錦西街に入ってすぐの店。時間が許す限り夕食のほとんどをここで賄う。何がお気に入りかというと、ほかの素食店に比べ惣菜にちゃんとした味付けがしてあるからだ。有機・自然食と名をうっても、おいしく感じなければ続かない。それと専門店以外では見かけることの少ないメニューも備えている。麺類、餃子類、イタリア麺、特に大豆のチーズを使ったマカロニグラタンは味も一品。店内単品で最も値が張る。といっても100元(日本円約270円)なのでお手ごろ価格だ。週末は土曜の昼だけで店じまいしてしまう。

快晴で爽やかな風の今日、昼食をこの店でとった後、地下鉄路線の上を公園にしつらえた場所を散歩た。線上の公園脇は細い路地、ここが露店で埋まっている様をただ眺める。ウィークデーも開いているらしいが、夕刻食事を終えた後、私が訪れる頃にはすでに店をたたんでいるので雰囲気はわからない。

土曜の昼下がりともなると露店がいっぱい、客もいっぱい、掛け声いっぱい。実に華やかである。最近はビューティーサロン並みに修眉毛、ネールショップ、といっても化粧ボックスと丸椅子を抱えてやってきて公園の樹木の下で店開き、デッキチェアーを使った足裏マッサージなんてのも加わった。客の多くはオバサン連中。彼女たちは会話に余念がない。私が通りかかると「社長さん、社長さん」と声がかかる。

露店はカート・リヤカーだったり、バイクや自転車の荷台だったり、プラスティックボックスだったり、なかにはダンボールひとつ抱え裏返しにしてそこに飾っただけというのもある。売り物は季節ものの果物や野菜類が多い。日差しの強い夏場は商品に盛んに霧吹きで水をかけている。勝負はもちろん値段、隣どうして同じものを売っているわけだから、オバサンAが「○○元だよー」と掛け声がかかると、ドミノ倒しのようにその隣、さらに隣、向かい、そして戻って値をかけあう。ただしどの店も値段は同じ。ほとんど台湾語なので私にはいったいいくらなのか判別できていない。掛け声を耳にしているだけで心地よい。そんな様を適当にカメラに収める。

この露店街のほぼ真ん中当たりに廟がある。豪華絢爛だ。夜には煌々と照らされ、さらに華やかさと御利益の妙を強調している。台湾の人はよく廟を訪れ、線香を手に拝んでいる姿を目にするが、ここの廟、文昌宮では若い連中、とくに女性の姿が多い。実に多い。彼らが真剣な眼差しで願い事をしている様は美しい。姉妹らしい若い学生二人、門前で線香をかざし、公園側に向かって、西に向かって何かを口にしていた。暫くそこに留まり帰路に着いた。

日本ではどうだっただろうか。少なくとも東京ではそんな真摯な様は見かけなかった気がする。大阪に旅をし、信貴山を訪れたとき似たような風景を見たぐらいだろうか。

Friday, September 24, 2010

[竹東・内湾] 山あいの映画館

不思議なものでなんでも”飽き”ってものがやってくる。かつてはホームページに、そしてblogに、今やtwitter、やがて興奮が去っていく。持続することの難しさ、いまさらほざいてみても手遅れなのだが......

blogを更新していなくても身の回りではいろいろなことが起きている。それも起伏の激しい変化が訪れている。ゆえにいつも疲れる。特にこの夏の暑さと湿気が加わり、これで身体までバテバテである。とはいえ、秋分も過ぎたことだし、落ち着いてデスクに向かおうかと、たまっていたあれこれから心穏やかな話題を取り上げることにした。

7月16日の金曜日、二ヶ月前、台北の南、竹東にでかけた。ここの知人が盛んに土地購入の段取りを進めている。今は大陸北京あたりでコンサルタント会社の役員を務めているが、やがて故郷に戻る下準備らしい。新しい山地を購入したいので見てほしい、この一言に私はひとつ返事をした。こちらにはこちらの目論見があった。

竹東に出かけるひと月ほど前、日本からメールが入っていた。「鉄男さんじゃないですよねー。鉄道関係のなんかネタありませんか?」。懐かしい、アネさんからだ。まったく鉄男ではないですし、鉄道にもほとんど乗っていない。新幹線を利用するぐらいで、ローカルな味を楽しんでもいない。「ないですよー」と返事を出したものの、鉄道かー、思いが馳せた。早速地図で探ってみる。

しかしローカル線と思われるものはほとんど見当たらない。「恋恋風塵」という映画で「十分」という駅までの映像が流れた。これは平渓線、台湾北部東海岸沿いにある端芳駅から出ている。渓谷沿いに緑深い山あいを縫って走っている。まだ乗ったことがない。

台湾西部、新竹から山あいに入った竹東駅、ここから西部幹線内湾線がでている。終点が「内湾」、山あいでなぜ内湾、名前の由来は知らない。このあたりには客家人が多く住んでいた関係で開発の遅れていた地域。住民の足としてローカル線が残されていた。そして経済発展、遅れてやってきた発展。遅れた分、残っていたのが古い町並み、古い建物。これを観光に利用して成功したのがこの内湾界隈。週末は台北から直通で臨時電車が出ているという。訪れてみたい。機会がやってきた。

土地見の場所から車でほんの二十分、切り立った山肌のあいだ、等高線に沿って走る鉄路、その終点駅のやはり等高線沿いに連なる家屋、ほとんどが飲食雑貨店、明らかに観光客目当てのしつらえ。とはいえ、「悲情城市」の「九分」のレンガ造民家と違い、木造で、おおくは平屋で、古び、よく目に馴染む。

駅前の、おそらく昔は小さな広場だったろう一角に、木造二階建ての映画館が残されている。当時、この町が栄えていただろう時代、この映画館が上映したフィルムを食事つきで観る、いや食事をしながら映画を。中は当時のままだそうだ。売店には非売品ながら当時のタバコが並べられ、上映もののDVDを手に入れることができる。薄暗い館内に入ると、力道山時代かと思わせるような白黒フィルムが流されていた。急な梯子に近い階段で二階に。粗末な椅子とテーブルで食事をする客、薄暗く、そのメニューは判別できない。しかし落ち着く。懐かしい。観光客でにぎわう喧騒は木造の床壁天井が吸収してくれる。同行した方の話では、映画館は演芸場でもあって、島内を渡り歩く劇団が一瞬の華やかさを送り込んでくれたそうだ。

十年はたっているだろう、九州熊本の小国へ所員とともに知り合いを尋ねたことがある。町中でスパーを営んでいた。その脇に小国会館、ここの人たちの自慢は、水前寺清子、熊本出身、彼女がショーを開いたこと。今では町の寄り合いに使う程度だと聞いた。内湾の映画館、どこか小国会館に似ていた。

Wednesday, June 23, 2010

[East Asia photo inventory] 「ベトナムは東アジアの匂いーサイゴンの中国人」

ホームページを閉鎖することにしました。古い記事、当時の東アジアの雰囲気を伝えた部分をこちらに掲載しておくことにします。

メコン川フェリー乗り場の物売り photo:(C)Eiji KITADA

建築雑誌 "at" 連載 第12回
「ベトナムは東アジアの匂いーサイゴンの中国人」

文:大行 征
写真:北田 英治

サイゴン空港に降り立った我々を出迎えたのは、中国系ベトナム人の女性である。日本語のできる通訳を期待していたリーダーの苛立ちを尻目に、彼女は我々が当然のように中国語を理解するものと思って話をはじめた。聡明な眼差しと、毅然とした態度と、人の上下関係を即座に理解する中国人特有の素養を彼女は身につけていた。歴史を遡れば、ベトナムも日本同様、中国の友好国であった。それに、十九世紀後半までは漢字が使われていた国である。そんな知識が彼女にどこかにあったのか、日本人が中国語を理解できないとは思わなかったのかも知れない。

たしかに、ここには中国の匂いがある。メコンの街、カントーでは、英語を勉強中の、外国人というと話しかけてくる類の中国人女子学生に出会ったし、かつての日本人街もあったという中部の街ホイアンには、騎楼をもった中国南方様式の街屋が残されていた。サイゴンの中国人街チョンロン地区では、独自に中国語の新聞「解放日報」まで発行されており、ほかに外字新聞をもたないベトナムで、湾岸戦争の記事を入手できる数少ない媒体でもあった。しかし経済活動の中心を占め、常に新しい情報を手にし、中国人を表明するかたわら、賑わいを見せるサイゴンのベンダン市場では、中国人の物乞いに出会うことになった。

南の都市には物乞いが多い。かれらはあらゆる機会をつかまえ、使えるものなら何でも、親でも病人でさえも引っ張り出し物乞いのネタにする。市場で出会わせた子供を抱えた母親は、三十分ちかく我々についてまわり、ベトナム語とカタコトの英語と中国語とで二人のおかれている惨状を語り続ける。そして最後には、自分の子供を買ってほしいとまで言いだす始末である。僕はお金をあげることにして話しかけた。「よし、子供を引き取ろう、いったいいくらだい?」。

市場を舞台にした彼女の演技はここで幕を閉じる。彼女は、僕が与えた以上の演技をみせてくれた。それに荷担した子役も見事であった。彼女は上海の出身、結婚してご主人についてベトナム中部に働きに来る。雇い主がサイゴンに出てきたものの、事業が芳しくなかったのか、また中部に戻ってしまう。ついてきた彼女の一家は、残って働くことになった。彼女にいわせれば、物乞いも立派な職業である。

それにしても、ベトナムに住む人々は中国人を含めて活き活きとしている。世界最貧国といわれながら、彼らの表情にはそのかけらも見受けられない。むしろ、久しぶりに表情豊かな人々に出会った思いである。市場の物乞いや、メコン川のフェリーで出会った物売りがみせた仕草、そして街なかの建築物にいたるまで、いまの日本では失われた表情を見せてくれた。
(第11回終り- "at" '91/04掲載)


「ベトナムは東アジアの匂い」ーサイゴンの中国人 十年後記 2001年7月7日

掲載されたベトナム人女性の写真は、どの絵を載せるか写真家の北田君と話し合った際、僕が強く希望した一枚である。建築雑誌に女性の写真を全面に出すのを、編集者の高橋君はきっと嫌ったにちがいない。しかし、女性の豊かな表情と、ベトナム人というよりは中国人にちかい顔つきで、連載の趣旨にかなうものとして大きく載せることにした。

場所はサイゴンから南、カントンというメコン川南の街にわたるフェリーの埠頭で彼女に出会った。埠頭では、メコンを行き来する客を相手に物売りがあふれていた。マイクロバスで南に向かっていた我々は、バスを降りてフェリーが出発するまで辺りを歩き回った。埠頭は人と自転車とバイクと自動車、それにバスでごった返していた。子供たちが客にコインを河に投げ込むようせがんでいる。おもしろ半分に投げ込むと、子供たちは河に飛び込んではそのコインをすくい上げる。客にその成果を見せびらかせ、コインはその子たちのものになる。

フェリーの出発時間が来て、我々はバスに乗り込む。その瞬間、多くの物売りが閉まる扉に篭を押し込み最後の売り込みを計ってきた。一人の物売りの、扉から我々に向けた表情があまりに印象的だったので、僕は写真家にシャッターをせがんだ。バスは動き始めようとしていたし、扉を閉めないと物売りは立ち去る気配をみせなかったので、押されたシャッターはわずかに二回程度だった記憶がある。日本に戻り、できあがったこの時の写真を僕はかなり気に入った。

[注:内容的に間違いのある部分も含め、手は加えてありません]
[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」  に収録されています。]

Monday, June 21, 2010

[East Asia photo inventory] 「蘇る”旧体制”」ーサイゴンのホテル (ベトナム)

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REX Hotel の屋上 photo:(C)Eiji KITADA

建築雑誌 "at" 連載 第11回
「蘇る”旧体制”」ーサイゴンのホテル (ベトナム)

文:大行 征
写真:北田 英治

二十数年前、ラングーンからの帰路にベトナム上空を横断した。旅客機の窓から、爆撃であがる爆煙を見ることが出きると言われていたが、上空はどこまでも澄んでおり、地上は深い緑で覆われていた。サイゴンが陥落したのは一九七五年四月三十日である。

あれから十六年を経ようとしている。いまだに旧アメリカ大使館は取り壊されず、廃屋同然の姿をさらしている。そのほかにも、北の首都ハノイと異なり空爆を受けなかったサイゴンには、かつての国会議事堂や大統領官邸が呼び名を変えて使われていた。市内の街路も読み替えられてはいるが、街なかには多くの”旧体制”が残されている。”旧体制”とは、”建築物”とその”ネーミング”のことである。

サイゴンを愛した人たちがその宿としたホテルには、二つの名称が記されていた。今では点灯されることのない、控えめな看板には「九龍」(クーロン)「独立」(ドクラップ)「ペンダン」の名が、それらを覆い隠すように「マジェスティック」「カラベル」「レックス」の大きくネオンサインで強調された名称が浮き彫りにされている。

自由主義陣営の人々の去った後、彼らの置き土産をそのまま引き継ぐ必要がなくなったホテルは、その由来も来歴も知る必要のない東側の人々に利用されてきたはずである。

解放後、中国とカンボジアとの戦いで経済的な復興の遅れたこの国は、八十五年以降、安全なドルを獲得するため、侵略し続けた国々の人々を迎え入れざるを得なかったのかも知れない。外国人の支払いにはドルが求められ、物乞いを振り払うために内貨を差し出すと、やはりドルをせがんできた。

開かれはじめたサイゴンを訪れる自由主義陣営の人々は、記憶のなかの”旧体制”を確かめようとする。その際に「九龍」「独立」「ペンダン」では、この旅に支払われた代価は半減してしまう。我々はいまもって、何処かで「落日のサイゴン」を求めているのである。

ベトナムの土を踏んだその晩、程度の悪い「独立」を抜け出し、「レックス」を訪れた。ホテルの屋上庭園には、テーブルを囲んだ西洋人のグループがいくつか見受けられた。彼らはベトナム珈琲を傍らに、円テーブルの中央に置かれたポータブルラジオに耳を傾けている。スピーカーの音は不明瞭で雑音が多く、我々のテーブルからは内容を聞き取ることはできなかった。

「戦争が始まったな」、そう気がつくまでにはかなりの時間を要した。

BBC放送は、湾岸戦争の開戦からすでに半日が過ぎていることを伝えている。そして、自分たちの母国が参戦しようとしている状況にあって、常に戦争に直面してきた元植民地所有者の西洋人が、この戦争でも敏感に反応する様を目の前で知らされたのである。「レックス」はいぜんとして”旧体制”に寄り所を与えているかのようであった。

一九九一年一月十七日のことである。
(連載第11回- "at" '91/3掲載)


「蘇る”旧体制”ーサイゴンのホテル」 十年後記 2001年6月23日

二年前、台湾の仕事は数カ国の関係者の関わるため、英語が共通語として使われることになった。現地の会社で英語習得のプログラムが組まれ、私もそれに参加させられた。英語教師の面接が行われ、最初に登場したのはカナダ人女性。闊達な性格はよかったのだが、話をしていると彼女の口元しか見えなくなってしまう。とても大きいのだ。副総経理に遠慮してもらいたいむね伝えた。

次がやはりカナダ人のガッシリした男性。日本、韓国と英語教師を務め、いまは台湾に滞在していた。彼の場合は呼吸困難なのかと思えるような息づかいで、遠慮していただいた。後で聞いたところ、ラガーマンだそうで、鍛えられた首周りが気管を圧迫していたのかも知れない。

私のわがままを満たしてくれたのが、英国人の若者。はじめてあったときには高圧的で横柄に見えた。ただ、発音が良かった。英国人特有の切れのいい話し方もいままでに味わったことのないものだった。私からOKがでたその場から授業をはじめたのには驚かされた。

この若者、なかなか面白かった。実は若者ではなく若造だったこと。年をごまかしていた。25だという話だったが、本当は22歳。なす事ハイティーンのよう。そのくせ部屋にはいるときには私を先に立たせるという慇懃さも持ち合わせている。

ちょうどその頃、コソボ紛争が激化しており、教材にも英文ニュースが扱われた。この紛争の意見を求められたので、「空爆は不公平だ。圧倒的な戦力差がありながら地上での戦いをしない。湾岸戦争もそうだったが、紛争を押し進めるのはいつもアングロサクソンだ。」と英国と合衆国をやり玉に挙げた。彼はそのまま聞き流していたが、このところの大きな紛争はみなアングロサクソンが仕掛けた戦いだっようなきがする。

サイゴンのレックスホテルでポータブルラジオを屋上のテラスに持ち出し、熱心に聞き入っていたのも当事者の英国人だったことを思い出す。

[注:内容的に間違いのある部分も含め、手は加えてありません]
[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」  に収録されています。]

Saturday, June 19, 2010

[East Asia photo inventory] 「二つの香港」ー英国の置きみやげ (香港・英領香港)

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香港地下鉄プラットフォーム photo:(C)Eiji KITADA

建築雑誌 "at" 連載 第10回
「二つの香港」ー英国の置きみやげ (香港・英領香港)

文:大行 征
写真:北田 英治

香港には二つの顔がある。九龍サイドと香港サイド。ハーバーサイドとマウンテンサイド。ヒルトップに住むものと水上に住むもの。「東洋の真珠」と「アジアの屑籠」。香港を故郷とするものと、半数の革命中国からの合法的移住者および難民。パスポートも、おなじ英国籍でありながら英国に住める者と住めない者。英国航空から中国民航に乗り換える者と、中国民航からやってきてそこに留まる者。中国系米国人I・M・ペイの設計した中国銀行と、生粋の英国人ノーマン・フォスターの設計した香港上海銀行。中国人でありながら、香港の中国返還を望まない多くの人間と、少数のそれを望む者。「北京の政権」と「台北の政権」。二つの香港を並べることはいくらでもできるだろう。ただ一つできないものがある。それは香港は地球上に一カ所しかなく、決して二つに分けることができないことである。

香港はわずか一世紀あまりで、二つの風景をもつに至った。九龍サイドのスターフェリーの桟橋に接して建てられたペニュンシュラホテルと、香港島浅水湾の入江の波打ち際に立てられたリパルスベイホテルは、ともに一攫千金を目論む英国人の異国趣味を満足させるために造られた。ペニュンシュラは、今では香港の道化を演じるに過ぎず、「慕情」を演じたリパルスベイホテルは、一九八二年に取り壊されてしまった。

島のホテルは、客室がどちらを向いているかによって価格が異なる。ビクトリアパークのケーブルカーの往来を眺めるよりは、誰もがビクトリア湾の「百万ドルの夜景」を楽しむだろう。とはいえ、現在まではベイサイドは超高層オフィスで占められており、ハーバーサイドに部屋をとっても、その価格に見合う光景を得られる可能性はほとんどない。むしろ九龍サイドのリージェントホテルあたりに逗留すれば、香港の絵はがきに登場するほとんどを手にすることができる。

ピークに住める人間も、水上に住み着くことのできる人間も香港では少ない。かつて、香港の英国人はピークに住めることをステータスとした。執事をオーストラリアから、召使いをインドから連れてきて、急造の紳士を演じてきた。一方で、香港人といえどもアバディーンなどの水上居民にはなかなかなれない。南京条約で英国が香港を割譲したとき、香港全人口七千五百人のうち水上居民は二千人。現在でもこの数字は変わらないのではないだろうか。

香港は英国領である。英国が二つの香港をつくったといって間違いはあるまい。引き算でいえば、英国が清朝から香港を「借りた時間」は後五年間しかない。すでに九十四年間を英領香港として香港の風景を築いてきた。そして一九九七年六月三十日をもって、香港は中華人民共和国の一部となるはずである。
(連載第9回- "at" '91/2掲載)


「二つの香港」ー英国の置きみやげ 十年後記 2001年4月20日

返還以前の香港の魅力は、なんといっても「チャイナウォッチャー」の役割だったろう。当時、鎖国を敷いていた大陸中国の情報は、すべて香港から発信されてきていた。文化革命が嘘八百の固まりだったこと見抜いていた当時の識者は、やはり香港情報の行間からそれを探り当てていたという。そんなことなどつゆ知らない私などは、MLなどという集団に同調、日比谷公園や新宿駅周辺で花の七機(第七機動隊)に襟首を捕まれ、危うく棍棒の餌食になるところだった。

世界中が落ち着いて、私も「東アジア世紀末研究会」などと名打った旅を何度か行うようになっていた。香港の旅に、当時話題になった香港上海銀行の見学を依頼しておいた。ところがなかなか許可が下りない。出発のほんの寸前でOKがでたのだが、銀行の案内人と話してみると、我々のグループ名が問題になったそうだ。「東アジア世紀末研究会」、うーん極左グループと読めないこともなかったか。

天安門事件の時は台北にいた。メディアは反大陸キャンペーンで盛り上がっていて、私も毎日新聞とテレビを覗いていた。ある日「トショウヘイ死亡」の記事。出所は香港、しっかりガセネタだった。

[注:内容的に間違いのある部分も含め、手は加えてありません]
[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」  に収録されています。]

Thursday, June 17, 2010

[East Asia photo inventory] 「深く青き夜」ー闇の中のソウル (韓国・ソウル)

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ソウルの屋台 photo:(C)Eiji KITADA

建築雑誌 "at" 連載 第9回
「深く青き夜」ー闇の中のソウル (韓国・ソウル)

文:大行 征
写真:北田 英治

「.........アメリカには住みたくない、でも生きていくために行かざるを得ないんです.........」。五年前のソウルの夜のことである。韓国系中国人の友人は、始めて自分自身の移民について話をしてくれた。韓国は東アジアの国々のうちで、アメリカ合衆国への移民が最も多いといわれている。もちろん日本人にも枠があるはずだが、いまどき移民しましたという話はついぞ聞いたことがない。移民という手段を必要としない日本で、この言葉の持つ意味を理解することはなかなか難しい。

彼女と知り合ったのは台北の中国語学校である。彼女はソウル中心街、明洞にある中華学校で中国人として教育を受ける。医者であった父親の病死によって、自らの仕事場を探すことになる。しかし韓国の中の中国人という異邦人の彼女が、ソウルで満足できる仕事を得るのは至難の業であった。仕方なく父親の国の中国・台湾に移り住むものの、そこでも彼女は韓国系中国人としてよそ者扱いされる。そんなある年、黄砂が朝鮮半島にとどき始めた春先、彼女は韓国へ里帰りする。そのときを利用して我々はソウルを訪れてみることにした。始めての韓国ということで、観光気分であちらこちらと歩き回り、南大門が国宝指定第一号であるとか、秘苑は農家を模した桂離宮みたいなものだとか、東大門市場は食い物が旨い、と結構楽しんでいた。

そしてその日の夜、仲間たちとしこたま飲んだ後の腹ごなしに入った道端の屋台で、我々は「移民」がすぐ身近な問題であることを教えられたのである。春先とはいえ、ソウルの夜には底冷えが残っていた。空気中の水蒸気すべてを日本海に運んでしまったかのように、町の光景は乾いている。太平路と南大門路の分岐点に建つ国宝南大門を浮き上がらせるサーチライトの光が、よけいにそれを強調している。風景が凍てついて見えたのはそのせいかもしれない。わずかに、表通りを外れた屋台の橙色のテントが、残された暖かさを保っているのみであった。

「深く青き夜」は韓国映画の題名である。ロサンゼルスで偽装結婚をくりかえす韓国女性と、合衆国に一攫千金の夢を求めてやってくる韓国男性との悲惨な結末を描いたものである。米兵との結婚ですぐに望みを失ってしまった女性が、永住権を手にするために偽装結婚の相手を捜している男の話を聞いて、最後の望みを託した彼に、「ここは、どこ」と尋ねる。彼は「天使の地、ロサンゼルス」というと、彼女はこう答える。「ここは砂漠、荒涼たる砂漠......」。国を捨て、夢を抱いてやってきた異国にも、結局は荒涼としたイメージしか残らなかったのであろうか。

その後、韓国系中国人の友人は、居心地の悪い台湾を捨ててアメリカへ向かった。米国で再婚した母親が市民権をとるにいたって、一家そろってロサンゼルスに出発した。多くのアジアの人々が、アメリカで永住権を得るのに不法行為までして必死になっていたが、彼女は母親の血の出るような苦労の末、自由と可能性のある国へ希望を持って出かけていった。
(連載第9回- "at" '91/1掲載)


「深く青き夜」ー闇の中のソウル 十年後記 2001年3月28日

この回の原稿を読み直してみて気がついたのは、十年の間でアメリカへ向かったアジアの人々の、国籍の変遷だ。ベトナム戦争に参戦した韓国の移民枠が大きくなっていたし、その前までは中国との対立から、台湾人のアメリカ留学と移民が始まっていた。その後、ベトナム戦争終結で、多くのベトナム人がアメリカに移り住むことになる。中国との国交成立の後からは、大量の中国人がアメリカに流入することになった。それでもアメリカ合衆国で労働許可証を得るのは未だにかなり難しいようだ。

アメリカに移り住んだ彼女を訪ねたことがあった。フリーターで日本料理屋のウェイトレスをしていたが、外国からやってきた友人のために仕事を休ませてもらえるなどということは許されない。少しでも隙を見せれば仕事は他の人へと回ってしまう。彼女は、妹や友人たちに頼み、空いている時間を利用しては、代わる代わる私の相手をしてくれた。

アメリカでの成功は、金持ちになること。明白だ。そのために1セントでも稼ごう、浮かそうとする。ロスからシアトルの国内便を予約しに、ハリウッド通りの中国人が経営する券売屋を紹介してもらい訪れた。友人の友人のため、あれこれ問い合わせた結果、ある便を薦められた。大手と比べて10ドルも安い。航空会社の名前は一度も聞いたことがない。国内便でも、墜落すればその話は即座に世界を駆けめぐるが、アメリカでも墜落となるとあまり話を聞いたことがない。しかし豊かな日本人は安全をブランドで買うことにし、ユナイテッドが最終的に選ばれた。これではいつまでたってもアメリカンドリームに近づくことはできない。

[注:内容的に間違いのある部分も含め、手は加えてありません]
[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」  に収録されています。]

Tuesday, June 15, 2010

[East Asia photo inventory] 「看海的日子ー風櫃の三合院住居」 (澎湖島・風櫃)

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風櫃の三合院住居 photo:(C)Eiji KITADA

建築雑誌 "at" 連載 第8回
「看海的日子ー風櫃の三合院住居」 (澎湖島・風櫃)

文:大行 征
写真:北田 英治

七月だというのに雲が低く肌寒い海上を、つい数カ月前まで瀬戸内海の往来に使われていた高速艇で台湾本島から澎湖島にむかった。東シナ海の波頭がひときわ大きく見えるのが珊瑚礁の島、中国大陸の文化を最初に受け止めた場所、澎湖列島である。

出発の前日、「あした澎湖島に行くんです。どんなところですか」と台北の飲み屋で女の子に話すと、居合わせた全員が笑ってこう答えてくれた。 「あそこは三つの点で有名です。太陽が大きい、水が塩辛い、鶏も卵を生まない」。厳しい自然環境を言いあらわして秀逸である。

百余の島々からなる澎湖列島に、人影はその内の二十一島。台湾本島から四十五キロメートル、向かい合う福健省から百四十キロメートル、平均の海抜三十メートル、最高七十メートルを出ることはない。雨が極端に少なく、始終強い風が吹き、「風島」の異名を持つ。二つの要因は、この島の光景を決定づけている。珊瑚礁の地肌にはりつき、北西の季節風で押し曲げられた潅木。草も木も横へ横へと地をはっていく。日陰を求めるべくもなく、塩分を含んだ土地に手を加える女たちは全身を布で覆っている。

澎湖島開発の歴史は台湾本島に比して四百年早い。大陸のミン南地方、泉州周辺からやってきた移民によって発展する。建築物も町の形態もミン南の様式を残しているという。強風と水源確保の難しさは、集落の形態を独特なものにしている。農村は南下がりの斜面の窪地に寄り集まる。季節風を遮り、少しでも地中の水源に近付こうとする。漁村は海岸線の珊瑚に囲まれ、海に向けて建てられる。季節風と海風から作業場を中庭に求め、共同で彫られた井戸を有効に利用するため、三合院という住居形式がとられている。木材も煉瓦も遠く対岸から運ばざるをえず、主要な建材のほとんどに珊瑚が使われてきた。海との戦いを強いられ、神への依存心はことさら強い。全島で二百あまりの廟を数え、そのほとんどが海神媽祖を祭っている。

この島のはずれに風櫃とよばれる集落がある。風のヒツ。風のしまい込まれた場所。珊瑚礁の突端の風道に位置するこの村では、海面の動きにともなって地面から風が吹き出す。空洞となった珊瑚のなかを海水が出入りする度に、フイゴのように音を出す。南方系中国人の陽気さとは裏腹に、あたり一面に悲痛なうめき声を漂わせている。そのためか、かつての台湾本島への文化・経済の玄関口も、時代とともに取り残されていった。

漁を捨て、島を捨て本島にわたる若者。すみ手を失った民家。かわって荒涼とした風景を求めてやってくる本島の若者たち。映画のなかでみつけた、活き活きとした少年たちを探しに訪れた初老の日本人は、村はずれの海を見つめる小廟に腰を下ろし、限りある明日を考えることにした。
(連載第8回- "at" '90/12掲載)


「看海的日子ー風櫃の三合院住居」十年後記 2001年3月12日

台湾映画界の重鎮、侯孝賢監督若き日の作品に「風櫃からきた少年」という映画がある。澎湖島で生活する悪ガキ達の生態を活き活き描写して傑作だった。その少年たちの仕種に勝って映ったのが、澎湖島の風景。どの場面も左右にのびた水平線が占めていた。台湾本島では見ることのない情景に一度訪れてみたい、で仲間達と旅をした。

映画のなかで一番印象に残ったシーンがある。悪ガキたちが喧嘩をする。別のグループの人間に怪我をさせ、警察沙汰を引き起こす。家に戻るに戻れず、ガキたちは海岸際に立つ小さな廟の前で思い悩む。ガキたちの横顔、小さな廟、波立つ海、夕日の赤。ここを訪れた大人たちは、小さな廟に座り込み同じように写真をとった。

atに文章が掲載されると、もの書きの友人から電話が来た。初老という表現はおかしい、自分の事を書いているとしたら初老ではない、同年代の人間に失礼だ、というものだった。当時40台後半だったはずだから、今思えば確かにおかしい。しかし、カミさんが死んだ直後ということもあり、限りある明日などと思い巡っていたのが、初老という表現になったのかも知れない。

[注:内容的に間違いのある部分も含め、手は加えてありません]
[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」  に収録されています。]

Sunday, June 13, 2010

[East Asia photo inventory] 「岩肌をよじ登る民家ー釜山の電柱」

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韓国・釜山の電柱 photo:(C)Eiji KITADA

建築雑誌 "at" 連載 第7回
「岩肌をよじ登る民家ー釜山の電柱」

文:大行 征
写真:北田 英治

「日本のお父さんがなくなられたそうですね」。昭和天皇の葬儀の翌日、釜山の国際市場の横の屋台で聞いた言葉は、そんなせりふだった。去年の冬、下関からフェリーで渡った釜山は雨が降り続き、港から見渡す市内の光景はもやっとして捉えどころがなかった。

冷たく刺すような雨のため一日を棒に振った翌日、岩山にびっしりと貼りついた住居群を目のあたりにする。港からはり出した半島の一角へ車を走らせ、山腹の大半を埋め尽くした民家の集合体を這い登ることにした。ようやっと人がすれちがえるほどの階段は、利用者に媚びることなく、目的地を最短距離で結んでいる。ほぼ三十メートル登るごとに、ペンキで塗かためられたコンクリートとブロックの塊はいったんここで途絶え、下からあえぎながら走ってくる車の道と交差する。三度ばかりそんなことを繰り返し、ようやく本来の山肌にたどり着く。コンクリート壁が途切れたとたんに、山は素顔を覗かせる。むき出しの岩と、わずかばかりの緑、斜面を切り崩してつくられた一坪にも満たない畑地、そのまた上にはトタンと軍用テントでつくられたバラック小屋が、新規共同建設者の登場を待っていた。

階段の途中を横道にそれると、路地はうねり、上下し、民家の屋上を伝い、最後には、幅四五センチの余地となって終ってしまう。というより、平らな部分はどこでも人の通行が許され、蟻の巣のように上下左右往き来ができる。 脇道に入ると、水道管は地上に表れてくる。塩ビのインチ管が、壁を伝わり、となりの家を横切って屋上の貯水タンクにたどり着くまでのびきっている。道路の中央には排水構が切り込まれ、急勾配もあいまって、流れは良く、悪臭をたてることもない。一本の電信柱からは、櫓を組むときのロープのように電線が張り巡らされている。

六十年代後半、韓国では都市の人工集中とともに、不良住宅が不法占拠をくりかえし、都市の風景をつくりだしてきた。土地を求めて上へ上へとよじ登っていった。上の人間は下から壁を、屋根を、電気を、水道を租借する。しかし、現代世界は物の所有者、所属、領域を明確にしたがる。建築基準法は曖昧な領域を欲しない。あらゆる物にナンバーが記され、管理されている。空中権から地中権と、目にみえない領域にも規程が及んでいる。それぞれに色付けをしてみると、余白という部分が一切無いということになるのかも知れない。スラムが不法建築と呼ばれるのも、領域があいまいで、かつ使用者を確定できないところに由来している。

釜山の傾斜地住宅では、1階の壁の延長が上にすむ住まいの壁へと続ながっていく。屋根は集落の共用の通路として利用され、時には子供達のかっこうな遊び場となり、キムチの壷置き場、洗濯物干し場として使い分けられる。複層した用途が空間にはり付いてくる。場があれば機能を誘発する。現代建築の、着せ換え人形のような物つくりでは、決して創り出せない空間を、釜山の山は教えてくれているかのようである。
(連載第七回- "at" '90/10掲載)


「岩肌をよじ登る民家ー釜山の電柱」十年後記 2001年2月18日

「日本のお父さん」という表現は外国人が日本を言い当ててなかなかの表現だと思った。外から見ると日本の「お父さん」は総理大臣ではなく、「天皇」なのだ。

台湾の飲み屋で女の子が日本と台湾の比較する際に口にするのが、「わたしたちの総統、あなたたちの天皇」。少し時代を遡って日本の中国識者竹内好さんが、「外国人に日本人のものの見方考え方を知ってもらうのに紹介するのは教育勅語です」という文章をどこかに書いていた。書かれたのは60年代だったかもしれないので、高度成長期の日本人を教育勅語の精神が言い表しているのだと思われる。

竹内さんは教育勅語を批判的に引用しているのではなかった。天皇制を悪用したのは軍人たちだという思いがあったのだと思う。

台湾で仕事をしていたとき、幼少時に日本教育を受けた方々からよく教育勅語を聞かされた。今でもまるまる暗唱できる。これは驚きだった。

先日、写真家の北田君がソウルから戻ってきた。総督府のない風景、ファーストフードとローマ字の看板、地下鉄の車両にまで張り巡らされた携帯電話網。かつて、儒教の教えが色濃く残っているのは韓国しかない、といっていたのが嘘のようだ。目上の人と話をするときは顔を横に向けて話をしなさい、先にたばこを吸うのはやめましょう、などなどごく日常の仕草にも礼節があったのだが、携帯電話の普及はそんな話を無縁にしてしまったのではないか。

[注:内容的に間違いのある部分も含め、手は加えてありません]
[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」  に収録されています。]

Friday, June 11, 2010

[East Asia photo inventory] 「アジアを夢見る-上海1945」

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中国・上海市内 photo:(C)Eiji KITADA

建築雑誌 "at" 連載 第6回
「アジアを夢見る-上海1945」

文:大行 征
写真:北田 英治

日本植民地時代の始まりとその終りに、上海を舞台とした二人のヒーローが登場する。同性同名で名前を本郷義昭という。二人は時代を共有することもなければ、中国に対する世界観もまったく異なっていた。しかし、アジアの解放を望んでいたことで二人は共通している。

ひとりは陸軍情報部の将校として日本帝国主義による中国の解放のためにアジアを駆け巡る。もうひとりは終戦まぎわの上海に特派員としてやってきて、敵対する民族の男女がお互いを理解し合うことによる解放を体験する。

昭和六年、日本植民地政策の最盛期に、少年小説作家の山中峯太郎は「亜細亜の曙」を発表する。本のなかで主人公の陸軍将校本郷義昭はインディー・ジョーンズばりの冒険活劇をみせてくれる。ジョーンズとのちがいは本郷が鉄の意志をもって「国家の危機」を救ってみせるところにある。アジアの開放を望む本郷は中国人に向かって号ぶ。 「聞け!支那人諸君!諸君は日本帝国の真精神をいまだ知らず、○国に従ってみだりに亜細亜の平和を破る。めざめよ中華国民!たって日本とともに亜細亜をまもれ!」

もうひとりの本郷は、コミック作家の森川久美が昭和末期に描いた「上海1945」に登場する。主人公は「大和魂がある限り日本は負けん!貴様は日本人の恥だ ! !」といわれ続けられた新聞記者である。 特派員の本郷は、日本が無条件降伏したとき、「死に損なったよ・・・」とつぶやく。彼にたいしてどうしても素直になれなかった中国人の女友達は、抗日戦線の友人からいわれたと、はじめて見せた恥じらいで彼に伝える。 「新シイ中国ノ建設トイウノハナンダト思イマス?ソレハアナタヤ私一人一人ガ、自分ノ心ノママニ愛スル人ト共ニ幸セニ暮ラセルヨウニスルコトデス」。

二人はアジアを夢みている。その中心にとてつもなく大きい中国がある。その大きさのためか、民族のためか、われわれは中国を捉えきれないでいる。本郷義昭のこだわりもそこにあるような気がする。 上海は二人の本郷が熟知している場所である。二人の間には二十年の隔たりがある。にもかかわらず上海の風景に変化はない。二十世紀初頭から三十年まで、英国を中心としたヨーロッパ列強は上海の風景をつくりあげた。二人の本郷を生みだした山中も森川もこの風景から逃れることはできない。いやこの風景があったからこそ、本郷はヒーローになりえたともいえる。

建築のもつ凄みの一つはここにある。作品としての質にかかわりなく、時間を経ることができただけで価値を生み出してしまう。上海の風景は歴史に翻弄されることなく、現在にいたっている。それゆえに、時代を越えて描かれた記録を、いまでも重ねあわせることができるのである。 上海は二人の本郷義昭を虜にした不可思議な都市である。
(連載第六回- "at" '90/09掲載)


「アジアを夢見る-上海1945」十年後記 2001年2月10日

テレビで見る現在の上海は異様としか思えない。まるで万国博覧会のようだ。

十年前の上海はまだ、アンドレマルローが、金子光晴が、蒋介石が、「太陽の帝国」の作者バラードが愛した上海の面影は残っていた。そこには20世紀前半に上海を埋め尽くした建物が残されていたから。薄暗く、雑踏と猥雑さの匂いが残されていた。また、外国の観光客にもそれで売っていた。今の観光客は上海で何を見るのだろうか。

1985年だったか、一冊の本が出版される。「宋王朝」という宋家三姉妹について書かれた本だ。長女は中国金融界を牛耳った男の妻、次女は孫文の妻として中国人民に操を捧げる、三女は蒋介石の妻、彼女たちを中心に激動の中国の歴史を描いた本として有名である。出版前、この本の内容が知られるようになると、作者は見えない影からいろいろな圧力を受ける。刺客が指し向かれたとか、終いには出版元からすべて本を買い取ってしまえという話もあったらしい。

原因は上海時代の蒋介石の行状が描かれているからだ。嘘か本当かは判らないが、蒋介石はやくざの庇護の元で権力を維持してきたというのだ。英文の本の作者紹介欄には、資料の出所にはFBIからのものもある、と記されている。台湾の一部では大騒ぎだったようで、中文に翻訳され台湾で出版されたものには、原本にあった箇所がいくつか削除されていた。やはり上海はよほど魅力あふれる都市だったのだろう。


「アジアを夢見る-上海1945」二十年後記 2010年6月10日

「亜細亜の曙」の作者山中峯太郎は生粋の軍人であり、生粋の右翼でもある。しかし彼の経歴は別として、少年少女向けに書かれた「亜細亜の曙」は面白かった。何しろ話が痛快なのだ。それゆえ少年少女たちが主人公の本郷義明に憧れたことは疑いもない。戦後ある左翼系著名評論家が山中峯太郎とその作品を帝国主義を小国民に押し付けたと評した。しかしだ、少年たちは強いものに憧れるものなのだ。苦悩する反戦左翼系知識人の話を少年少女に押し付けても、学習することのできる彼らにはおそらく糧にはならなかっただろう。

J.G.バラードの自伝的作品、「太陽の帝国」を紙で読んだわけではない。スピルバーグの映画で見ただけだ。そのなかで、上海の豪邸に住むイギリス人一家のバラードは親の心子知らずで日本の戦闘機ゼロ戦を手に勝ち誇ったように空中を走らせる。当時ゼロ戦は最も優れた戦闘機として知られていた。バラードも強いものに憧れていたのだ。そこには敵も味方もなかった。

森川久美さんは少女コミックスの読者にとっていまやレジェンドなのかもしれない。いち早く中国を舞台に作品を続けさまに発表、どれも面白く興味深かったと記憶している。いや私は娘の本棚から森川さんの本を見つけ出して面白い面白いといっていたただけで、本屋で少女コミックスを購入する勇気は持ち合わせていなかったのだが・・・。

[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」  に収録されています。]

Wednesday, June 9, 2010

[East Asia photo inventory] 「三十八度線の北-建築のない風景」 (韓国・束草)

ホームページを閉鎖することにしました。古い記事、当時の東アジアの雰囲気を伝えた部分をこちらに掲載しておくことにします。[二十年後記を追加]

韓国・束草(ソクチョ)の渡し photo:(C)Eiji KITADA

建築雑誌 "at" 連載 第5回
「三十八度線の北-建築のない風景」 (韓国・束草)

文:大行 征
写真:北田 英治

韓国の北西部を江原道と呼ぶ。ここには朝鮮動乱以前に、三十八度線より北にいたい人たちが集まって住んでいるという。いつの日にか北に帰れるかもしれない、という想いがこの地方にはあるという。

動乱の後、大国の取り決めで引き裂かれた分割線、東西の話し合いが進むなか、彼らはこの線の南側に集まってきたという。それも着の身着のままで。線の消える日がやってきたならば北へ帰るのだという思いが、ここを定住の地と考えることもなく今に至っている。そのためか風景は貧しく、建築らしい建築も見あたらない。

二年前の冬、ソウルから高速バスを乗り継ぎ、鉛色の海岸線を北上した。彼方まで続く鉄条網沿いに、緯度が北に最も近い小都市・束草に入る。かつて、海岸線は街の奥まで入り込んでいたが、日本海の荒波を遮るために埋め立てられた。その帯状の防波堤には、今では海風を避けるための、軒の低い民家が薄く長く張り付いている。運河状に残された水路の奥には漁港があり、ちょうど街は分断された格好になっている。そのため、人の往来は渡し船に頼っている。わずか両岸五十メートルの間にスチールロープを渡し、鉄のフックを乗客が代わる代わるに引きながら向こう岸へと渡っていく。番所が海岸仙川にあり、乗客はそこで十ウォンを支払う。彼らは町にでるのにも運河のロープを手繰らなければならない。人影の途絶えたときと漁船の出入りのとき、この風景は停止する。束草の町のなかで、動きのある風景はここにしかない。

見るべき建築があるわけでもなく、ただ荒涼とした風景が広がるのみの場所。見えるものは、北からの進入を防ぐため海ぎわに張られた、どこまでも続く鉄条網と、運河の傍らでひたすら三十八度線の北へ戻れる日を待ち望む人々の姿かもしれない。束草では、人が住み続けているにもかかわらず、建築のない風景がひろがっている。

韓国の風景は美しい。しかし、多くの古建築は長年にわたる動乱で原型を留めていない。近代建築のほとんどは植民地時代の遺産であり、それも二流品の焼き直しである。とはいえ、そんなこととは関係なくたたずまう、名もない風景の中の建築に魅力を見いだすのは、明らかに空間が民族やその地方の文化を表現しているからであろう。その点を心得て東アジアの空間を見るならば、西洋合理主義のものの見方・考え方とは、別の切り口を探り出せるにちがいない。もし建築を、いかに効率化と合理化するかを中心に考えるとするならば、東アジアの風景は退屈きわまりないと感じることだろう。
(第五回終了- "at" '90/08掲載)
 

「三十八度線の北-建築のない風景」十年後記 2001年2月10日

三十八度線沿いの旅から戻って間もない頃、日本のテレビで「チケット」という韓国映画が放映された。舞台は韓国のひなびた地方都市、そこの喫茶店で働く女たちのお話。喫茶店にコーヒーの出前を注文すると、女性が配達してくれる。女性は配達以外のサービスをして収入を得ることになる。

ソウルから束草のバスターミナルで降り立ち、我々は宿の手配をしなければならなかった。2月、三十八度線に近い日本海側のこの小都市はやたら寒い。ホテルでも簡易旅館でも良かったが探しあぐねていた。暖と口を潤すために喫茶店にはいる。客は若い女性ばかり、それもだらだらと適当にテーブルを占めている。コーヒーを運んできた女性に身振り手振りで宿はないかと尋ねると、案内しようと近くのひなびたホテルに連れてってくれた。その女性は、帰り際にコーヒーを持ってこようか?らしいことを言って戻っていった。

それから二日たった早朝、我々は三十八度線に向かう道路が行き止まった町の宿で警察官にたたき起こされた。昨夜は遅くまであちこち歩き回って酒もしこたま飲んだ後、酔いの残った顔で質問を受けることになった。仲間のうちの何人かが、飲み屋で前線から戻った若い軍人たちとちょっとした口論があったらしい。年寄りの、日本語の通訳が職務に忠実そうな警官に我々の返答を翻訳してくれていた。警察官は、無礼があってはいけないとの配慮からか、簡単な朝食を注文してくれた。温かいコーヒーとトースト、配達してくれたのは若くて魅力的な女性、我々のやりとりをおもしろそうに聞き入っていた。

「チケット」という映画を見たのはそれから半月もたたない後だった。


「三十八度線の北-建築のない風景」二十年後記 2010年6月9日

韓国テレビドラマ「冬のソナタ」がNHKで放映され始めたのが2003年のこと、一躍韓国はドラマの輸出国となっていく。あるとき、韓流紹介の番組を目にしていたところ、あるドラマのいちシーンが目に留まった。どこかで見たことのある風景。紛れもない、束草(ソクチョ)の渡し場だった。ドラマの題名は「秋の童話」。小さいときに切り離された少年と少女、二人は一途に思い続け、成長した少年は彼女を捜し続ける。二人のすれ違いの場がその渡し船だった。

テレビで見る渡し場周りの風景は当時と異なっていた。本島側にはビルが、遠くには高層マンションの姿が。残されていたのは彼女の母親が営む小さな雑貨屋。昔我々は店の前に置かれた箱に船賃1ウォンを投げ入れた。「チケット」を売るコーヒー店がいまだに残されているのかは解らない。

束草を後にバスで朝鮮半島を横断する。たどり着いたのは春川。「冬のソナタ」のロケ地のひとつだと知るのは十年以上もしてからだ。我々は春川の風景に満足できず、さらに北へ、38度線へと向かった。夕暮れ時たどり着いたのは華川という小さいながら飲み屋食い物屋キーセン宿もある前線の補給基地。それとは知らず、平和な日本人たちは飲み食いを満喫した。そして兵士といざこざを起こし、我々の存在は小さな町に知れ渡ることになった。翌早朝我々は警官に尋問される。

人のよさそうな日本語のできる親爺さんと若い警官、一行四人、私の部屋に集まった。まず警官が話を切り出したのは以外にも「食事は済まされましたか?」というものだった。いやまだですと答えると、若い警官は親父さんになにか指図をする。型どおりパスポートの提示、そして職業を聞かれる。建築家ですと答える。脇の一人がそれに続く。続いて元来建築家だったが今では一流のもの書きになっている彼も「建築家です」。最後の一人、写真家は口ごもって言葉が出てこない。通訳の親父さん、同様に「彼も建築家です」などと話したらしい。そう、メディアがらみの人間は怪しまれる。厄介ごとにならないよう、親父さん当たり障りのない通訳をしてくれたようだった。

そこに小柄だが美形なお嬢さんがコーヒーとサンドイッチを運んできてくれた。そのまま出て行くと思いきや、警官の脇で興味深そうな目でわれわれのやり取りを眺めている。本題はというと、この先38度線の向こう側でダム工事をしていることを知っているか?というものだ。知る由もない。そう答えるよりほかにない。38度線の先でダムを工事しているのがどう問題なのか、今年はじめの放流により多くの被害者を出したことで答えがでた。

結局どうみても特務を帯びているとは見えない我々、朝食をご馳走になって解放された。

[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」  に収録されています。]

Monday, June 7, 2010

[East Asia photo inventory] 「不確定な風景-香港一九八七」

ホームページを閉鎖することにしました。古い記事、当時の東アジアの雰囲気を伝えた部分をこちらに掲載しておくことにします。

1987年6月31日/英領香港も借りた時間はあと10年 photo(C)Eiji KITADA


建築雑誌 "at" 連載 第4回
「不確定な風景-香港一九八七」

文:大行 征
写真:北田 英治

一九八七年七月一日の香港はその年最高の温度を示していた。一歩建物の外に出ると、体全体に三四度の水蒸気がまとわりついてくる。香港全体が上海風呂のようである。ビクトリア湾に浮かんだ木っ端のような啓徳空港で、比重が一に近い空気を味あわされて五日が過ぎていた。十年先の今日、自由経済のもっとも基本的な姿で機能していた英領香港が、地球上から消え失せてしまうこの日を期待して香港に滞在していた。中国銀行を始め、中芸や九龍城の一角に五星紅旗が翻るのではないかと、朝早くからタクシーを雇って町中を走りまわろうと考えていたものの、湿った熱気をホテルの窓ガラス越しに感じ取り、またベッドに戻ることにした。

その日の午後、地下鉄で九龍に渡った。街はなんら変わることなく、昨日と同じように汗を流した。当然、五星紅旗も青天白日旗もユニオンジャックも見ることはなかった。スターフェリーの入口で、手当たり次第に七月一日付けの新聞を買いあさり、一等船室に乗りこむ。新聞をひろげると、ある記事に目が止まった。一つは「移民」、もう一つは「ベトナム関連」である。アメリカ合衆国とカナダへの移民のお手伝いをしましようというもの。もう一つは「ベトナム親族捜し」「ベトナム定期航路案内」「ベトナムエキスプレスメール」。一つは香港からの脱出を、もう一つは香港に辿りついたポートピープルに向けたメッセージである。限られた十年という時間。時間のみが引き算の香港にあって、この地を見棄てようという人間、失われた国から十年後に消失する国にやってきた人間。そしてそれを商売にする人間。

自分の国籍を疑われることのない国民は幸せである。税金さえ払っていれば、憲法で保証された最低限の権利だけは守ってくれる。しかし、香港に居を構えようというなら、話は別である。七月一日の新聞のすべてが、新しい身分証の実施について第一面をさいた。十年後、おまえたちはどの国を選択するのかを問うている。新しい身分証は一九九七年以降、中華人民共和国香港特別行政区政府のものにとってかえられることになる。政治などクソくらえだと言っていた香港の人間も、今度ばかりは自分自身で自分の国を選択しなければならない。限られた時間、それも英中のボス交で取り交わされた約束ごとにそって、明日なぞ考えもしなかった連中が、十年間の引き算のなかで明日のことを考えねばならなくなった。

三年前のセントラルには、まだ中国銀行はその威容を表していなかった。香港上海銀行の隣の旧中銀の会議室で、我々はペイとパートナーを組んだ構造設計者から、革新的なトライアングルストラクチャーの説明を受けた。ピークの中腹では日本の商事会社が大規模最高級マンション群の竣工を急いでいた。銀行家はリパルスベイを見おろす集合住宅の改装に手をかさないかとささやいてきた。

現在、高級マンションは裁判沙汰の最中、銀行家は職を離れ、大陸向けの商売をはじめている。今なお香港の風景はきわめて不確定であり、明日を予測することは難しい。
(第四回終了- "at" '90/08掲載)


「不確定な風景-香港一九八七」 十年後記 2001年2月9日

一九九七年、私は香港を訪れなかった。その一年前、香港で何かが起こるかもしれないことを期待して宿の確保を手配しようとした。当日の7月1日前後は、信じられないような宿泊料が香港から伝えられ、日本の旅行会社はそれでも多くの客を信じて疑わなかった。返還の日が近づくにつれ、当地からの情報は魅力的なものではなかった。

当日、香港は予想以上に統制された行動で始終した。中国の思惑通りに進んだ返還行事といえるだろう。キャンセルを受けた多くの宿はダンピングで客を誘い、それでもどこもが満室になることはなかったという。

先日「甜密密」(日本題「ラブソング」)という香港映画を見た。はやりのラブソングを口ずさむ男と女の十年にわたる恋愛映画である。男は天津から、女は広州から働きにやってきた。男も女も大陸の人間である。香港映画が時代劇を除いて大陸の人間の話を中心に据えた映画を今まで見たことがない。

映画の中で香港の風景は今までと変わることはなかった。いや、むしろ今まで以上に商業主義のにおいを強烈に振りまいていた。テレサ・テンの歌を歌い、標準語を話す香港の人間は大陸からやってきたものだ、商売で成功するには広東語(香港で一般の人が話す言葉)と英語(英領香港の公用語)が話せなければならないと女はいう。変わったのはその中の人間だったのか。

[注:内容的に間違いのある部分も含め、手は加えてありません]
[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」  に収録されています。]

Friday, June 4, 2010

[East Asia photo inventory] 「多言語な風景 - "悲情城市"のなかの上海人」

ホームページを閉鎖することにしました。そこで古い記事、当時の東アジアの雰囲気を伝えた部分をこちらに掲載しておくことにします。

騎楼と呼ばれる連続店舗のアーケード/台北 photo:(C)Eiji KITADA

建築雑誌 "at" 連載 第3回
「多言語な風景 - "悲情城市"のなかの上海人」

文:大行 征
写真:北田 英治

日本の敗戦から中華人民共和国成立までの5年間を描いた台湾映画「悲情城市」では、おなじ漢民族同士でありながら、話し言葉が違うだけで殺し合う悲劇を描いている。ある地方の言葉を使えるというだけで権威を手にする人間をみつめている。映画のなかで、蒋介石の軍隊とともに台湾に渡ってきた上海のやくざと,地元台湾のやくざとが話しをつけるシーンがある。始めに台湾の親分が台湾語で付人に話しをすると、付人が相手の付人に広東語に翻訳する。その付人は上海人のボスに上海語に訳して伝える。台湾語↓広東語↓上海語、そしてまた元にもどってゆく。

建築の世界にも似たところがある。台湾の首都台北には、福建省に多く見られる騎楼(アーケード)を持った都市型連続住居、農・漁村に多い三合院住居、日本占領時代の帝冠様式の政府官庁建築、日式木造二軒長屋、中国北方様式の記念建造物等々、時代と地域を越えた建築様式がポストモダン建築と一緒に顔を並べている。地方的伝統と外来様式とが渾然一体となって併置されている。

言葉の世界でみてみると、中国同様、台湾も北京地方語をもとに標準語・共通語が規定されるのは、第2次世界大戦以後である。それまでは、話し言葉は地方語、文章は文語文の時代が延々と続いてきた。標準語・共通語が制定され、多くの中国人は標準語と地方語の二つの言葉をもち、時と場合に応じて使い分けることになる。使い分けの巧さは見事というほかなく、右を向いて北京語、左を向いて台湾語、まったく違和感をもたない。時にはそれに日本語も英語も混ざってくる。まさに大都市台北の風景によく似ている。

言語は文化である。多言語を使いこなすことはそれぞれの文化を享受することになる。歴史的にみても、台湾は外部から人間の流入がはげしかった。十七世紀の半ば、鄭成功が漢人を大挙引き連れて中国文化の基礎を築いて以来、客家人、日本人、外省人と絶え間なく異文化が持ち込まれてきた。建築の様式にもそのことがよく反映されている。平面は伝統的四合院形式だが、立面は西洋館。東棟は日本風、西棟は洋館、中央の正庁とそれをつなぐ回廊は中国伝統様式。特別なきまりが見あたらない。

どちらにしても、台湾建築はひとつの様式に因われることが少ない。あるルールさえ守れば多くのことが実現可能である。そのルールとは、まず異文化を翻訳し、再解釈した後に建築のなかに取り入れることである。必ず再解釈が必要である。再解釈することによって、ローマン語文化も日本語文化も漢字文化に馴染ませることが可能となる。中国人がマルチリンガルに対応できるように、台湾の建築も多種多様な建築様式を翻訳し、再解釈し、多言語な風景を生み出しているのである。

(第3回終了 - "at" '90/07掲載)


「多言語な風景」十年後記  2001年2月9日

「悲情城市」のなかの上海人は映画の中では評判が悪かった。組織暴力団と地回りのやくざでは、勝ち目は最初から判っている。後ろ盾に軍がついている組織暴力ではどうしようもない。「悲情城市」公開までは、表だって228事件について語られることはなかった。

それ以降、台湾では台湾独立という話が現実味を帯びることになる。現総統選出の背景には、「悲情城市」があったのかもしれない。長年、中国大陸も台湾も「一つの中国」を標榜してきて、今回の総統選で破れた国民党が掲げてきた「一つの中国」を、中国大陸が逆手に取って現総統を攻撃したのは皮肉なことだ。

台湾には、鄭成功以降に大陸から渡ってきた福建人(いわゆる台湾人)、遅れて渡ってきた客家人、そして日本の敗戦以降中国大陸各地方から外省人が入ってきた。元々の台湾人(高砂族、山地人などと呼ばれてきた)を含め、多くの言語が入り交じって使われてきた。必要に迫られ、彼らは他の言語を理解しなければならなかった。今でこそ、義務教育の充実で標準語が普及しているが、ほんの一昔前までは、いたるところで「多言語な風景」にお目にかかったものだ。

[注:内容的に間違いのある部分も含め、手は加えてありません]
[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」 に収録されています。]

Tuesday, June 1, 2010

[East Asia photo inventory] 「揚子江の南」

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上海預園の石像彫刻 photo(C)Eiji KITADA

建築雑誌 "at" 連載 第2回
「揚子江の南」

文:大行 征
写真:北田 英治

設計指導のため北京に滞在した折、I. M. ペイの香山飯店を見に行った。北京設計院の連中は南方形式(楊子江以南の地域の様式)を持ち込んだといって嫌っていた。白壁に灰色の瓦をあしらい、緩い傾斜地に馴染ませた配置は私的であり、おおらかでないという。しかもペイはただの瓦を外壁に貼るため、削り、隅を出し一枚十角のものを十倍の単価にしてしまった。しかし外国人である僕はかなり気にいっている。ちなみにペイは中国南部、広州の生まれである。比較的歴史が浅く、文化的土壌の異なる北方の人ではない。

同じ中国でも、上海と北京の風景はちがう。当たり前である。しかし、同じ文字を異なって発音することはあまり知られていない。だが、これも当たり前である。上海の預園の屋根は大きく反っているが、北京の紫宸殿は水平線によくなじんでいる。上海のバンドの風景はやはり北京には合わないだろう。同様に北京飯店は上海では高圧的すぎるかもしれない。

日本人にとって南の建物は奇をてらい過ぎだと感じるかもしれない。饒舌なのである。玄学的であり人によっては辟易とするかもしれない。上海出身の友人にこの件を話してみると”小功玲瓏”と書いてくれた。小粒にして秀麗巧緻とでも訳すのだろうか。

上海の旧中国人街にある預園はある金持ちの私邸であった。ここは小功玲瓏の展示場である。回遊する庭園の随所に光庭が展開し、一巾の絵のように彫刻がしつらえてある。梅にしろ鶴にしろその全てが石塊でできている。庭をくぎる白壁では龍が天空に飛び出そうとしている。空間はうねりそして歪む。写真のファインダーで切り取ってみればどれも感嘆に値するのだが、集合したものを見せつけられるといささかうんざりする。

これ程までにして表現しようとしていることは、いったいなんなのだろうか。おそらくこの建物に係わった全ての人々が自分の宇宙を表現しておきかったのではないだろうか。一つの要素に意味を与え、別の要素を付け加えて物語りをつくり、更には叙事詩へと導いていく。部分としても全体としても成り立っている。ちょうど漢字が一字一教義なのと似ている。一字でさえすべてを語ろうとする。南の文化にはそんな背景が色濃く感じとれる。もしかすると、南北の違いは漢字を創り出した南とそれを利用した北との違いかもしれない。このことはとりもなおさず、文化を伝達した漢字が、表意・象形文字ゆえに、どの地方でも翻訳され易かったことと無縁ではあるまい。

東アジアの国々は中国文化を受け入れながらも、その国独自の展開を比較的自由におこなっている。切り取る部分とその組み合せにより新しい教義をつくりだしている。漢字が各々をとりもって同義異音の文化圏を生み出していくのである。
(第2回終り- "at" '90/06掲載)


「揚子江の南」十年後記 2001年2月3日

北京の香山飯店の現在について詳しくは判らない。しかし、初めての訪問から3年もたたないうちに、建物は汚れ、庭は手入れが不十分、客層の顔つきも違っていた。なぜだかは知らない。市内から離れすぎているからなのか、南部が嫌いな北京人が近ずくのを嫌ったのか。

北京は空間も人間も何か大雑把でとげとげした印象しかない。政治の中心地となると、どこもそうだろうか。退屈をしのぐ場所も上海に比べれば圧倒的に少ない。夜中まで仕事が続いたある週末、同僚と二人天安門広場前の大通りで退屈しのぎを考えていた。人と自転車が行き交うだけの通り、同僚に提案する。「おい、抱き合って見せようぜ!」。この案は決して彼に受け入れられなかったが、今ならどうだろうか。

上海は北京に比べるとはるかにくだけた感がある。
魯迅の上海時代の住まいを取材した夜、友人とホテルの外にでると若者たちが近寄ってきた。「話をしたいんだけど・・・」 「飯にしたい」「あっちだ、こっちだ・・・」「安くて美味しいとこ」「OK!」で、連れてこられたのはバンドの入り口に建つかつてブロードウェイマンションとよばれたホテル裏。こぢんまりとした普通の店、料理は上海家庭料理、しかし何かが違う。若者たちはにやにやしている。客は男ばかり、それも結構いい男たちだ。オンナはわずかに掃除のばっちゃんだけ。そう、ここはホストが店の始めや終わりに食事をするための溜まり場だった。

[注:内容的に間違いのある部分も含め、手は加えてありません]
[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」 http://www.sinkenstyle.co.jp/sub_contents/asianlile/index.html に収録されています。]

Saturday, May 29, 2010

[East Asia photo inventory] 「漢字」

数年間手を入れていなかったホームページ。このウェッブ・サービス業者が日本から撤退してしばらくたちます。そしてある日、あるちょっとした手違いからサービスを止められてしまいました。焦って連絡をいれ一時的に回復したものの、再度意味不明なまま手が打てなくなってしまいます。このままほおっておくとデーターへのアクセスもできなくなりそうです。そこで古い記事、二十年前当時の東アジアの雰囲気を伝えた部分をこちらに掲載しておくことにしました。


招進宝と書かれた掛貼(縁起をかつぐ貼紙) photo:(C)Eiji KITADA

建築雑誌 "at" 連載 第1回
「漢 字」
文:大行 征
写真:北田 英治

台湾北部の港都、基隆を訪れたことがある。日本の占領時代軍港だった町である。燈火管制で町中の民家 が黒く塗りつぶされたと聞いていた。残念ながら今ではその面影はない。賑わいが途切れた町並みに木造2階建ての長屋をみつけた。戦前のものだ。雨と強い陽 射しを避けるために一階は回廊になっている。一軒の住宅の玄関に風変りな掛貼(縁起をかつぐ貼紙)を目にした。”招進宝”(お金が入りますように)を一字 に組み合わせたものだ。

こんな漢字の面白さを知ることになったのは中国語を勉強してからである。始めは書き順も筆使いも解らずに黒板の 前に立っていた。そのうち漢字そのものが中国文化を表現していることにきがつく。そしてなぜ書き順や筆使いにこだわるのかを考えるようになった。その間、 象学に興味をもち易や陰陽五行説などを読んでみる。そして漢字は概念をもつ最小単位であると思いいたった。漢字の発生と構成が中国思想と切っても切れない 関係にあることを学んだ。

その後、中文のワ一プロが必要になり、IBM台湾を訪れてみる。中国語の入力方法にはいくつかあるが、その中 でもIBM5550のは特に目を引いた。付属のマニュアルによれば、使用する24のキ一は4つに分類される。一つは陰陽五行の日、月、金、木、水、火、土 の七つをキーとするグループ。書道の基本的な筆運び、竹(斜線)、戈(点)、十(十字交差)、大(斜め交差)、中(縦線)、一(横線)、弓(はねる)の7 つのキー。人の体の部位がその文字の基になっている偏と傍を、人、心、手、口の4つのキーであらわしたグループ。単独では意味をなさないが、組合わされて 初めて意味をもつ文字を代表した尸、廿、山、女、田、卜の6つのキ一グループ。見ただけではなかなか理解できないが、漢字が形成されていくなかで、字母に 関わりなく構成された文字を集めて分類したものと思われる。

この24のキ一を自由自在に組み合せて必要な文字を正確に探し出してしま う。例えば”和”は竹木口キ一を叩く。”並”は廿廿一を叩くだけでよい。つまり、知的で高度な絵解きをワープロにとりいれたことになる。ゲーム感覚なので ある。中国南方の建築を見ているとこの絵解きのゲームに似たものを感じる。一つ一つ完成されたエレメントを使いながらそれを一体に組み上げてしまう。ちょ うど、漢字が構成されてきた手順ににている。

漢字を借りて文化を築いてきた東アジアの国々では、そんな文字を使い、考えを記録し、人へ伝 達してきた。そうなると漢字は、東アジアのオペレーションシステムと言えそうである。東アジアの建築も同様、この O S のもとでつくられてきたといえる。だとするならばローマン語系の建築とは大きく異なってくるはずである。

(第1回終り- "at" '90/05掲載)

 

「漢字」 十年後記 2001年2月12日

  十数年前までは中国語をパソコンで扱うことなど、一般の人間にはほとんど考えられなかった。台湾の IBMを訪れた後、日本IBMに中国語を扱いたいのだけれどと電話を入れたが、当時のIBMは個人ユーザーにはけんもほろろ、相手になどしてもらえなかっ た。この時からしばらく、決してIBMユーザーにはなるまいと思った。結果、IBMは個人ユーザーの必要性への決断を迫られることになるのだが。

それからしばらくして、友人がモンゴルの留学生を事務所に連れてきた。すでにマッキントッシュではOSレベルで中国語が簡単に扱えるようになっていた。そ んなことで、モンゴル語がパソコンで使えないだろうかということを知りたがった。ちょうどモンゴルはロシアから自立を図っていたとき、それまでの公用語の ロシア語からモンゴル語がパソコンで使える必要があった。

パソコンで外国語を扱う「お助け寺」でならしていたマキ・エンタープライズの野原さんに電話を入れてみる。「もちろん可能ですよ、ですがソフト開発に○○ 万円はかかります」で、話は終わってしまった。当時のモンゴルではとてつもない金額だった。

野原さんの話の中で興味深いことがあった。 世界中には五千から七千という言語が存在し使われているという。今後、パソコンに移植できない言語は間違いなく淘汰されるだろう・・・。言語はそれを使う 人たちの文化を形成する源である。もし、それらの言語が失われるならば、それらの文化も思考構造も精神構造も失われることになるのだから。

台湾では、戦後蒋介石とともに台湾に移ってきた外省人と呼ばれる人々が入ってくるまで、台湾語が使われていた。 もちろん今でも多くの人たちが使っているが、都市の若者たちは話すことができないという。できても味わいのある語り口にはほど遠いという。

[注:内容的に間違いのある部分も含め、手は加えてありません] 

[注:写真はすべて写真家・北田英治氏によるものです。彼のアジアに関する写真は「ASIAN LIFE」に収録されています。]

Thursday, May 27, 2010

[台北] 映画館で映画をみる

もうふた月以上前になります。映画館に出かけてきました。映画館で映画を見る、最後はいつだったでしょうか、記憶にないほど大昔のことです。台湾で映画を見るにいたっては二十年以上さかのぼるはずです。そう、映画館はわたしにとって遠い存在になっていました。それほど縁のなかった映画館に足を運ぶきっかけはTwitter。こちらの方の書き込みに思わず反応してしまったことからでした。

この旧正月の春先、台湾には目白押しに面白そうな映画が登場、電視台で予告が四六時中流されていました。日本語の題名は分かりませんが、D.Washingtonの「Book of Eli」、M. Damonの「Green Zone」、L. DiCaprioの「Shutter Island」そしてTim Burtonの「Alice in Wonderland」。なかでも「アリス...」は予告の編集が巧みで私をひきつけます。

台北のわたしの住まい近くにお住まいらしいTweets Friend、彼曰く「アリスはエンタメとしてなかなか面白い云々...」、私ついつい「期待しているんで、近々見にいくつもりです...」、友「Tim Burtonですから...是非是非...」。長年映画館に行っていない私は、ひくに引けず出かけざるを得なくなります。そして十分に楽しんできました。

写真はそのときの切符。入館時にチケットの端をむしり取ります。空港からリムジンバスに乗る際と同様、ハサミ代わりです。全席指定。窓口で希望の席はありますか?と聞かれたので、どこでも、と答えると、なんと13列の13号を渡してくれました。なんとなくアリスの中国語題名「魔境夢遊」にふさわしい。理解不能だったのが切符の一番下に記載された(小可1+小爆1)。これ小カップのコカコーラとポップコーン付きってことでした。しかしコーラは飲みませんし、小腹も満たされていましたのでそのままにしておきました。映画代金260元に付きだし30元、計290元。日本円で800円程度。ウイークデーの昼下がりです、観客は20名にも満たないでしょう。300席あまりの館内はガラガラでした。

その昔、台湾で映画を見たときのこと。日本の映画館との大きな違いのひとつに指定席の通し番号がありました。館内を縦二つに割り、右側が偶数席左側が奇数席。もうひとつは、館内が暗くなると全員起立です。何事かと思いきや、国歌が流れてきました。当時の最大の娯楽が映画でしたから、私も何度も通った記憶があります。この習慣、いまでは二つとも残されていませんでした。

「アリス・・・」に懲りず、立て続けに「グリーンゾーン」、「Book of Eli」を観ることになります。それでも物足りず、ネットで映画鑑賞。見たい観たいと思っていたジョン・マルコビッチ監督の「ダンス オブ テロリスト The Dancer Upstairs」など「911」関連映画。わたしにとって「911」という数字は南米にあります。ビン・ラディンがこの数字を意識して報復したのかは定かでありませんが、南米の「911」にまつわる映画をまとめて見ることができました。しかし、記憶が不正確になってしまった映画「ミッシング」が開けず、日本にいる韓流の師匠ジュンサンにお願いして送ってもらうことにしました。ジュンサン、感謝です。

Sunday, May 9, 2010

[台北・土城] 牡蛎雑炊を食する

ツイートしているうちに連想ゲームのように昔のことが思い起こされた.....

ご馳走を口にした。管理人の楊さんに連れ出され、台北郊外土城にある雑多な町並みのなかにあるごく普通の店構えの牡蛎之家で牡蛎づくし。生牡蠣、湯葉で包んだ牡蛎揚げ、牡蛎を卵とまぶして炒めたオアチェン(台湾語)、揚げ豆腐、そして最後に牡蛎雑炊。美味い、確かに美味く新鮮だった。

ご馳走を口にした。生牡蠣はいやだというも、牡蛎之家のカキは布袋沖外傘頂洲から今朝方揚げた新鮮なものなのだ、と言いくるめられ口にする。美味い、確かに美味く新鮮だった。そして安い。三人で800元と一寸。日本円で二千円と少し。

晩飯に口にした牡蛎の揚がる台湾中部の小さな漁村布袋鎮、大昔ここから船で澎湖島に渡ったことがある。出かける前の晩、港で宿を探していたときに出くわした街の若造に連れられ、賭けで巻き上げたというBMWを走らせ、畑のど真ん中、廟を囲んでできた仮設の飲み屋街にでかけた。田舎っぽかったが味わいがあった。

真っ暗闇の中、ぽつんとそのあたり一帯だけが光り輝いていた。店の中の薄暗い電灯、やけに派手で安っぽい衣装の女性たち。「土 」[tǔ] unfashionable ダサイ。しかしなぜか居心地がいい。映画「海角7号」の舞台は台湾最南部。舞台も話も登場人物もみな「土 」。しかし見ている私は実に和まされた。大陸中国ではお目にかかれない味わいがここ台湾にはある、いや残されている。

その「土」、時としてわずらわしいことも多い。そこを上手くかわせていければ、台湾は居心地のいい場所である。

Tuesday, March 9, 2010

[新竹・横山] 小さな旅 - 里山

先週末、かねてからお呼びの掛かっていた案件、山あいの土地を購入するつもりなので見てほしいということで出かけてきた。高鉄・台湾高速鉄道が台北を出、桃園駅を過ぎると辺り一面に霞が。田畑も幻想的。

新竹駅で十五分ほど待たされたあと、土地主の車でその方のお宅へ。そこでなぜか軽トラに乗り換え。県道をちょこっと入ると辺りは田園、一面蓮華の畑。若者のきえた農村、土地に手を入れるほど人出が確保できない、蓮華を植えて畑の土に何とか栄養分を与えようとしてた。まだまだ残されたレンガ積み瓦屋根の農家。曲がりくねった車がすれ違うのもやっとという農道から山道に。せき止められた沢、小さな農業用水の溜池がいくつも見受けられる。

土地購入予定のオバサンと私、軽トラの荷台で、プラスチック製小さな椅子に座り、支柱にしがみつき、右に左に、上下に揺さぶられながら山あいに入って行く。なるほど、これでは普通の乗用車で入っていくには厳しい。しかしそれほどにまでして購入したいとオバサンの気持ちを代弁するように、山道の先には別天地のような光景が。
レンガ壁で囲まれた小さな中庭をもったセルフビルドの小さな管理小屋。ビンロウ樹の森、下草は手入れよろしく、やさしい雑草が土を覆っている。湧水、苔むしたレンガの側溝、ちょうど昼時、日差しはビンロウ樹の森からの木洩れ日、白いタイルを敷き詰めた中庭で持参した板条麺を食する。

静かだ。こんな静けさは久しぶりだ。懐かしい。千葉の片田舎、勝間村の冬、辺り一面雪で覆われた夜、椎の実が枝をたたきながら落ちていく音が聞こえたことを思い出した。

Saturday, February 27, 2010

[台北] 路上の演劇 - 歌仔戯

もう一月ほど前になりますか、住まいの裏通りに仮設の舞台がつくられました。布袋戯(ポ一テ一ヒ一)か歌仔戯(コ一ア一ヒ一)が催されるようでした。このふたつ、台湾・大陸福建省あたりでよく見かける大衆芸能の一つです。布袋戯は人形芝居、歌仔戯は台湾オペラ。

数日がたち、日が陰りはじめる時間に部屋の外から賑やかな笛や太鼓、それに独特な歌い回しの歌曲が聞こえてきました。外にでてみると、路上に構えた舞台で華やかな民族衣装で着飾った芸人が演目をこなしています。人形芝居ではなく、台湾オペラの歌仔戯です。路の反対側には仮設テントにテーブルが用意され、人々が加わり、宴たけなわです。これが五日間ぐらいも続いたでしょうか。

隣人に聞いてみました。「誰が主催しているんですか?」。

裏通りのビル一階に間口の小さな一角、そこに廟が設えてあります。その廟が、ご利益がありますようにと説いて参加者を募り開いているのだそうです。何がしかのご布施をし、ともに会食し、台湾オペラを観劇するというわけです。

私が初めて台湾オペラを見たのは、そう、二十数年ほど前のことでしょうか。台湾国内を北から南へ旅する先々で布袋戯や歌仔戯を見かけました。まさかいまどき、現代都市に変貌した台北市内の、それも目抜き通りを一本だけ入ったところで目にしようとは思いもしませんでした。

台北市内には今でもたくさんの廟があります。ほぼ一街区に一つはあるのではないでしょうか。そしてこれらの廟が土地開発の際に動かせない、移動させられない、未来永劫土地の守り神であり続ける、かのようです。仕事柄、土地開発の計画地内、もしくは隣接して廟がありますと、そこをうまく避けながら、うまく取り入れながら計画しなければなりませんでしたね。

Sunday, February 21, 2010

[台北] 管理人・楊さんからの贈り物

私が住んでいるマンションの管理人は楊さんといいます。一階の、小さな小さな管理室が彼の仕事場です。新聞社の印刷部門を退職後、しばらくしてここを仕事場に選んだそうです。楊さんの仕事場からは、マンションの出入り口が見渡せ、そして脇にエレベーターがあり、住民の動向や出入りする人間を見続けてきたことになります。

十年もそこに陣取っていればちょっとした小説が書けるぐらいになっているわけです。話好きな我が隣人が楊さんの取材を重ねては私に話してくれます。ここで語るにはちょっとその方々の深い深いプライバシーに立ち入ることになりますんで、一つだけ。

ある階のある部屋のあるオバサンはご老人相手に媚薬を授けているとか。ある階のある部屋のあるオバサンは久しくご無沙汰だったんで楊さんに頼み込んだそーで、でも丁重にお断りしたとか。ある階のある部屋のあるおねーさん、彼氏が大陸に出かけたまま戻らない、で彼氏の衣服など一切合財をゴミ置き場にほおり投げて引っ越していったとか。一つだけではなかったですね。

そう、ゴミ置き場の管理と始末も楊さんの仕事の一つなんです。ゴミを分別する、分別してゴミ収集車まで持っていく。ゴミの分別をしていると、信じられないようなゴミがでてくる。これがゴミかという類ですね。先ほどの彼氏の衣服もそうです。彼女にとって、大陸で新しい情人をつくっていること疑いなしと、頭の中も心の中も彼氏はゴミ屑でしかなくなっていたんでしょうね。

他にもまだまだ使える小物、陶器磁器、家具。そのなかから、私が灰皿代わりにいただいたのが魚を模した小皿。釉薬が一部かかっていないハネモノですが、形といい、色合いといい、申し分ありません。楊さんからの最高の贈り物でした。人間もそうですが、モノってそれを手にする人により活き死にするもんですね。

Sunday, February 14, 2010

[中国北部] 一枚の写真

一枚の写真があります。二年ほど前、廈門滞在時に中国のブログを覗いていた時に見つけたものです。「ただただ涙 - 貧乏人の子供たちの真の生活 - 感じずして人でなし」とタイトルが付いていました。二十枚ほどの組み写真で、コメントは一切入っておらず、引用なのか本人が撮影した写真なのかもわかりません。

中国北部と思われる寒村、冬が背景、村の数少ない樹木には葉一枚足りもなし、家屋は日干しレンガを積み上げただけ、そんな村の学校に通う生徒たちの点描写真。どの子どもたちもほっぺは真っ赤、手はあかぎれ、鼻水も。意識的なのかわかりませんが、涙を流している子供を撮影したものが多くありました。テーマを強調したかったのかもしれません。そんな中、ここにあげた少女の写真が深く記憶に残りました。

賞状、粗末ながら乱れのない服装、髪はほこりでまみれているようにも見えます。彼女はしっかりと立ち、賞状の両端を広げ、それを軒先に座っている父親に見せています。少女の顔からはなにも読み取ることはできません。しかし凛とした感が伝わってきます。私には彼女がとても美しく見えました。愛おしくも感じました。私は貧困を強調することは好きではありません。この一枚の写真が証明してくれていると思いました。

今日は農歴の正月、この村の子供たち、そして写真の少女はどう過ごそうとしているのかとても知りたくなっています。

[掲載先:齐鲁小农的图库  http://tomcatjerrymouse.blog.163.com/blog/static/45104320072133616404/ ]

Friday, February 12, 2010

[台北] 「紅」色

スカイプの友たちの姿が画面から消えた。

いよいよ漢人たち最大のイベントが始まります。農歴の旧正月が目前なのです。大陸では仕事場からスカイプしていた連中もきっと皆里帰りを始めたのでしょう、彼らがグレー表示に変ったままです。しかし街中はきっと「紅」いろ一色でしょう。「紅」色なくしてこのイベントは成り立ちません。この紅色、国が定めた色でもあるんです。おおきくは「大紅」、国家レベルで使用している色、そして「小紅」、一般的に使われている紅色。中国のサイトなどで注意して見てみると分かるはずです。

それだけ重要な色だけに、中国語のなかで使われるといろいろな意味合いを帯びてきます。たとえば......

紅 [hóng] 
 1. red    色まさに紅
 2. popular    大衆的
 3. bonus    紅包
 4. successful    成功
 等々

2の "popular" は由来がわからないのですが、どこか社会主義国的に翻訳されている気もします。
3の "bonus" 紅包 [hóngbāo] はお年玉、謝礼などの意味。紅色の封筒に入れて手渡すことからきています。
4の ”successful” 成功、成功者などを表現するときによく使います。

「你 ( nǐ ) 紅的!」と言われれば「おまえやったな!」って感じで羨ましがられるでしょう。「最紅的小姐」なら「最も売れっ子の女子」。写真の女子ならば「中国最紅的人体模特」・「いま中国で最も人気のある人体モデル」となります。

しかしこの写真、モデルもさることながら赤が実に美しい。