Monday, June 30, 2008

[廈門] 事故の行方

目の前で人身事故が起きた。

週末土曜の午後、遅い昼食をとりに湖畔の珈琲店に出かけた。隣はカレー店、台湾人が開いた日本風のカレーが評判の店。珈琲店はその系列店。カレー店の店内は窮屈で一人で訪れるには落ち付かない。珈琲店のカレーメニューは隣からケータリングされる。デッキテラスもよしゆったりした店内もよしでテラス日和だった。その日は風と日差しは強いものの、湿度が低く、いつもなら歩くだけで汗が噴き出すのに、今日はそれがない。気分がいい。

カツカレーと、なんとも日本的な注文を口にし、食後にアールグレーティー、かなり奮発した昼食となった。このあたりは高級住宅地、デッキテラス前の歩道を行き来する連中も見かけは十分セレブである。女性はサングラスと着飾った衣装、そして惜しげもなく長い脚をあらわに。男性といえば、世界じゅうの高級車のキーを指先でくるくる回しながら目当ての店に。そんな姿を眺めながらの昼食だった。

湿度が低いのだ。デッキテラスに落ちる影も濃い。お茶を終え、何をするでもなく、周りの風景に目をやっていた。一台の黒塗りのアウディが止まり、運転席のドアが開くと同時にガシャ!という音。カブタイプのバイクが道の中央で横転した。何かを配送途中だったらしい、段ボール箱が運転していた若者とともに横たわっていた。アウディのオーナーは、半開きのドアの中、運転席で携帯片手にメールを打っている。バイクの若者がどうなったのか、彼はまだ見ていない。

若者は体をくねらせている。カレー店の従業員や道行く人が駆けつけ彼を立ち上がらせようとしている。アウディのオーナーが運転席から出て若者の片腕を引き上げるも、途中で道端に移動した。若者は動けないわけではなさそうだ。道の中央で、バイク脇に腰をおろし携帯で誰かに連絡を入れている。アウディのオーナーも同様誰かに連絡を入れている。

若者の怪我の具合はアタシの席からは分からない。時間が過ぎていく。救急車を呼んだ気配はない。警察はどうだ。現場はそのままで時間が過ぎていく。若者はカレー店の道端のデッキチェアに腰をおろしている。アウディからは小さな子供を抱えたご婦人が車の外に出た。若者のボスらしい人間があわただしく駆け付けた。若者に事情を聞いてアウディを指さしながら何か大声を出している。

風景は動かない。アウディのオーナーがカレー店の中に入っていった。かなりの時間が過ぎ、そして車の脇に戻っていった。何をしに入ったのかはわからない。

ようやく公安の車とバイクがやってきて加害者と被害者の話を聞いている。救急車は来ない。アウディの脇で公安がオーナーに事情を聴いている。しばらくすると公安の車が去っていく姿が見えた。バイクの若者もアウディのオーナーの姿も消えていた。取り残されたご婦人が抱える小さな子供の鳴き声が聞こえる。

アウディの鼻先に白塗りのBMWスポーツクーペが止まった。男が降りてきてアウディのダッシュボードを開いて何かを探している。探し当てたのか、その小さなものを手に携帯をかけている。誰かに何かを伝えているようだ。そのBMWも消えた。

アタシはそっと携帯で現場写真を撮った。西からやってきていた黒く厚い雲が通り過ぎ、急に蒸し暑くなった。汗が噴き出し、気分が悪くなった。そして席を立った。事故の行方がどうなったかは知らない。

事故現場の様子をできるだけ客観的に書いたつもりである。しかしアタシはこのひと幕の出来事、動かず開かず眺めていた。なんということだ。携帯に目をやりながら、バックミラーに目もやらず運転席のドアを開け、後ろから近づいていたバイクを横転させる。横たわる若者に目もやらず運転席でメールを打ち続け、若者の身を案じることなく、周りの人間が手助けに駆け付けるとおざなりに、それも強引に片手をひっぱりあげる。友人と思われるBMWの男が駆けつけ、彼は知り合いの公安あたりに事故の状況を話していたのだろう、簡単に想像できる事故の行方、その結末。アタシは動けなかった。ここでアタシは一介の外国人にすぎないのだ。

[ MEMO: やけに静寂っぽい写真のような気がする。 ]

Thursday, June 26, 2008

[廈門] 小心 ( ご用心 )

体は徐々に回復に向かっているようだ。それでも何かからだが重い。なおかつ痛みに耐えたため、体中が緊張のしまくり、おかげで筋肉痛である。あの痛みは耐えがたい。いまではローマの姐姉の忠告に従い、水を飲みまくっている。水っぱらでは食欲も減退する。小心 ( xiao3xin1 )小心(用心用心)。

日本の気心の知れたもの書きさんからもメールをいただいた。「・・・burikinekoだってやっぱり疲れているとおもうよ。もう、気心の知れた奴と、一緒に老後を真剣に考えようよ。ほんとだよ。・・・」。ほんとだよ、の一言は胸にこたえた。あたしはなぜアモイなぞという異国にい続けているのだ。日本には彼のように気心の知れた奴らがいるではないか。深謀術策だらけのここアモイとは大違いだ。身も心も潰されてしまう前に母国へ戻るべきなのだろうか。小心小心(気をつけよう)。

気をつけなければならないのは身体だけでない。勝手気ままに書きなぐっているアタシのblogの文章だってそうだ。仲間うちが覗いているだけだよ、なんてタカをくくっていたところ、恥を掻くような羽目になった。

ある日、ある文章にコメントが入った。アタシ記事の内容についてご相談したいという。何事かと用心しながらメルアドを伝えたところ、アタシのある記事を紹介したいという。紹介する場は、日本で中国情報を流しているレコードチャイナという中国専門通信社で、ヤフーやミクシィなどでもニュース配信をしているという。おっとっと、あの記事にはアタシがいい加減もいい加減の限り翻訳したものが載っている。あわてて、その部分を翻訳しなおしてほしいと伝えると、一瞬のうちに教科書のような文章が帰ってきた。中国語の手ダレだった。

それだけではない。もう一度文章を読み直し、不備はないかと、あることはあるがそれはそれ、で、翻訳部分の文章の作者を再確認したところ、アタシは書名のない一文、と記したのが実は匿名ではなかった。違った違った実は「粥潤」發(発信)でしたと。一瞬に返事が。「・・・粥潤發(面白いHNですね)・・・」。ここまで読んで(面白いHNですね)の面白いが読める人は中国語の達人でかつ中国語圏エンタメの達人である。アタシは「面白い」の意味を理解できなかった。

彼女が解説してくれた。「・・・「粥潤發」はおそらく「周潤發(香港俳優のチョウ・ユンファ)」と発音が同じなので言葉遊びとしてそういうHNにしたのではないかと思います・・・」。彼女は中国語もエンタメも達人だった。できる人間はどこにでもいるものだ。気を引き締めて、小心小心。

この記事、「忘却」というタイトルで中国のアーティスト、田太権氏の作品を紹介したもの。先週末、レコードチャイナヤフーのなかで取り上げられた。

しかし彼女がなぜ無名のあたしの文章を引っ張ってきたのか、そのとき気になり、日本版Googleから「田太権」で検索をかけてみた。なんとアタシのblogともうひとつしか引っかからなかった。レコードチャイナが「週末美術館」の企画で、彼を紹介しようとし確認してアタシに行き当たったと勝手に推測していた。今日、再度Googleしてみると、オーあるわあるわたくさんあるわ、さすがレコードチャイナ、読者たくさんでした。

[ MEMO: レコードチャイナでは田太権氏の写真を有料で配布していた。アタシは中国のサイトからささやかに引用させていただく。 ]

Wednesday, June 25, 2008

[廈門] 返信

「burikinekoさん!信じられませーん!」で始まる返信が届いた。ローマの姐姐からだ。アタシが送った尿道結石始終を受け取ってのこと。ローマの姐姐、大学の後輩である。ナポリだナポリだとはるか昔に出かけて行ったと思ったら、いつの間にか現地で同じ日本人を見つけてさっさと同居を始めていた。一時日本に戻ったものの、あの野放図なイタリアの空気が忘れられなかったのか、今年初めだったか亭主と二人出かけて行った。

彼女の手紙には何とあたしとほぼ同時期、亭主が尿道結石で大騒動して家に戻り、ローマの開業医をウェブ検索していたらアタシのメールが届いていたという。「burikinekoさん!信じられませーん!」の一文はまさにそのことを指していたのだ。ただ、彼の場合は再発、三度目だそうで、扱いも慣れたようす、ご丁寧に、アタシに処方箋をつくってくれた。参考までにその一部をご紹介させていただく。きっと役立つに違いない。

「・・・burikinekoさん、今回初めて?ひとりで、しかも外国でアレはつらいっすーよしよし、よくがんばりましたー気の毒でしたー。でもね、アレはトシのせいなんかじゃないですよ、単に生活習慣病ね。で、アレじゃ死にません、絶対。で、アレは必ず再発します、で、予防もできます、よく聞いて。

男の石は(女のとはちがうらしい)八割シュウ酸カルシウム。体内が
1脱水する
2シュウ酸が増える
3カルシウムが減る
これが危険因子なので、これをさければいいの。

1は水を飲む。お茶やコーヒーはシュウ酸を多く含むので不適切。アルコールは肝臓で分解されるとき水を使うのでむしろ脱水を促す。緊急に脱水を改善するとき、ポカリスエットなんかのイオン飲料がいいんだけど、無ければスプライトなんかの清涼飲料水を三倍くらいに水で薄めるといい(インド旅行の知恵なの、脱水はマジ危険、喪中ハガキが必要になっちゃう)。
2青菜やナッツは一度ゆでこぼす。シュウ酸は熱湯にすぐ溶け出すから。ピーナツは中国風茹でたやつね!シュウ酸を減らすのにはクエン酸(柑橘系)がいいらしい。
3日本男子はなぜか牛乳キライ、ですね?んもーどいつもこいつも。水にカルシウムが含まれない東洋じゃあせめて減らさないようにする。それには動物性タンパク、脂肪、砂糖、塩を控える。チーズは塩分高いからたくさん食べるのはよくない。炭水化物はパンや麺じゃなく、米とかつぶつぶ系がいいらしい。

一番大切なのは「石は夜つくられる」ことを忘れない。夜遅い時間に大量パスタ&重いお肉料理をワイン開けつつたっぷり食べて、デザートはチーズとチョコレート菓子で大満足、しめくくりはコーヒー、でぱったり寝る‥コレ、最悪ね。そうなのーイタリアンライフそのものざます・・・」

「・・・コレ、発作はハデだけど、命に別状は無い、でも繰り返すと腎臓の機能がすこーしずつ落ちるので、ほっとくのはいかんです。予防といっても、特別なことをしなければならないわけではなく、一日の食事のメインをできるだけお昼にして、夜軽めに、量さえ控えめにすれば何を食べてもいいんですよ。後は適度に運動しろとか(大量に汗かくのは逆効果)タバコはいかんとかありますけど、まあフツーでしょ?中国ではそういうの、こちらよりずっと実現可能では?石は一日にしてならずなんで、定期検診で見つけられるそうです。

万一、次の発作のために、鎮痛剤は常備するといいかも。発作が起ると身体中が緊張しますね?そうすると石はますます出にくくなる。ので、鎮痛剤で痛みをやわらげ、身体を緩めないと、出るもんも出ないの。アスピリンも馬鹿にできませんぜ。

以上、がんばれ~」

そして最後に「ps:でもねーほんとはねー「石アタマだからお腹にも石ができる」って思っちょります。」と因果関係を説いておりました。いやいや姐姐ありがとうございました。

[ MEMO: アタシは酒煙草猫である。おーだからどうなんだ!生活習慣病?おーそれがどうなんだ!とはもう言ってられない、あの痛みは。アー切ないのであります。 ]

Tuesday, June 24, 2008

[廈門] 友への手紙

悲しいかな、年のせいでありましょうか。こちらに来てすぐにサービスアパートメントからホテル形式のかわいいかわいい部屋を借りたのまではよかったものの、ある真夜中に腰の後ろに激しい鈍痛。長い時間何度も何度も繰り返す痛みを受けて、あーこのまま異国の地に骨をうずめるのか、多くの知人にはどう連絡を入れたらいいのか、悶絶する中で考えあぐねていたのであります。

「たびにやんで ゆめはかれのを かけめぐる」

早朝、ホテルの知人の医者に電話、すぐに来いというので出かけたところ、その日はあいにくレントゲン技師は休みで詳細は検証できなかったものの、さすが医者、原因は尿道結石であろう、私の腰をさすりながら答えてくれたのであります。病名が判明したことで気分は楽に、あとは寝て待てばいいだけ、喪中はがきはもっと遠い先だろう、なぞ軽口を叩いておりました。とんでもないことで、判断が甘かった。その後も再三激しい鈍痛が襲ってきたのであります。

再度医者に電話、知り合いの病院の医師(専門医)を紹介してくれないだろうかという依頼も、その医師、台湾に戻ったばかりで、二週間はやってこないというのです。市販薬で何かいい薬はないかと教わるも、中国名は分からない。あー、こういうとき親身になってくれるのはぶっきらぼうの姐姐だけでありました。週末日曜日、市内にある人民解放軍系の病院へと姐姐にひかれて出かけてまいりました。

しかしなんですねー、やってくるものはやってくるのでありますね。泣く子と年には勝てないのであります。ではでは・・・おからだをご自愛ください。


・投薬を受けたその晩、長ーい長ーい鈍痛がやってきた。いい加減な医者だと罵り言葉を吐きながら、どのくらい時間がたったのかもわからず、ひたすら耐えていた後に眠りについていた。翌朝、どうやらアタシの中の石は溶けたのか、流れ出したのか、今は痛みは和らぎ、その時間も短い。元に戻ったのか。

・新しい部屋はマンションの31階にある。眺めは素晴らしい。南に人造湖、東に市政府の建物と高層マンションが続く街並み、北は小高い緑いっぱいの丘。問題はいたるところ室内を改装中、マンション中工事の音が鳴り響いており、かつ床や壁をやたらいじくりまわすおかげで、埃が外から廊下から天井から舞いこんでくる。

・こちらではすでに先代のiPhone、SIMのロックをはずされたものが出回っている。今回、3Gの販売前にもかかわれず、すでに何人かの方々が入手していた。見かけは最高使い勝手は最低、しかし夜総会の女性が手にする姿は様になっていた。彼女たちは時尚(時流)が勝負だ。手にした友人の医者、米国人は何を考えているのだと不満たらたら。きっと台湾にいる娘に頼まれたのだろう、自分はすぐに元のソニエリに。

[ MEMO: 眺めは最高、夜景も最高。もともと50坪を超える部屋を5つに分けて貸し出したもの。一部屋はまだ無人、一部屋はアタシが、残り三部屋にはうら若き女性が住まわれている。 ]

Tuesday, June 3, 2008

[廈門] 農村に住もう……

農村に住もう、農村には何があるだろう。千葉の片田舎と同じだろうか。堆肥を作り、寝かし、翌年に野菜を植え、農薬を抑え、おかげで虫退治に追われ、鍬で土を鋤き、なれぬ腰つきの外国人を見て村のばっちゃんが教えに来てくれるに違いない。しかしばっちゃん、標準語は話せないかもしれない。おかげでアタシはミン南語を覚えるかもしれない。まだまだやってみたいことはたくさんある。

ここ福建省は農作物に恵まれているようだ。北側一帯を山に囲まれ、温暖で、いや亜熱帯なのでいささか蒸し暑いが、適当な雨量が恵みをもたらしている。夕方になると、路上には数多くの農民がその日収穫した野菜や、近くの海、養殖場から上がった新鮮な魚介類を売りに出す。洒落たスーパーの、洒落た包装の野菜よりはるかに味がある。

ある出来事。スーパーでパックに入った卵を買った。冷蔵庫に入れ、朝にサンドィッチ用に目玉焼きにし、インラメの具に、と使っていた。ある日の朝、フライパンの上で殻を割ったものの黄味も白味も落ちてこない。不審に思い殻の中をのぞいてみると、雛になりかけのニワトリさんがへばりついていた。おー、ここの卵は有精卵だった!ベトナム人が好む半熟鶉をおやつに食すという習慣はアタシにはない。あわててごみ箱に運んでしまった。パックに記載されている出荷日を見てみると、なんと三週間前ではないか、自己責任とはいえ簡単に信用してはいけないと教えられた。

同じことは野菜にもいえる。実に新鮮そうで、口にしてみると香りがあり味があり美味い。ではと保冷庫に投げ込んで置くも、三日は持たない。ここの野菜は、日本のように集積地の保冷庫で窒素ガスだったかで余命を与えられているわけではない、容易に萎れてしまう。いろいろなところで、昔の、子供時代に母親から躾けられたことを思い出した。そう、冷蔵庫なぞがなかった時代を。

こちらの友人、ガッコの先生は顔が広い。アタシのわがままな要求によく答えてくれる。今回だってそうだ。昔のままの民家が寄り集まっている集落の一軒家に住みたいという希望を、ではあの人、それならこの人と声をかけてくれている。次回、アタシはアモイから北に車で約一時間(かどうかは行ってみなければわからないが……)、山際の農村を訪れることにした。グーグル・マップで地形を確認し、近くに小さなダム(水庫)のあるのも確認した。釣りができるというのは本当らしい。

賃料は200元から5、600元と人によって値が違うのが楽しい。庭つき一件農家が月日本円で約三百円から千円なのだ。地元でお手伝いさんを雇い暮らしても、月千元から二千元、一万五千円から三万円で暮らすことができる。まさに桃源郷のようだ。心配性のガッコの先生、危ないぞ危険だ泥棒に入られる、とうるさい。そうなればそうなったでと構えるつもりだ。しかし外部から人の出入りのない農村、恐らくそんな事態にはならないだろう。ガッコの先生、農民の心理をご理解できない都会人なのだ。

アタシにはそこで別の狙いも持っている。農家をエコハウスに改造してしまおうという狙いだ。生ゴミも汚物も土地から外に出さない、使い切る。エネルギーは太陽光や太陽熱を使おう……。

[ MEMO: この小屋は今年の二月、旧正月に姐姐の実家に同行したとき撮影したもの。写真で見る限り実に風情がある。問題は川面に浮かぶごみの数々、川べりのごみの山、あーそれさえなければ何と美しい村だというのに。 ]

Monday, June 2, 2008

[廈門] あれこれ書き留めておこう

・明日の朝食をと、マンション足もとの小売店 ( xiao3mai4dian4 ) でパンを買った。小さな小さな店の小さなカウンターのパン、いつもならさっと薄い薄いビニール袋にほおり投げてくれるのが、それがない。突っ立って見ていると、お嬢さん、「今日は袋を使わない日よ」。そうだった、資源節約、石油製品の使用を減らそう、ごみを減らそうが六月から始まったのだ。

・昨夜、公園通りの画廊に出かけた。二階の小さなホールにバンドが入った。ボーカルは恰幅のいい金髪のオバサン、リードが長髪黒ずくめの痩せ痩せオニーサン。太鼓にベースと四人の毛唐のカントリー&ジャズを聴いてきた。客は画廊の主飛んでるおばさんの仲間たち。らしく、みなスタイニーボトルのビールを口に運んでいる。

ニューヨークからやってきた日本人のオネーサンを紹介してくれたが、なぜか日本人、海外でお会いすると愛想がない。北京から先ほど戻ったという方、すでに酩酊状態か、耳が遠いのか、会話は運ばなかった。どこか米国の地方都市のしょぼいバーって感じでした(映画でしか知りませんが)。アタシはこのところ酒を飲むと調子を崩すので、藤の葉か何か、飛んでるおばさんもわからないお茶を口にした。これはうまかった。しかし四十元は高かかったな。

・一昨日の日曜日、夕飯はどこで食おうかと、結局馴染みのカレーライスをだす珈琲店に出かけた。そこには知り合いの台湾人が、仲間たちとさあ飯に出かけるぞ状態でいた。仲間達、こちらのテレビ局の連中。知り合いの友人、アタシに、日本人がいじめられるドラマに出演しないかと冗談を飛ばしてきた。誘いを受けて同行、東北料理を口にする。仲間たちの一人は残留孤児の子供、日本にやってきて名古屋で働いていた。そこの溶接工場で働いていたことがあり、アタシが名古屋人はケチで評判ですよというと、社長は実に大きな人間だったと語ってくれた。彼には名古屋で生まれた弟がいる。しかし日本のパスポートは取得していないという。

・見知らぬ愛国者その後。彼女から何度かコンタクトを受けた。一度はスカイプで。無視。ワンギリが一度。携帯に「私誰だと思う」と返事を誘う文面のショートメール。携帯の番号から居所を探るとアモイとでた。おそらく愛国者だろう。しかし無視。番号を解らせてきたことから、個人的にアタシに興味があるのかもしれない。目的は何なんだ。不可解だ。

・こちらのあるブログに出所不明の四川大地震災害状況地図がのっかっていた。日本語である。日本からの情報だとブログに記されている。被害地一帯の災害状況が分かりやすく描かれている。死者の数、建物倒壊数、ダムの位置とその被害状況、さらに原子力関連施設の位置と施設の内容が合わせ記されていた。問題なのは詳細な原子力施設情報だ。コメントの大部分は日本からだというので、地図と関係ない文章が続くが、なかには、日本の情報部の能力の高さを知ったとか、元ネタは米国からだとか、初めて知りましたとか、そうそう私が以前住んでいた時に確かそれらしかったなど注意を促すものもあった。

ちょっと気になったのは、これ日本語?という箇所。「アンモニア漏洩処理了…」、普通なら「漏洩処理完了」または「終了」とするのに「完」や「終」がない。中国語では「了」は「終える」の意味。十分通じる。そんな記述が数か所あった。日本の友人にこの地図の出所知っている?とメールするも、日本で見たことありの返事はまだ来ていない。

[ MEMO: 「1975年~1989年生まれの人に捧げる」という投稿を目にした。この数字が何を意味するのかわからないが、開放政策期に生まれ、素朴でありながら溢れる情報とともに成長した子供時代の記憶であり記録ということらしい。もといた会社の二三十代の連中はみなドラえもんも一休さんの話も知っていた。ん?ということはみなの家にはすでにテレビがあったのだ。 ]

Sunday, June 1, 2008

[廈門] 画廊にライブを聴きに行こう

公園通りをアートビレッジに、そんなことを考えているおばさんにお会いした。日本に留学し、米国人と結婚し、母国で何ができるか、数年前そう考えてアモイにやってきた。公園通りに居を構え、マンションの窓から見える古ぼけた西洋館がとても魅力的に見えた。

西洋館は銀行の支店、彼女夢見るように毎日その建物を眺めていた。ある日張り紙を目にする。「レント、連絡は○○○まで」。ここで何かをするあてがあるわけでもなく電話を入れる。何度も何度も大家と交渉を重ねるも、到底手が出ない。結局そこは出版会社が借り受け、内装に手を入れ、ちょっと凝りすぎかとも思われたが西洋館の雰囲気は継承していた。

数年の歳月が過ぎ、またしても張り紙を目にする。彼女、今度こそはと、そしてついに借り受けに成功する。何に使うかは考えていなかった。頭にあるのは国際交流の場、それだけだ。そして始めたのは現代芸術家の紹介の場、画廊にしようというのは単に周りにアーティストがいたから。そして二年、経営的に成り立っているわけではないが、何とか持ちこたえている。彼女の夢は公園通りをアートビレッジにすること、協力できればいいのだが……。

アタシがこの画廊を知ったのは偶然だった。アタシはアーティストの畏友シンさんをなんとかアモイに引きづり込もうと画策、彼の作品の発表の場を探していた。我々二人の共通のアモイの友人、ガッコの先生が最初に用意してくれたのは開館したばかりの巨大な博物館の一角。シンさん、到底受け入れられるものではない。口には出さなかったが、丁重にお断りしたようだ。

ある日、ガッコの先生と、もしここアモイで事務所を構えるとしたら、というテーマで部屋見を始めた。先生、公園通りの、緑が多く、坂があり、古くからの建物が残る一角の老人ホームに案内してくれた。手を加えれば相当いけそうだった。しかし、大きすぎだ。賃料は嘘のように安いものの、事務所が急成長しなければいつまでたってもがらんどう。とぼとぼと帰路につこうとすると、先生、すぐ近くに画廊のあったことを思い出した。そう、飛んでるおばさんが経営する画廊だったのだ。

毎週日曜日の夜、画廊の二階で小さな小さな音楽会が開かれる。そして今晩、どんな人のどんな曲目なのかもわからないまま、おばさんに会いたくて出かけることにした。絵に囲まれ、ビールを片手に聴く音も悪くないだろう。一寸は文化の匂いを嗅ぐことがでそうだ。

[ MEMO: 二階は小さなステージとバックにカウンターのあるミニホール。入場は無料だが、飲み物をオーダーすることになる。二枚目の写真、左でキャンバスを片しているのが飛んでるおばさん。展示場は一階のホール、そして二階三階の小部屋も使える。 ]