Wednesday, December 31, 2008

[台北] 行く年


・不思議な年だった。待ったり攻めにはいったりした。あちこち動き回った。信用できる人間とできない人間がはっきりした。手元のお金が日ごとに薄くなった。「無業遊民」と呼ばれた。身体じゅうが悪さした。そして歳を感じた。

・一昨年末に厦門の会社を離れ、次の仕事予定があれこれあったものの、すでに金融危機の兆候が出ていたようで、すべて延期延期と相成った。どれに的を絞ったらいいかの判断もつけにくく、ひたすら待ってみたり、企画書の内容に加筆したりとどっと暇だったりどっと忙しかったりを繰り返した。

・仕事の話で上海、台北、日本と移動した。引越しを何度か繰り返した。だんだんと家賃の安い場所になった。台北に来る前に住んだ厦門のワンルーム・マンションは、アタシが住んだ生涯最低の部屋だった。その価値を証明するように住人たちの生態が覗けて実に興味深かった。

・中国社会で信頼できる人間を見つけ出すことの難しさを知った。ここで上に立つには金と地位と名声がなければできない。そのためなら誰だろうが蹴落としていく。利用できるならなんでも利用する。金がなくなれば距離を置かれる、地位を失えばただの知人。恐ろしいが権謀術策を愛する人間には堪えられない世界だ。

・仕事の予定はすべてディレイ・ディレイで銀行の口座は日ごとに残高を減らした。それでもライフスタイルを変えることはなかった。厦門の生活費は驚くほど安価だったのだ。珈琲を啜る金額でその日の三食が賄えるのだから。生涯お手伝いさんのいる生活なぞ縁無しかと思っていたものの、それも体験できた。

・厦門での最後の三ヶ月、台北での仕事は決まったものの動き出さない。待つこと三ヶ月、資料づくりで日ごと珈琲店に出向いた。店の女の子が「仕事はなにしてるの?」と聞く。定年退職と適当に答えると「無業遊民 ( wu2 ye4 you2 min2 ) ね」といわれた。アタシは勝手に翻訳した。「無職渡世人」。うん、満足のいく答えだ。

・六月、日本から厦門に戻った途端、体調を崩した。新陳代謝不良から来る尿道結石で真夜中の死に至る痛みに見舞われた。水腫で足がむくみ腹回りが突き出し顔が腫れ体重が3キロ増えた。そしてどっと歳をとった。

大晦日の台北は雨、夜中九時の気温は13度。薄ら寒い。日本のような正月気分はない。それほどここ台湾の景気は落ち込んでしまったらしい。

[ today's photos ] 数時間早いが、2009年の到来で、中国圏のGoogle検索サイトはこのように。

Wednesday, December 24, 2008

[台北] 携帯・中国語・入力


・アタシが連れ歩いている携帯はみんなノキア製。PCにアドレスとかメールとかSMSを簡単に保存できるから。携帯本体を変えても、アタシはまだないが、携帯を紛失した際にもPCからデーターをコピーするだけだ。長年使い回して重宝している。

もうひとつの重宝は日中英マルチリンガル携帯として使えること。アタシの動き回っている中国、香港、台湾での必需品。商機は日本にもありと、最近の中国語携帯にはひらがなカタカナ日本漢字が含まれているから、文字化けせずに日本語携帯から中国語携帯にそのまま送って読むこともできる。ほんの数年前を思うと隔世の感がある。

ただ日本のキャリアが出している携帯は中国語を読み取ることができないし、入力もできない。一部可能な携帯を用意し始めたようだがまだまだ一般的ではない。中国で携帯を購入した。ではコイツで日本語を使うにはどうしたらいいか。NOKIAのS60シリーズなら+J for S60というソフトが管理工学研究所から出ている。入力方法は日本の携帯とほぼ同じ、そこそこ使えている。

英語版の携帯なんだけどという際はどうする。まずは英語版に中国語のパッチを当ててくれるお店は結構ある。まずは中国語を使えるようにしてから、そこに+J for S60を入れればハイこれで日中英のマルチリンガル携帯となる。WindowsMobileの最新版は簡単にマルチリンガル化できる(CEStar)も、触ったことはない。日本で使えないので諦めたPalmMobileには中日韓使えるCJKosというソフトが用意されているものの、英語を含めて四ヶ国語を一緒には使えなかったような気がする。

今のアタシの携帯は中国本土で購入したNOKIA N95。簡体字での表示と入力、ここ台北の友人から送られてくるメールは繁体字。両者並んで表示されている。オッと忘れていた、iPhone中国語版で日本語表示は初期設定で可能なのだ。

・静かな聖夜であります。小生は風邪を引き、切れ目ない鼻水に、一日でティシュボックス一箱あけてしまいました。厦門の元秘書から電話でクリスマスのメッセージをいただき、しっかり次に厦門にやってきたときにはあれとこれとが欲しいなぞほざいておりました。

[ today's photos ] Nokia N95、昨年の十月購入だからもう一年間使ったことになる。なれ親しんだインターフェースを替える気もしない。3Gが使えると思いきや、そこはそれ中国、中国が現在ネット整備中の3Gでしか使えない。厦門でも、当然ここ台北でも宝の持ち腐れ、というか役立たずを抱え込んだのだ。

[today's Buddha Bar] Band Aid - "Do They Know It's Christmas" Original Band Aid(1984)

今日は聖誕日、今年は世界中が暗黒のクリスマスを迎えているのか。1984年、われわれは豊かそうにみえた。二十四年前、アフリカの飢餓報道を目にした一人のポップシンガーが起こした運動、"Band Aid"があった。The original 1984 Feed The World logo was based on a pencil sketch by Bob Geldof after watching a BBC television news report by Michael Buerk from famine-stricken Ethiopia. (wikipedia).......その後 "USA for Africa" と、国名を挙げて取り組んだ米国のグループとは大違い、実に新鮮だった。

[追記] クリップに出てくるボーイ・ジョージ(Boy George・女装して化粧してハリのある声で歌ってた彼)が男性監禁とベットに鎖で拘束の上シバいた件で今月初め有罪になったとニュースで知った。彼も47歳か。最近の写真を見るとデブになってたな。もともと肥満体質に見えたけど。

Sunday, December 21, 2008

[台北] 喫煙


仕事がいまだ正式な契約に至っていないこともあり、日ごろは共同で開発に当たる事務所の会議室に居座って仕事をしている。建物全体が禁煙、耐えられない人間はビル入り口の外にしつらえた灰皿の周りまで降りてくる。同じビルで働く人間が出入りするわけで、一時間おきに現れるアタシの姿を横目で見ていく。一寸気まずい思いがする。来年1月11日からは、公共の場所と三人以上同席の場での喫煙が全面禁止となるという。

このビルの道路を挟んだ向かいの建物には四六時中観光バスが横付けになる。人の出入りが激しいのと、喫煙者の姿が目に付く。何でかと思いきや政府公認の免税店、海外からの観光客が訪れている。日本語が聞こえる、韓国語も聞こえる、そしてあの懐かしい大陸のそれも北方訛りの中国語も聞こえてくる。ここでは日本人も大陸の人間もよくタバコをくわえている。観光客への配慮だろうし、何よりアタシにとっては不特定多数の一員になってタバコが吸える。常場所になった。

好奇心から彼らを観察するのが楽しみになった。ポイ捨ての習慣に慣れきっている大陸の方々、ポイッとしようとして思いとどまり灰皿へ。隣のファミマで紙コップの飲み物を抱え、終えるとくるくる辺りを見回し灰皿一体のゴミ箱へと向かう。きっとこちらに来る前に十分教育されたに違いない。それにしても仕草が不自然な感がして笑えてくる。

ここでは大陸の評判は必ずしもよいとはいえない。選ばれ観光にやってくる彼らを見ても、台湾の三十年ぐらい前を思い出させる身なりだ。それでもアタシには懐かしい思いで彼らに声をかけたくなってしまう。厦門には中国全土から人間がやってきた。何をするにも千差万別、実に興味深かった。ここ台湾は人口二千三百万、大陸の五十分の一以下に過ぎない。アタシのような外国人から見れば、台湾は単一民族に見えてくる。

[ today's photos ] 天気がいいと昼食によく出向くのが四年前しばしば利用したサンドイッチの店"LuLu"。洒落た紙袋にはツナサンドと今日のスープ、占めて105元(日本円約300円)。小脇に抱え、店近くの口袋公園(口袋はポケットの意味)で食事を取る。写真の椅子は日陰を求めてちょくちょく移動するが、椅子の利用者は若い女性、食後一服のタバコをここで過ごしていく。

Wednesday, December 17, 2008

[台北] 作法


気がつかないうちにあたしは大陸の習慣に慣れ染まっていたようだ。礼儀作法を忘れていた。

こちらにきてハッと気がついたこと。台北の人はよく「ありがとう」「失礼」とか「ごめんなさい」とちょっとしたこと、例えばエレベーターの乗り降りの際にエスコートすると「謝謝」と口にする。買い物の支払いの際に店員が「ありがとうございました」と返答する。それが若者たちも妹妹(お嬢さん)たちもだ。彼の地、中国厦門ではなかなか聴けなかった言葉である。

横柄なんですね、彼の地のかたがたは。というよりかそれが文化でありまして、そんな教育受けていませんし、それより他人より一歩先に出し抜かないと生き残れないのでありまして、諭してみたところでちんぷんかんぷん、何いっているのかわからん、で終わってしまう。しかしこれはきっと教育というものなんだと思ったのが、バスに乗った際のこと、白髪頭のアタシを見るや、若者も中年の方もスッと立ち上がり席を譲る。他の都市はわからないが、少なくとも厦門はそうでありました。作法ですから教えを受ければできることです。

かつて彼の地で厦門にやってきた台湾人と雑談をしていた。台湾人、こちらの人たちは礼儀を知らん、礼儀を。失礼この上ないと憤慨していた。そういう時あたしがよく例に出すのは、「こちらで辞書買ったんですよ。“禮貌”(礼儀)って字を探したところ載ってないんですよ」。もちろん冗談であります。ですが本当にわれわれの常識からかけ離れている行動をとったりする。だから彼の地にやってくる芸人たちも、彼の地の何気ない印象を記者会見で話し、それがネットで叩かれたりする。おいおいおいまずは自分のまわり見てからにしてよ、と言いたくなってしまう。

うーん、今の台北の人たちは日本人より丁寧かもしれない。いまだここは日本ブームというより、日本スタイルが生活の一部になりつつあるのか、その分日本のいい部分が活かされているのかもしれない。

[ today's photos ] この長屋の入り口はすごい。道路に面した壁には、左から消火栓、門扉、呼び鈴、郵便箱。壁の上部にはケーブルネットの配線と分岐コネクターが乱雑に走っている。実ににぎやかだ。

Monday, December 15, 2008

[台北] 物価


台北にやってきて最初にしたのが物の値段の比較。普段暮らす際の物価は厦門と比してどうだろうというこt。いがいにも気軽に生活できた厦門に比してそれほど高いという感ではなかった。例えてみると、厦門で愛用していた韓国製タバコが8人民元(90日本円)、ここ台北で”GENTLE 1”という名のタバコが45台湾元(135日本円)。ビールは3人民元(45日本円)が台湾では30元(90日本円)。公共バスが厦門の2人民元(30日本円)にたいして台北が15元(45日本円)。タクシーの初乗り9人民元(90日本円)は80台湾元(240日本円)。ただし日本の物価とは比較しないほうがいい。いやになってくる。

簡単な昼食が10人民元前後(150日本円)は台湾では50から100台湾元(150から300日本円)とそう驚くほどの差はない。逆に珈琲30人民元(450日本円)は台北の炭火珈琲が120台湾元(360日本円)など嗜好品は逆に厦門のほうが値が張った。厦門で日参した"Javaromas"の珈琲は贅沢品だったのだ。

しかし価格とは相対的なものだから、愚痴をいっても始まらない。ようは心得てお金を使うことに早く慣れることだ。かつて、初めて厦門にやってきたころを思い出してみる。物価比較を日本円で勘定していたものの、長逗留するとそれがばかばかしくなり、現地価格に馴染んでいった。そうすると急にお金が溜まったりする。

今では日本で暮らすことが恐ろしく感じる。台湾の友人たちは日本にだけは遊びに出かけられないという。円高で海外旅行は魅力的だが、そうならあたしは早く厦門郊外の農村のガジュマルの木の下でうたた寝をしながらケチケチに過ごしたい。

[ today's photos ] 天気がいいと、昼食は弁当屋とかパン屋のサンドイッチとかを手に、街中のいたるところにある小公園のベンチでとる。ある公園脇にある長屋の入り口の門扉はいかにも台湾という感だった。

Saturday, December 13, 2008

[台北] 裏町


あたしの住まいは表通りから奥に入った裏町辻の長屋の四階にある。部屋の中での喫煙が禁じられているので、しばしばバルコニーに出てタバコの煙をくゆらせながら裏通りを観察する。

向かいの窓からオバサンの話し声が聞こえてくる。手入れの行き届いた黒毛の犬を散歩に連れ出すおじさんの姿が見える。新聞配達のバイク、牛乳を受け箱に手際よく入れ替えるおニーさん、出勤に向かう人たちの急ぎ足の姿が見える。夕刻、ゴミ収集車のチャイムが聞こえてくるとあちこちから当番さんが急ぎ足で指定袋に溜まったゴミを抱えて出てくる。

古い長屋なのだろう、本来禁じられているバルコニーの改造で左右上下各戸まったく違った表情を見せている。町並みは変化に富み、外壁の材料も色とりどり、照明もさまざまだ。狭い街路の両側は車とバイクで占められている。乗用車一台がようやっと通れる幅が残されているのみ。火事なぞおきて消防車がやってきて行き来できるのだろうかと心配してみたりする。長年の生活から工夫された表情がこの裏町をつくっている。

古くからの家族が住み続けてきたようで、年寄りの姿も多い。外からやってくる人間が多い厦門のようなことはないので、若い女性に囲まれて住むわけにはいかなかった。みな静かに暮らしているのだ。

友人たちからのメールには「おかえりなさいまし」とか「帰ってきたようで」など、あたしのふるさとのように記されていた。そうなのかもしれない。違和感なく落着いた生活を始めている。

[ today's photos ] 夕刻の裏町の姿。どこか東京の下町あたりで見かける風景に似ている。

Sunday, December 7, 2008

[台北] "always online" - 愛・在線


寒気団が南下している。台北は快晴で爽やか、だが気温は10度に迫ろうという低さだ。小国の経済は簡単に金融危機という寒気団に飲み込まれる。対日本円対人民元、ここ数ヶ月でどちらも20%強台湾ドル安だ。この地で稼いでも日々目減りするのみという有様。

話しかわって近況を。11月15日、航空荷物の超過料金1200元、約1万8千日本円を支払ってこの地台北にたどり着いた。小さいながら小奇麗で静かな部屋も用意され、その日から何変わりない生活に入ることができた。台北の大兄に感謝。早速ネットをつなげる。ネットに繋がっていないとやってられない症候群は若年層だけでない。ジジイだってこの病にかかる。

台北に移動してから突然に物欲が沸いてきた。ここは彼の地と違ってものの種類が豊富である。電気屋の店先にはNetbookの数々が並んでいる。小さく軽く安くそれでいて四六時中ネットに繋げられる。ネット・ジジには最適ではないか。つい最近後発組の聯想(Lenovo)も販売を開始した。 "always online 愛・在線"。それがLenovo・IdeaPad S10のキャッチフレーズ。

YouKu(優酷 you cool! )にTV広告用ビデオクリップがのっていた。"always online 愛・在線"。若い男女の別れと、それでもネットで繋がっていることで支えられる少女のお話。実は男は自分の死期を知って無理やり分かれるのだが、彼の部屋にはIdeaPadが残されていて彼女と繋がっていた・・・。異国で一人孤独と戦っているとこんな他愛のない話にコロッと参ってしまう、コロッと参って買ってしまいそうだ。

[ today's photos ] 結局こちら台北に移ってまた電気製品を買うことになった。トースター、電気ポッド、マイクロウェーブ。SANYO、Eupa、LG製。さすが彼の地の製品よりどれもしっかりしていた。

Friday, November 14, 2008

[廈門] さよなら再見 - Ⅱ


厦門最後の日は忙しかった。

午前中、姐姐の家で台湾に持ち込む衣服をまとめホテルに運んだ。なじみの美容院の31号、美容師の男に電話をし予約を取る。一寸待たされたが、毎回三ヶ月も間をおいて、と毎度のことながら文句を言われる。短く刈り込むなといったが、毎度のことであっさりした髪型に収まった。

途中、元秘書の元中国語の先生から電話、昼食を一緒にしようと。アタシは今日は忙しいからコッチに来いというと、あの料理が食いたいそっちは美味しいお店がない、といつものように五月蝿い。タクシー代を出すから来いというとひとつ返事でやってきた。食い物ではなく久しぶりだから話をしようと珈琲店に連れて行った。店のリーダーと会うのも彼女は久しぶり、抱き合って挨拶を交わしていた。

元秘書を先に返し、アタシは銀行で最後の換金をした。荷物が多く、チェックインの際に超過料金を払わされる可能性が高いからある程度現金の用意をする。珈琲店で残したスパゲティーを持ち帰りしていたのを見た銀行窓口の女性がうらやましそうにそれを眺めた。まだ昼休みをとっていないようだ。意地悪に包みを手に美味しそうに匂いを嗅ぐしぐさを見せてあげた。彼女ふてた顔をする。

ホテルに戻り、明日どう荷物を運ぼうかあれこれ試し、何とかいけそうだと分かり一休み。どうも熟睡をしたようだ。途中で電話がなる。姉姐が最後の晩餐を一緒しようといってきた。

高級なお店ではないが、地元の味が売りの料理を姐姐一家と食事をとる。そしてアタシは今日二度目の最後の"Javaromas"で最後のエスプレッソを口にした。

さよなら再見、また会う日まで、ある晴れた日に・・・。

[ today's photos ] 部屋を引き払い、酒店式公寓に移った。以前二ヶ月ほど厄介になったホテル。つい先日まで住んでいた部屋と異なり、広くそして何より静かだ。この静けさが欲しかった。バルコニーに出て、厦門最後の夕日を眺めた。

[ today's Buddha Bar ]
厦門最後の選曲は何がいいか考えた。やはりこの地に戻ってくることを考えるとこの曲しか思い浮かばない。"We'll meet again"。ただしVera Lynnのそれではなく、生粋の米国人、バンジョー弾きの老人、Joe Bethancourtがしんみりと奏でる"We'll meet again"。アタシの今の心境そのものだ。

Thursday, November 13, 2008

[廈門] さよなら再見 - Ⅰ


小さな部屋にもたくさんの荷物が結構あるものだ。

台湾への移転で荷物を整理した。PVC製の整理ボックスが二つ。照明器具、ジューサー、絨毯がひとつの箱に、小道具類をもうひとつの箱に。そのほかに衣類がことのほかに多い。スーツケース大小合わせて四つもある。それでも一部分を持ち込んでいたに過ぎない。残り物は厦門の姐姐の伯父さんちで預かってもらっている。荷物の山を見て二年という歳月を感じた。

受け入れ側の台湾の大兄が電話で問う。「荷物はどのくらい?船便で送りますか?」アタシ「いやとりあえず冬物だけを持ち込みます。夏物は三ヵ月後に取りに戻りますので」。台湾はノービザで三ヶ月、九十日の滞在が許される。そのさい再度厦門に戻るつもりで荷物は二つに分けることにした。寝具類、什器備品、好きで集めた食器類は厦門の田園生活を始めるときに役立つだろう。

この地を去ることはほんの少数の人間にだけ話をした。昔の同僚、といっても企業集団の別の企業のふたり、それに姐姐と昔の秘書。ウェルネスセンターの姐姐、意地悪な医者とは顔を合わせて食事を、昔の同僚たちと珈琲を一緒しただけで話をしていない。航空券を購入するためホテルに顔を出した際、昔のボスと会ったが握手のみでサヨナラだ。二年の歳月は多くの人たちと知り合った時間でもあった。最近ではタバコ屋の少女、お粥屋の女将、カレー店の経理、日本料理屋の服務員たち。この期になるとなんとも名残り惜しい。

この数日、やっかいになったお店に顔をだし、消えることは伝えず、いつものように冗談を言い合って別れてきた。いまアタシの仕事場である珈琲店 "Javaromas" でこのblogを書いている。

[ today's photos ] 厦門を離れることをJavaromasの領導に話した。アタシの仕事場のリーダーに黙って消えるわけにいかない。最後に食事をご馳走することにして印度料理店にいってきた。そしてもう一人は、かつてこの店で働いていた仲間。北京に消えて一年、不動産の仲介を手伝いしていたものの、国のご指導でオリンピック期間中に店を閉め、そのまま閉めたままになってしまったので厦門に戻って仕事探しの最中だった。その昔、アタシの秘書と四人、レストランで食事したり、家に来て雑談に花を咲かせた仲である。

[ today's Buddha Bar ]
"Salam La Paz al Final" (最後にサラムに平和を)。Ishtarが活き活きと歌って踊る姿の印象的な一曲を。Ishtarのなかで私の最も好きなライブビデオ。

Buddha Barを取り上げ始めたら、世界中からアタシのblogをヒットするようになった。ブラジル、メキシコ、アルジェ、トルコ、イスラエル、ブルガリア、印度というのがうれしい。

Wednesday, November 12, 2008

[廈門] 榕樹の下でうたた寝を


『金融崩壊の根本原因は「人間の本能」:神経科学者が語る米国批判』なんてタイトルの記事を見ると納得したくなる。経済学者より精神科学者のほうが信用できる気がする。

『・・・特 に米国では、欲しいものを次々と手に入れていく物質的な旅路とでもいうものの果てに幸せはある、と教えられる』とか『われわれは、欲しいものがすぐ手に入ればそれでよいと、あらゆるトリックを用いて自らに思い込ませている』とか『市 場は、自らの将来を抵当に入れる人のようなものと考えればいい。ただし、市場は他人の金でそれをしている』、『結局は、待つよ り今すぐ手に入れるという概念に立脚したねずみ講と同じものになる。そして、これらすべては同じ本能的衝動を起源とする』という話を聞くとうれしくなってくる。

アタシは極貧の生活は望まないが、貧しい生活ながら精神的に余裕のある日々がすごせるならそれでよしと考えている。厦門の生活は魅力的だし、郊外の農村はもっと魅力的で、いずれその地で生涯を終えてもいいと思っている。真夏の昼下がり、農家の庭先、緑の生い茂った榕树 [róng shù ガジュマル ] の下に籐製の長いすにだらしない格好で昼寝をしている老人。時間のたつのもしらずにうたた寝を続ける。夕刻、かわいらしい村の少女がやってきて声をかける。「おジーちゃん、ご飯ができたよー」。一日の終わり。その繰り返しの日々。

この地で二年間の仕事、アタシにとって得るものは多くなかった。成りは大企業、中身は町場の商店街のおっさん並み(差別していっている訳ではない。マネージメントの内容について語っているのだ)。もう残された時間は多くない。実のある仕事をしたい。きっかけを探していた。その結果、この半年がんばってきたことが実現できそうだ。アタシは今週末台湾に向かう。エコ・ビレッジの開発というテーマを実現させるために・・・。

何年かのち、アタシは再び厦門に戻り、農家の庭先の夢を見てみたい。

[ memo ] 村の中を流れる小川ではアヒルが群れをなして動き回っている。川の色は日々の天候で違って見える。夏場には子供たちがこの川に入ってアヒルを追い掛け回していることだろう。(ミン西に土楼を見にいった際に撮影)

[ 今日のBuddha Bar ]
Buddha Bar IVからManuel Franjo歌う "Tiempo"

"Sen Gelmez Oldun"をミキシングしていたDavid Visanプロデュースの甘い甘いスローバラード。

Tuesday, November 11, 2008

[廈門] 酒店式公寓に異議あり


・このところ急に寒くなった。夜中は15度をきることもある。湿気もなく晴天が続く。この地を訪れるには今が一番いい時期か。

・酒店=ホテル、公寓=マンション。酒店式公寓 [jiǔdiàn shì gōng yù ] でサービス・アパートメント。单身公寓 [dān shēn gōng yù] =ワンルーム・マンションとの違いは、单身公寓が最初から用途が明確。ところが酒店式公寓のなかには、普通のマンションを購入したオーナーの手によって内装工事の際に勝手にワンルーム・マンションに変えてしまうものがあるという。正規に申請し、消防設備や避難計画の条件を満たしさえすれば問題ないのだが。
問題はこの手続きをへない改装が多いということ。住人は派出所に住民登録しなければならないので管理しやすい。オーナーと借り手のやり取りで簡単に住むことのできる酒店式公寓は、誰が住んでいるかも分かりにくいから犯罪の温床になる。たいていは消防法を無視しているから火災発生時には危険この上ない。そんなこんなで酒店式公寓が問題になり始めた。

しかし待てよ、あたしが今住んでいる部屋はそれに相当するのではないか。エレベーターホールから常時開いている防火戸はどう見ても火災時に自動的に閉まりそうにないし、廊下はやたら狭いし、改装されれば二方向避難が必要だろうがそれもできないし・・・。

厦門市は意を決した。11月半ばから12月末までに現場に立ち入り検査を行うと公示した。さあ市民の安全のために実行できるのか、それとも安全は金で買われるのだろうか、注目しようではないか。

[ memo ] 厦門大学構内には独立住宅が多く残されている。かつて上級幹部や教育者の宿舎だったという。一寸仕事の手伝いをしたインテリア・デザイン事務所がここに移転した。二階には広いバルコニーがスタジオ続きになっていた。室内は禁煙、あたしはパソコンを抱え、ここに出てじっくりと考え事をした。

[ 今日のBuddha Bar ]
Buddha Bar - "Anima Sound System (68)"

Anima Sound Systeはハンガリーのエレクトロニックバンド。東西のフォーク・ミュージックとモダンエレクトロニックとをフュージョンさせたという。

この曲以外アタシには一寸堪える。

Sunday, November 9, 2008

[廈門] うわさ話


謠言 [yáoyán] =うわさ、hearsay

今年の六月、一時帰国して厦門に戻ってきたときの事。近くのお粥やさんで元同僚の女性にあった。雑談をしていると、彼女、元ボスのことを聞いてきた。あたしゃ知らないから、知らんですよと答えると彼女、「そんなことないでしょ!」。いったい何をそうムキになったのか。

二三日たったある日、厦門の姐姐のところに課長から電話がかかってきたそうだ。アタシが厦門に戻っているそうだけど、何しに戻ったの?ということらしい。そして間を置かずして元同僚から定期的にアタシの存在を確認する電話がかかるようになった。終いには「何なんだ!」と腹立たしく答えると、それから電話はなくなった。それに変わってボスの秘書や仲のよかった元の運転手から意味不明の電話が続いた。

間違いないことは、電話の後ろにボスの姿があること。ボスは何を気にしているのか、先日お会いしたが何かを問われることもなくいまだ意味不明。はっきりしているのは、元同僚の女性と会った後から始まったということ。その同僚が上の人間に何らかの告げ口、もしくは密告をしたこと。その内容が不明なだけに恐ろしい。昔の当地の悪しき伝統がいまだ続いているのか。それとも・・・、次は書けねーなー。

幹部がこの会社を辞めるとその人間の悪評が立つ。元ボスがそうだったし、そのあと辞めたアタシもそうだ。風評は時間とともに話が大きくなっていく。かつてアタシに「女友達いるでしょ」と問うた幹部も、本人の辞職とともに彼に二人の女がいたことになっていた。彼を知るアタシには一寸考えにくい話だ。

辞めていった人間は立つ瀬なく、当地を離れざるを得ない。同僚たちはそんな噂話を半ば信じ、自分に降りかかる火の粉を恐れ、彼との交流を取りやめる。狙いはそんなところにあるのか。幹部にもなれば会社内部のあれこれを知る立場にある。そんな話の伝承を断ち切ろうとしているのだろうか。コワコワw。

組織に縛られたことのない生活をしてきたアタシは馬耳東風、金と時間の余裕があれば裏を探ってみたいものだ。一冊の本が書ける。とても危険だが・・・。

[ memo ] 今年の冬に訪れたミン西の土楼。屋根も壁も床も土地にある自然材料が使われている。見るからに暖かだ。そんなところで育つと人間の心も温かくなるだろう。

[ 今日のBuddha Bar ]
Gotan Projectのアルバム"La Revancha Del Tango"「タンゴの復讐」のライブツアーから。

彼ら、日本にもやって来たらしい。評判はどうだったのか、米国流のマスメディアに乗らない、インディー系のプロデュースだろうから予想はできるが。ビデオで見る限りとても魅力的なライブだ・・・。

Friday, November 7, 2008

[廈門] "君子危うきに近寄らず"か


『君子危うきに近寄らず』 人格者は身を慎つつしむ者であるから、危険な所には初めから近付かない。 類:●The wise man never courts danger.(賢者は決して危険を求めない) ●Better be safe than sorry.(後で悔いるより最初から安全でいるのが ...
( www.geocities.jp/kurogo965/kotowaza4/page34.html )

アタシは人格者か?賢者か?それとも臆病者か?あれこれあって、人格者に、賢者に、臆病者になってしまった。

こちらでは「友」の定義が違っているようだ。「友」はお金を持ってきてくれる人、仕事に繋がる話のできる人間、金がなければ、コネがなければ「友」にもなってもらえない。

いっとき、コッチの先生と環境問題は仕事にならないかやってみようと企画書を作った。アタシが筋の通ったカタログを作り、コッチの先生が中国語に翻訳、コッチのツテを使って売り込みをした。残念ながら企画書はお蔵に入った。それが分かるや否や、コッチの先生、先端技術を審査する科学技術局に自分の名前で論文を提出した。アタシが台湾に売り込むがいいか、と問うと、どうぞどうぞおやりください、こっちは産業展覧会に出品するからどうぞどうぞ、資料が不足しているので送ってくれないかと来た。

ある台湾人がいて、気立てがよく、台湾では山の上にセルフビルドした家を持ち、いのししを追いかける生活をしていた。仕事でこちらに来てアタシと知り合った。ところがアタシをダシにKTVや豪華な食事をおごってもらっていた。相手はこちらで商売している台湾人。小賢しいアタシの知人は、アタシを日本からやってきて商売を始めようとしている、何かと面倒見るといいことがあるかもしれない、などと耳元で囁いたに違いない。それからというもの接待付けになった。しかしどうだろう、ネタが割れれば元の木阿弥、今では電話一つかかってこない。

台湾ではよく「食事しましたか?」という挨拶を耳にする。その日暮らしだった時代の名残だろうか。しかしここでは「儲かってまっか」。どうもアタシに縁のない話だ。

その一方で『虎穴に入らずんば虎児を得ず』という諺のあることも知っている。

[ memo: 厦門の姐姐の実家を訪れたときのもの。きのこの栽培をしている蔵を利用した住まい。いつの日かアタシもこの手の蔵を魅力的な住まいに改装して住んでみたい。 ]

[ 今日のBuddha Bar ]
Buddha Barから。Armen Chakmakian の一曲、"Gypsy Rain "。

米国生まれの、ヒスパニック?インド系?それともアラビック?顔写真からはインド系に見えるが。
ピアノの不協和音を織り込んだモダン・コンポーザー。音が明晰なのは米国の地に生まれたからか。

Tuesday, November 4, 2008

[廈門] 向こう二部屋両隣り


アタシが住む超高層マンション、高級住宅地の一角に建つ。小奇麗なエントランスホールには常時保安員(ガードマン)が不審者を見張っている。アタシの部屋は31階。日本製エレベーターに乗り上へ。エレベーターを降りると大理石張りのホールに面し四件の扉。しかしアタシの部屋に向かうところに扉はない。奥へと続く廊下があるだけだ。分譲の一軒をホテル形式で5部屋に割けている。そのうちの一部屋がアタシの棲家だ。一軒屋5部屋をシェアする下宿とは一寸違う。その廊下に一歩足を踏み入れると一変、ここは高級マンションかと目を疑う。

貧相な仕上げ材、粗雑な施工、壁にはヒビが走り、誰も手をかけない床は埃だらけ。大家の、分譲代金をいかに早く取り返すか工夫のあとだ。廊下の幅はわずか85センチ、向かいから人がやってくれば、肩を斜にして行き違わなければならない。両側が部屋だから中廊下形式、日本の法規では1.6Mが求められる。外気に面していない上に照明は音感知式、常時真っ暗。音感知式はこちらでは一般的で、みな廊下のはいり口でハイヒールの踵を床に叩きつけ、照明のスイッチを入れる。真夜中に床を叩かれては、階下の住人はたまったものでない。

この寄せ集めのような部屋を借りているのはアタシとオバサンとあとは若い女性の方々三名。アタシの部屋は廊下のどん詰まり。壁を挟んだお隣と廊下の向かいには、同じ仕事場で働いているらしい女性方が住まわれている。お隣は愛想のいい、陽気そうな女性。一寸小太り、丸顔、かわいらしい。廊下向かいといってもバストイレの壁は共有しているお隣さんは一寸陰気そう。背の低い、ごく普通な感じ、挨拶を交わす際に見せる不安そうな大きな目が特徴。

お二人、仕事の時間帯が違う。お隣さんは昼間仕事に出かける。廊下向かいのお隣さんは夜中に出かけ朝方帰宅する。お二人の仕事時間を足すと24時間体制、いったいどんな仕事をしているのだろうか、一寸知りたくなったりする。この両隣り、品疎なつくりの内装で、物音が筒抜けなのだ。廊下向かいのお嬢さんは静寂を愛し、隣部屋のお嬢は最近男友達ができたようで夜毎大きな声を出して楽しんでおられる。

アタシは人に素性を知られまいと、トイレの音にも気をつけて日々をすごしている。(ウィーンの安ホテルに住むナチスの残党でもあるまいし、そんな必要はないのだが・・・)

[ memo: シンさんから展覧会開催の通知が届いた。いつ拝見しても達者な筆捌きだ。]

[ 今日のBuddha Bar ]
今日もBuddha Barからではないが、第二次世界大戦、英国の兵士に勇気と慰めを与え続けたという意味でヒーリング・ミュージック。
私の大好きなVera Lynnの"We'll Meet Again"。
おっと、リンクミス。"こちら”が正解。

Sunday, November 2, 2008

[廈門] タンゴの復讐 - "Gotan Project - Santa Maria (Del Buen Ayre)"


・おっと、Wikipediaのトップページで中国語の検索が消え、プルダウン・メニューからしかできなくなった。何かあったか。

・Buddha Barからネタを探っていて、あるタンゴ曲をみつけた。ピンと来るところのない曲だったが、そこからリンクを追っていくと、曲・映像ともに秀逸なミュージック・ビデオに出会った。

Buddha Barからではない。しかしMVものの秀作"Gotan Project - Santa Maria (Del Buen Ayre)"。

曲の発表が01年というからかなり以前だ。当時日本でも話題になったときいているが、アタシは知らなかった。米国版"Shall we dance"(04)の、深夜のタンゴレッスンで流れていた曲。ただし、曲の収められているアルバム名は"La revancha del tango"「タンゴの復讐」。タンゴ復権にかけたプロジェクトだと宣言している。甘くない。

Gotan Projectというバンドは、バンドネオン(アコーディオンの一種)に加え、シンセサイザー、ボーカル、肉声の語り、ステージの背景に映像を交えるという実験をしている。この曲はこのMVが彼らのコンセプトすべてを表現しているといっていい。

カット・トリミング・モンタージュの技法は一昔前の実験映画、前衛映画、ヌーベルバーグを思い起こさせる。白黒の画面、ひとけのない大都会の一角、アスファルト・ガラス張りの超高層ビル・タイル張りの歩道、一人で踊る、裸足で踊る、男女で踊る、男と男で踊る、女と女が踊る、離れて踊る、グループで踊る、踊る脇を車が通り過ぎる・・・。「タンゴの復讐」ならではのクリップだ。

ライブ・ツアーの映像 "Triptico"を見ると、シンセサイザー、語りという楽譜にのらない音が加わり、不思議な味を醸し出している。踊りのないタンゴ、演奏で見せる、語りで聴かせるネオ・モダン・タンゴ。これを聴かずしてタンゴを語るな、という意図を感じ取った。

それにしても、タンゴを踊るやつら、みな色っぽいのはなぜだ。

[今日のBuddha Bar]
Gotan Project - Santa Maria (Del Buen Ayre)
mv: http://www.youtube.com/watch?v=tR5rW638DrU
live:http://www.youtube.com/watch?v=XztQJGJX9rk
"・・・このグループは音と映像の融合、エレクトロニックとアコースティックの融合を目的に結成された・・・"、とどこかに紹介されていたが出所を忘れてしまった。

Friday, October 31, 2008

[廈門] ネット字典 "nciku"で物欲が・・・

「アー中国語、まったく進歩ないわねー」。ウェルネスセンターの姐姐、女医の理事長がまたアタシに向かって口にする。もう二年以上滞在しているのになんてザマだというわけだ。自分としては結構やるじゃない、と内心思っていてもまだいわれている。

今では町に出て会話で困ることはほとんどない。一寸面倒な話になれば話題を変えて事をすませてしまえばいい。それでもふとした拍子に中国語らしからぬ表現が出るらしい。マンションの保安員(ガードマン)、「あなたは台湾人?こっちの人と話し方が違うものね」。アタシは口元に微笑みを浮かべる。

さすがみなにそこまで言われると気になり始める。会話の途中でいぶかしげにされたときの話を思い出し、一人反復してみる。一番いい加減なのが四声。いわゆるイントネーション。一語一語はまだいいとしても、これが連続すると相手は分からなくなるらしい。特に子供は素直に受け止める。「おじさん!おじさんのいっていること分からない!それはこういうこと?」。

中国語の先生、初めての元秘書先生は去った。次の先生とも縁がなくなった。今は一人で学ぶほかない。以前はコンサイス版とはいえ、厚く老眼鏡をもってしても見ずらい活字の小さな辞書を持ち歩いていた。どこに収めておこうか、結構厄介だった。

この半年、ウェッブ・アプリの充実ぶりには目を見張らされる。ブラウザーを開いておけば、いや開いていなくてもネットに繋がっていれば大体なことはできるようになった。そこで探してみたのが日中字典。残念ながら適当なものはなかった(アー、アタシはケチなので無料なものを探している)。しかし英中字典で素晴らしいアプリに出会えた。'nciku"、これさえあれば、いや、あとはコイツをネットに常時接続していられるコンサイスサイズのネットブックパソコンがあれば完璧だ。狙いはもちろんAtom搭載のOQO。ムラムラと物欲が・・・。

[ MEMO: "nciku"で中文を検索するには二つの入力方法がある。ひとつはピンインで、もうひとつは手書きで漢字を直接書き込み検索させる。簡単に紹介すると・・・(画像をクリックすると大きくなります)
1または2・3-ピンインか手書きで検索欄にお目当ての漢字(または英語)を入力して検索。
4-検索結果が表示される。
5-例文が紹介される。
6-発音記号もしっかり表示。
7・8-素晴らしいのは、中国語英語ともにちゃんと読み上げてくれる。これで自分の発音の欠点を見つけられる。
9-書き順に間違いありませんか?確認してみましょう。
これが日本語でできたらと思わずにはいられない。 ]

[今日のBuddha Bar]
チュニジア生まれのフランス育ちでBuddha Bar創設と選曲にかかわっているClaude Challeの作品から"How Insensitive"。
ピアノ演奏でモダンジャズっぽい。

多才な方らしく、いろいろなスタイルの曲を世にだしている。ユダヤ教、仏教の衒学者でもある。

Thursday, October 30, 2008

[廈門] 珈琲店の「老外」たち


老夫妻は物静かにテーブルに向かい合って座っている。話をするわけでもなくそれでいて退屈している様子もない。米国人だろうか、それとも英国人か。食後にしばしば顔を見せる。

若い、英語を話す小柄で美形な外国人女性は、東アジア系の、これも背の低いが顔立ちの整った若者とよくやってきて小さな声でささやきあっている。二人ともペットの犬を連れてきて外のテーブルで語り合っている。

喫煙室は商談の場になっている。ラフな格好で声の大きい米国人がよく利用している。流暢に英語を話す中国人と細かい数字をつめている。昼間に姿を見せることが多いことから会社勤めには見えない。本国の会社の間に入って仲介フィービジネスか。時々かかってくる電話にむかって中国語で対応している。イントネーションに癖があるとはいえ、なかなかのものだ。

日本人も老外( [lǎowài] foreigner )のうちだ。彼らは製造業にかかわっている様子。若者が工場での出来事を上司に伝えている。上司は若者に中国人相手のノウハウを伝授している。こちらにやってきて商売する老外が一度は直面する難題だ。

少し前までいかにもというドイツ人もルサリーを纏ったアラブ女性も愛想の悪い韓国人の姿も厦門大学に留学中の日本人女性も見えていたが、このところやってこない。場所を変えたか、それとも帰国したか。

火曜日は「買一・贈一」の日。ピザとビールを注文するとサービスでもう一枚、もう一本ついてくる。普段と違いこの日は客であふれる。特に老外は、仲間うち、家族総出で「買一・贈一」を享受している。フィリピン人の仲間うちがやってくると大騒ぎになる。うるさいことこの上ない。

アタシは観客に過ぎない。珈琲店という舞台で演じられているさまを静かに眺めている。時に昔の会社仲間がやって来ることはあるものの、会話の相手をしてくれるのは店の若い女性たち。今ではそれが楽しみになっている。しかし彼女たちのローテーションは短い。名前を覚えたと思うと姿が見えなくなっている。

[ MEMO: skypeの友はアタシのことを親しみをこめて老猫と呼ぶ。このイラストは一人ふてて珈琲を飲むアタシ。Tomi Ungererの「No Kiss for Mother」から。主人公は小猫なのだが。 ]

[今日のBuddha Bar]
"Amor, Amor"をプロデュースしたのがArno Elias。フランス生まれの、おそらくユダヤ人。Buddha-Barで一枚アルバムをだしている。そのなかから彼の甘く、ちょっと女性っぽい歌声の一曲"El Corazon "。スペイン語で歌う。
このBuddha Barシリーズ、民族音楽を探るのに向いている。このところのBuddha Barめぐりで地中海沿岸から東欧まで散策したことになる。

Wednesday, October 29, 2008

[廈門] 二人の"本郷義明"

もう十六年前のことになる。ある雑誌で東アジアのあれこれについて連載記事を書いた。そのなかに中国についての一文がある。ここでのキーワードは「中国の開放」。しかし今現在この文を読んで感じるのは「余計なお世話」。悠久の歴史を持つこの地は、外国人にとって一筋縄でいくものでない。ただただ「中華」の意味を知らしめされることになるのがオチだ。余計なお世話だが、その際の一文を再録。

「アジアを夢見る-上海1945」

「 日本植民地時代の始まりとその終りに、上海を舞台とした二人のヒーローが登場する。同性同名で名前を本郷義昭という。二人は時代を共有することもなければ、中国に対する世界観もまったく異なっていた。しかし、アジアの解放を望んでいたことで二人は共通している。

ひとりは陸軍情報部の将校として日本帝国主義による中国の解放のためにアジアを駆け巡る。もうひとりは終戦まぎわの上海に特派員としてやってきて、敵対する民族の男女がお互いを理解し合うことによる解放を体験する。

昭和六年、日本植民地政策の最盛期に、少年小説作家の山中峯太郎は「亜細亜の曙」を発表する。本のなかで主人公の陸軍将校本郷義昭はインディー・ジョーンズばりの冒険活劇をみせてくれる。ジョーンズとのちがいは本郷が鉄の意志をもって「国家の危機」を救ってみせるところにある。アジアの開放を望む本郷は中国人に向かって号ぶ。「聞け!支那人諸君!諸君は日本帝国の真精神をいまだ知らず、○国に従ってみだりに亜細亜の平和を破る。めざめよ中華国民!たって日本とともに亜細亜をまもれ!」

もうひとりの本郷は、コミック作家の森川久美が昭和末期に描いた「上海1945」に登場する。主人公は「大和魂がある限り日本は負けん!貴様は日本人の恥だ ! !」といわれ続けられた新聞記者である。 特派員の本郷は、日本が無条件降伏したとき、「死に損なったよノノ 」とつぶやく。彼にたいしてどうしても素直になれなかった中国人の女友達は、抗日戦線の友人からいわれたと、はじめて見せた恥じらいで彼に伝える。 「新シイ中国ノ建設トイウノハナンダト思イマス?ソレハアナタヤ私一人一人ガ、自分ノ心ノママニ愛スル人ト共ニ幸セニ暮ラセルヨウニスルコトデス」。

二人はアジアを夢みている。その中心にとてつもなく大きい中国がある。その大きさのためか、民族のためか、われわれは中国を捉えきれないでいる。本郷義昭のこだわりもそこにあるような気がする。上海は二人の本郷が熟知している場所である。二人の間には二十年の隔たりがある。にもかかわらず上海の風景に変化はない。二十世紀初頭から三十年まで、英国を中心としたヨーロッパ列強は上海の風景をつくりあげた。二人の本郷を生みだした山中も森川もこの風景から逃れることはできない。いやこの風景があったからこそ、本郷はヒーローになりえたともいえる。・・・」

[ MEMO: 上海と違いここ厦門は濃い緑で覆われている。それだけでヒーリング効果はあるのだが・・・ ]

[今日のBuddha Bar]
ストックホルム生まれのグリーク・ポップシンガー、NinoのModern Laikaな "Amor, Amor"。
"Modern Laika" は伝統的なギリシャ音楽にモダン・ミュージック、ポップスやダンスをミックスしたもの。一寸レゲエっぽい一曲。しかしそこは地中海、決して中南米にはなっていない。

Tuesday, October 28, 2008

[廈門] 悲喜相继-差益で珈琲をもう一杯!


金融恐慌、米国の飽くなき利潤追求制度が招いたこの事態。さすがにメディアですら共和党に三行半を下した。アタシだってこの影響をモロに受けている。本来、三月に始まるはずだったプロジェクト、あれこれ補強をしてようやく九月末契約にまで持ってきた。それがどうだ、投資集団の中に外資系投資企業が入っていた。おかげでいつ契約できるか分からなくなってしまった。

落ち込んでいたものの、それでもこの混乱は、ささやかな、本当にささやかな余剰をうんでくれた。異常な円高だ。もともと十月初めにこの地を離れる予定が延期され、予定外の人民元が必要になった。換金のため銀行に出向く。親切な窓口の女性、「今は国慶節の休日、個人の換金を止めています。もしどうしてもというなら、日本円はまず米ドルに換金、そのあと人民元に変えますが、あまりお勧めできません。来週初めまでお待ちするのがお得かと・・・」。日円→米ドル→人民元、これだけで6%以上の手数料が銀行の手元に渡ってしまう。

国慶節の連休中、世界は金融恐慌に見舞われる。円はどんどん高くなっていった。翌週換金すると、前回よりはるかに魅力的な換金率を示していた。銀行のお嬢さんに感謝しなければならない。そして先週末にはなんと円は十数年来の高値を示した。昨日、アタシは再度ささやかな額を換金した。この二ヶ月で20%ちかい差益は馬鹿にならない。これでしばらくは優雅に珈琲を飲みに出かけられる。

差益で儲ける、変な仕組みだ。企業の健全さが株価に左右される、変な仕組みだ。

[ MEMO: こちらのATMは24時間営業だ。また、いたる所にあり、便利この上ない。はじめはちゃんと金を引き出せるのか、もし詰まったりカードが戻ってこなかったらどうしようか、不安だったが今ではごく当たり前に利用している。時々箱に現金がなくなっていることもあるが、その際には操作不能になるので取りそこなうこともない。写真は住まいの近く、真夜中の中国銀行脇にあるガラス張りの立派なATMコーナー。 ]

[今日のBuddha Bar]
息抜きにタンゴ仕立てなシューベルトのセレナーデをどうぞ。フラメンコ・ギターに手拍子、掛け声の入り混じった一本、"Tango Serenata"。
東アジアとの関連性に屁理屈をつけるとすれば、韓国テレビドラマ「夏の香り」の挿入歌でもあった。他にもフラメンコ・ギターが効果的だった映画に、クロード・チアリが弾く「冬の華」、それと韓国映画「甘い人生」ラストのラスト。

Monday, October 27, 2008

[廈門] 悲喜相継-旧租界の無人別荘


シンさんからメールが届いた。「・・・個人的な要望だが、アモイ通信なんだから、中国のあれこれを、少しでも加えておいた方がいい。いいことも、そうでないことも。」と締めくくられていた。確かにご指摘のとおりなのだが、「厦門」にノれないのが今のアタシだ。まだ見ぬ遠いエキゾチックなアラビアの地を思って妄想にふけているほうが精神衛生的にいいのだ。しかしネタはちゃーんと用意しておいたので今日はそこから・・・。

厦門本島の目と鼻の先にある鼓浪嶼(コロンス島)、そこの寂れるに任せた租界時代に建てられた別荘、それがようやく話題になり始めた。

夕食時、料理が出てくるまでの間、店のお嬢さんが雑誌でも何か見ますかと地元の新聞を持ってきた。一寸薄暗く、小さい新聞の文字は老眼鏡をもってしてもハッキリしない。それでも中文字までは読める。ある欄の写真に目が留まった。懐かしい。半年ほど前、シンさんと訪れた鼓浪嶼の町外れに建つ荒れ果てた別荘だった。シンさんと訪れた際に写した写真を引き出してみる。六十年代だろうか、門扉には時代のヒーローの名が描かれた一枚があった。

「・・・住む人のいない建物。持ち主を探すも見当たらない。・・・」
「・・・(戻って来て)修理をしてお住みになりますか?・・・」
「・・・お住みにならないなら、代わってあたしたちが修理をし住みますが、よろしいですか?・・・」
そんな内容らしい。憧れの鼓浪嶼に住む。一寸頑張ればできるかもしれない、そう想わせた記事だった。

住んでみたい。他にも旧市街地の迷路のように入り組んだ路地裏に、戦前建てられた長屋がいくらでもある。しかしあたしが再びここに戻ってきたときには、入り込む余地はなくなっているだろう。

[ MEMO:今日のBuddha Bar ]
ターキッシュ・フォーク・ポップスから"Sen gelmez oldun"。
・<こちら>はインスツルーメントのイージーリスニング。
・それに対して<こちら>はトルコの歌手Gulay
、おばさんがズン!と歌って聴かせる。
・もうひとつの<こちら>は中近東では名を知らぬ人はいないというやはりトルコの女性歌手Sibel Canが歌う。

Sunday, October 26, 2008

[廈門] 悲喜相継-"アラビアンナイト"は学習書


アラブという土地があって、アラビア語があって、イスラム世界がある。アラビア語は地中海の南いったいで使われている。イスラム教徒が一番多い国はインドネシアだそうで、しかしアラビア語は話さない。でアラブではない。トルコも同様だ。では"アラビアンナイト"、アラビア語で語り継がれた説話集はどうだ。ヨーロッパでみつかった時には、すでにペルシャ語に翻訳されていたという。語り部のシェヘラザードはペルシャの王妃である。アラビア語だったものが、時代を経て、文化の中心だったペルシャという地に渡り編纂され、語り部にペルシャ人シェヘラザードの登場となってペルシャ語になった。

アタシは"アラビアンナイト"を読んだことがない。カジったことはあるものの、それも子供向けな説話を選んでできた映画や漫画ぐらいのものだ。全体のフレームを知らない。このところアラビアを話題にしていることもあり、知らないわけにはいかないだろうとあれこれ探ってみた。残念なことに、ウェッブからは、本一冊まるまる読むことができなかった。しかし、日本語のWikipediaに、説話の一部がレジュメされていた。

ひとつの説話がいくつもに分けられ、入れ子状態に話が進んだりしている面白い構成になっていた。それに、なんといってもアラブ世界の習俗が分かったような気がして、ホーホーそういうことかー、と得した気分になった。この本はアラブの学習書になる。

内容は、子供向けに"翻訳"されたものと違い、残酷あり淫乱ありが満ちていそうだ。読んでみたくなった。そう思ってイタリア人映画作家、ピエロ・パオロ・パゾニーニの"アラビアンナイト"が思い浮かんだ。しかし見ていない。コミュニストでホモセクシャリストのパゾリーニが解釈した"アラビアンナイト"、観たくなった。

[ MEMO: こちらには「水滸伝」がある。民間伝承されていたお話をまとめたものだ。残酷といえば、ここには人肉を喰わせる峠の茶屋の女将が出てきたりする。しかし、淫乱な描写はない。役人の西門慶が横恋慕して下っ端の妻を掻っ攫う時のことぐらいか。 ]

Saturday, October 25, 2008

[廈門] 悲喜相継-一人の倒錯者

 
はるか昔イランに遊んだことがある。まだパフラヴィー政権時代だったころ。驚かされたのは、見知らぬ男が二人会話を始める際、お互い相応の地位にあると確認されるとすぐさま、旧知の仲のように抱き合いキスを交わす。それも髭だらけの男二人が。

アラブに関して知っている記憶をたどると、一人の西洋人に行き当たる。英国アラブ局情報部に属したT.E.ロレンス中尉。いわずと知れた「アラビアのロレンス」。彼はオクスフォード在学中から中近東に出向いていた。アラビア語を自在に操るいわゆるアラビア通である。英国情報局員としてオスマントルコをアラブの地から追い出すことに全力を挙げる。若かったアタシはこの映画に傾倒し、「中国のロレンス」になるんだとほざいていたこともあった。

アラブの文化・習慣を理解し利用できたのは、アラブ局でも彼は飛びぬけていたらしい。異文化の中にあって力を発揮するには、単なる知識だけではどうにもならない。それはここ中国にあっても同じだ。

ロレンスは生涯結婚していない。女友達らしい人間もいなかったという。映画の中で、偵察に出かけたトルコ占領の小さな町でアラビア人狩りにあい詰め所に連れて行かれる。そこでトルコの将校(ホセ・フェラが演じていたが、彼が実によかった)にその日の慰み者にされる。激しく鞭で打たれるロレンスがあげる声を、部屋のドアを小さく開けて覗き見する。これは映画の中の話である。実際は、翌朝路上に放り出されたロレンスの身柄を受けた人の話では、彼の顔から何があったかは読み取れなかったという。鞭に打たれたのは確かだが、その後のことは彼も生涯語たらなかったという。

あまり知られていないが(今では知れ渡っているか・・・)、映画の中、砂漠に出てからのロレンスは化粧をしていた。目の周りに手を入れていた。このひと筋で彼の視点が遠くにあるようになった。ダマスカスを越えてアラブをひとつにという途方もない妄想を。(当時、英国のアラビア地図に国境線はない。地図の上からはアラブはひとつだった。当然イスラエルなぞそのかけらもなかった。)

[ MEMO: 人の評価というものは表裏あるもので、ロレンスだろうとそこから逃れることはでない。誇大妄想、目立ちがりや、自己中などなど。歴史に名を残すにはそれくらいでなければならないのだろう・・・。 ]

Thursday, October 23, 2008

[廈門] 悲喜相継-"Tamally Maak"


完全にアラビック・ミュージックにハマった。

"Baadima"などBuddha Barシリーズに収められている曲はいわゆるエキゾチック音楽。そのなかに収められているアラビア音楽はおおい。仏陀の説教を聴かせるもの、美しき自然の風景を背景に流れる環境音楽もあるが、アラビックは圧倒しているように見える。アタシはなじみの珈琲店のBGMを追っているうち、その中に入り込んでしまった。店に行くごとに新しい曲を手に入れ、そしてYouTubeを彷徨ってその虜になった。とはいっても、伝統的アラビックではなく、現代とミックスされている曲にだ。

ある日ある曲。その出だしがIshtarが歌って踊る"One more time"にやけに似ていた。
[ http://www.youtube.com/watch?v=5uu3WweK6RQ ]
曲名を聞き出し、家に戻って探し出し聞いてみると、アレンジされているとはいえ、同じ曲だった。エジプト人男性歌手Amr Diab、正式名Amr Abdel Basset Abdel Azeez Diab ( عمرو دياب‎ )の歌う" Tamally Maak (Always with You)"というその曲は、フラメンコギターにのせて軽快に奏でるchill out musicだ。
[ http://www.youtube.com/watch?v=i1A31LmO25A ]
どちらが元の曲なのかわからないが、YouTubeの中にはIshtarと同じ曲でインスツルーメントの、ベリーダンスを楽しむご婦人方のビデオもあった。

" Tamally Maak"は大ヒットを飛ばしたようで、中近東・東欧ロシアからマイ・ビデオが投稿されてもいた。Ivanaというブルガリアの女性歌手がロシア語で歌うものもある。
[ http://www.youtube.com/watch?v=m_27zc78VaM ]
あるビデオのコメントには、本来はイスラエルのダンス・ミュージックですよ、とあった。真偽のほどはわからない。しかし白眉はなんといっても曲に合わせベリーダンスを踊るビデオ・クリップではないか。
[ http://www.youtube.com/watch?v=JXaSIAZTeL4 ]
ただこのクリップ、残念なことに画面にイコライザーをかけていて、じっくり見たいベリーダンスがボケてしまっている。画面の右に出ている文字はビデオ製作者の名前のようだ。

また、Amr Diabの歌う" Tamally Maak"のビデオ・クリップにはメーキングがある。とても口の大きな美形が登場しております。
[ http://www.youtube.com/watch?v=yfpwaVKpaAY ]
[ http://www.youtube.com/watch?v=FOBAKSsdLaY&feature=related ]

[ MEMO: 余談だが、"وانا دائما معكم"のアラビア文字を消そうとしてバックスペース・キーを動かすが反応しない。おいおいどうした、と思ったが、そうか、アラビア文字は右から書き始めるのだ、バックスペース・キーで消すには、文字の左端にカーソルを持っていくのでは。初めての体験であった。世界は多種多様性にあふれている。何度もいうようだが、アタシの住むこの地では多種一様性の世界なのだ。それにしても、今、何故、アラビックなんだ、アタシは。 ]

Wednesday, October 22, 2008

[廈門] 悲喜相継-願わくば 花の下にて・・・


歌人・西行について詳しいことはまったくないものの、彼の晩年にしたためたこの歌を、なぜか好きだった。「・・・春死なん この如月の 望月のころ」。理解しているわけでない。ただ好きなのだ、気分が。花は桜で満月の夜に、なんと贅沢なこと。

相当昔の台湾映画「悲情城市」、劇中の時代は千九百四十年代末のこと。占領地から追い出される日本人の中に小学校の女性教師がいた。その父親は祖国に戻ることなく自殺を図る。遺品を整理しながら、日本教育を受けた台湾の若者が妹に語りかける。「・・・明治時代にひとりの乙女がいた。そして彼女は一番美しいときに自らの命を絶った。桜の花が散るように。・・・」なんて内容のシーンがあったが、日本人のアタシは日本にいてそんな話しを今まで聴いたことがない。監督か脚本家が昔、やはり日本教育を受けた年上の人から話を来たのかもしれない。

欧州宇宙機関が打ち上げた無人補給宇宙船(ATV)の「ジュールベルヌ」。先日任務を終え、大気圏に再突入して燃え尽きていくフィルムを見た。散り際の美しさ。漆黒の闇の中、音もなく燃え尽きるさまにアタシは不可思議な思いにとらわれた。

勝間の片田舎で見た雲ひとつない満月の夜、地上は凛とした光景、棚田の上から見下ろすとばっちゃんの家の吉野桜が緋色に見えた。薄化粧をしたかのようだった。桜は自ら命を立つ寸前にそんな姿を見せたのか。

散り際、去り際、潔く、なんて考えて特攻隊を美化し正当化したりした。いや、話が横道にそれた。西行の心境いかなるものだったのだろう。やたら未練がましい男だったという話も聞くが・・・。

[ MEMO: フィルムに音はない。それがいっそう見る人間を引き付ける。ここ厦門にいると音のない世界に入り込みたくなる。勝間の冬の片田舎、夜中に床についていると、椎の実が枝づたいに地上に落ちる音が聞こえた。そんな音、ここでは味わえない。 ]

Monday, October 20, 2008

[廈門] 悲喜相継-訪問者

厦門、急にアジア系外国人の姿が増えた。台湾人を外国人と呼ぶかは別として、彼ら若い連中が目に付く。これは台湾だけではない、日本人も韓国人もそうだ。中国にはビジネスチャンスがありで、今まではそっぽを向いていた日本の若者も、国で糞のような仕事をしているより低い賃金でも貴重な体験ができるとあってか、例の珈琲店にやってきて仲間内話し合っている。夕食時にしばしば訪れる日本料理店、客足が遠く、しきりにディスカウント・サービスを行っているような店だが、入るなり「イラッシャマシー!」。ここにも白髪の、アタシより年上のご老人が一人、どこかの顧問でもなされておいでなのだろう、ビールを脇に食事をとっている姿を見かける。

日本でこのところ厦門という文字をよく目にすると聞く。いろいろなメディアが取り上げているという。本当かどうか知らないが、日本の姐姐からのメールによるとそうらしい。メディアの扱いがうまいのか姐姐、急にこちらに来たいといいだした。日本の大手航空会社が二社入って毎日運行いるといえば相当数の客を呼ばなければならない。確か去年も一昨年も秋口にメディアに載せていると話を聞いた。旅行シーズンなのだ、日本は今。

姐姐がおいでになると手配には注意が必要だ。彼女、若きころから世界中を飛び回っているからあれこれ五月蝿い。中国にも何度か来ているというが、控えめに口にするのは「演奏中でも携帯で話しているからねー」と毛嫌いしていた。それが「行きたい行きたい!」。アタシが厦門に死す前にその姿を見ておきたくなったのだろうか。まあそれもよしである。商人の姿しか見えないここ厦門に、少しは文化的香りを運んでもらいたいものだ。

文化の香りといえば、今年二月、厳寒の厦門においでになったシンさん、今展覧会の準備中と聞く。彼がその作品を持ち込んでもらうとさらに文化的になるかな。しかしここは商人の地だからなー。

さあ、楽しみがやってきそうだ。元気出していこー。

[ MEMO: 姐姐をどこに連れて行くか、級疎開地のコロンス島は当然の第一候補。昔撮った写真を引っ張り出してあれこれ考えた。裏町だらけだからどこでもいいか・・・。 ]

Sunday, October 19, 2008

[廈門] 悲喜相继-老境 "Baadima"にシビれる


へんな妄想をしてしまった。もし映画俳優のアンソニー・クインが歌手だったらどんな歌いかたをしたんだろうかと。アクの強い顔つきと太い声の持ち主のメキシコ人。どこかの映画で、フェリーニだったかもしれない、大道芸人になってなんか声だしていたような気もするも、はるか昔のことで記憶は定かでない。しかしあの太く低い声でささやかれたら女性はたまらない気がするのだが。

そんな歌が馴染みの珈琲店で流されていた。あたしゃ好きなんだ、この曲なんてんだと店の女性に聞くと、えーこれがー、とセンスを疑うまなざしを浴びせられた。Elie Karamという歌手がささやくように、いやうめくように歌う「Baadima」。

いかなる素性の曲なのか。Wikipediaによると、どうやら「The "Buddha Bar" music series」というのに属するらしい。a compilation of 「lounge」 and「 chill out」 musicということでリラクゼーション系らしい。歌詞はおそらくスペイン語だろう。[YouTubeの画面の詩はそうだが、歌は違うなー。アラビア語か・・・]弦楽器とパーカッションのスローバラード。スケベそうなオヤジが薄暗いしょぼくれたクラブかなんかで身なりだけはバリッとして歌っている姿が思い浮かぶ。それともYouTubeに見るように男女の絡みの場面で流れるのも一興か。どちらにしてもIshtarにしろこの歌にしろ大人の曲だ。そういえばIshtarの「Comme toi」も "Buddha Bar"シリーズに入っていた。

アタシに今必要なリラクゼーションなんだろう。そう思わせるのは今の中国が若く元気すぎるからだ。

[ MEMO: 昨夜隣の部屋で漏水騒ぎが起こった。洗濯機を動かして出かけたらしい。そうしたところ洗濯機の蛇口が外れたらしい。あたしが食事をしようとローカに出ると、彼女の部屋のドア下から水がどくどくと流れだしている。ガードマンに伝え対処してもらう。仕事場から駆け付けた彼女、部屋の中を見て大声を出して騒いでいるのが聞こえてきた。 ]

Wednesday, October 15, 2008

[廈門] 悲喜相继-人間ドック


このブログは一カ月のお休みをいただいた。いや勝手に休んでいた。あれこれ悲喜相继 [ bēi xǐ xiàng jì ・悲喜こもごも ] があり、なかなか気が入らない。体調も十分とはいえず、九月半ばにブログを投稿した後、こちらの人間ドックに入った。結果はべつにー、の一言で終わった。要は菜食主義であれば長生きするでしょうよ、と投資した五万円がどこかむなしく感じてしまうお話だ。

体調の変化は突然にやってきた。ある朝、さあ今日も元気でと鏡の前に立ったところ、オー顔右半分がパンパンに腫れているではないか。オットット、これが最後かアモイで死すか。その日の夜、口の悪い台湾人医師に相談するほかなかった。しかしその時にははれはほとんど引いており、医者はリンパ腺か扁桃腺か、急にでかくなってまたしぼむ、まあ問題ないよな、うちの健康センターで一度検査するか?ハイですハイですと返事するほかない。で、翌々日VIP対応の個室付きかわいいかわいい専属看護婦付きで半日を過ごしてきた。

二日後、結果が出たよ、というので話を聞きに行けば、加齢による心臓の一部が弱っているのと、血管中のコレステロールが少し多い、そんなもんである、との診断報告書を受け取った。胃カメラ飲んでも写真はきれいそのもの、みんなにお見せしたいくらいである。

顔がパンパンに腫れ、同時に左足もパンパン、腹も出ている。その昔母親がそうだったことを思い出した。どうも新陳代謝不全で水腫にかかったらしい。おかげで快適体重72,3キロを2キロもオーバーしていた。今ではほぼ引いているものの、首筋のリンパ腺か扁桃腺はまだ晴れている。これはちゃんと病院に出向かなければ・・・。何せ思い当たる節がないのだから。

今日は空白のひと月、悲喜こもごもの「悲」(だろうな)をお伝えしました。

[ MEMO: 気晴らしはやはりウェッブで遊ぶことか。その昔に心動かされたものってなんだっけ、の一つにTomi Ungererのイラスト。危ない絵あり、童話の挿絵あり、広告のイラストありと達者でアイロニカルなドイツ人だ。このスケッチ、後ろ姿に自分を当てはめてみたりした。 ]

Monday, September 15, 2008

[廈門] 頭を挙げて山月を望み 頭を低れて故郷を思う

・昨日は中秋節、近くに住む中国人をつれあいにした台湾人が会食に誘ってくれた。なじみの顔がそろい、海岸沿いの新しく開発された観光地の一角、東北人が開いた店で博餅をし、東北料理を口にした。珍しく、博餅では当りに当りまくり、とはいえ景品は子供向けのものばかり、帰り際ほかの方にもらっていただく。台風が近くとあって、残念ながら満月はうす雲を身に纏っていた。

・酩酊気味で家に戻り、バルコニーに出てもう一度空を仰ぐ。やはり月は薄絹を纏っていた。ふと李白の「静夜思」を思い出しネットで探ってみると、ウェッブ上にアタシの心境と似た中国人の一文を見つけた。

------ 小雨の一言 ------

天上の明月 ⇔ 地上の故郷
冷たい明月 ⇔ 暖かい故郷
侘しい明月 ⇔ 懐かし故郷

なんて鮮明な対称でしょう。
明月を見て、故郷を思い出す気持ちが遠く故郷を離れ、
この日本に住んでいる私にとって身に沁みるほど分ります。

自分の意志で住んでいるのに、
一生帰らない覚悟をして住んでいるのに、
なぜか時々
帰ろう、帰ろう、故郷へ帰ろうと願っています。
特に、静かな夜、眠れない夜、その気持ちが
いっそう強まり、思わず窓を開け、何かを見ようとします...

しかし、
見えるのは一輪の明月だけでした。

Thursday, September 11, 2008

[廈門] B級


・八十年代、刺激的な話題はいつも「B級」にあった。

・Coorsビールのネオンのかかっている店で直輸入MTVを見ながら、みながそろうのを待ち、その足でエスニック料理店”アンコールワット”に出向き、閉店まで食ってまた飲んだ。

・アジアだアジアだと騒ぎ、東アジア世紀末研究会なぞという意味不明な集まりを企画、まさに高度成長期を迎える寸前の混沌としたアジアを見て飲んで食べまくった。

ホテルの部屋をトントンとたたいて一夜の友達を紹介しに来るお兄さんのいた台北。うぶな連中が、脇にキーセンをはべらせ会食、最後はいっせいに盛り上がったプサンの夜。人民大会堂で歌うクラスの歌手、美形のハンコ屋のお嬢さん、得体の知れない若者たちに振り回された上海。観光バスで買い物店に連れ込んでも何一つ買わない我々に、「この団体最低!」とガイドに言わしめた香港・・・。

・『キング・コングは死んだ 私説アメリカ論』『男たちのための寓話 私説ヒーロー論』でもうひとつの米国を見せてくれた石上三登志氏。 ミステリー作家レイモンド・チャンドラーの描いた米国の暗部、社会背景について語っていた。

・いまやB級はA級への登竜門でしかなく、自立したB級があるのかどうかもわからない。とおもいきや、「music marcket」の主drug-cityさんのもうひとつの顔、DAZZさんが運営する「B級大好き!・・・・・でも、でも好きw」[?どこかに消えておしまいですか?]というめちゃくちゃなblog。まさにタランティーノもびっくり、世界中のB級映画のオンパレード。とはいえご本人もおっしゃっているように、最新投稿はなんと「ミツバチのささやき」と、高尚な面も見せている。

ネット時代になり、B級も蘇がえることができた。いや、あふれる情報と優れた検索機能、たからこそ再生できたのかもしれない。八十年時代のメインメディアは、週刊誌であり月刊誌でありTV放映であり、時間をつくって本屋を彷徨よいテレビの前に陣取りネタを探していた、レイモンド・チャンドラーが生んだ私立探偵フィリップ・マーロウのように歩き回っていた。

・では当地中国でB級文化は通用するか。優秀な検索機能を使って探ってみるが、ひっかかったのは日本からの紹介文献だけだった。それにしてもネットまわりは予期せぬ方にお会いできるものだ。

[ MEMO: たしか1984年だったか、上海は南京路の先、競馬場跡のいまはなき静安飯店前の工事風景。暗く、人通りのない光景。わずか二十数年前のことだ。photo: Eiji Kitada ]

Tuesday, September 9, 2008

[廈門] 博餅と中秋節

・日が落ちると急に涼しさを感じる。それだけで体が動くようになる。おかげで深い眠りにもつけている。これはありがたい。先日まで、蒸し暑さで目が覚め、結石予防のがぶ飲みで夜中に二三度トイレに立っていたのだから。

・マンションの一角からサイズをどんぶりに投げ込む音が聞こえてくる。ミン南地方独特な賭け事、博餅( bó bǐng )が始まっている。まもなく中秋節、旧暦の八月十五日。この日まで、役所も会社もお店も団地も家庭でも博饼で景品を手に月餅を食する。小腹がすいたので姐姐からもらった月餅を口にした。甘すぎる。腹がもたれた。

・近くのスーパーで買い物をした。店員に促されて領収書で博餅をする。大きなどんぶりに六つのサイズをほおり込み出目をみる。下から二番目の景品が当たった。陳列棚の中から真っ赤なシャツを選ぶ。家に戻り、開けてみると女性物だった。月餅のお返しに姐姐の義理の母に差し上げることにした。

・博餅をするのも三回目になった。一年目に会社の会議室で景品と紅包(お祝儀)、アタシの住んでいたマンションの中庭に元秘書と一緒に。二度目が会社のホテルで食事を。今年は一人買い物ついでのスーパーの一角で。

[ MEMO: 今日は花火大会、十時少し前音が途絶えた。終わったのだ。部屋から下を見下ろすとまだ道路は渋滞中。ようやく落着いて仕事にかかれる。湿気のとれた海風が部屋に入り込む。タブレット・ペンの感触も滑らかになった。 ]

Monday, September 8, 2008

[廈門] もうひとつの正しいこと

・このブログから当地関連記事が少なくなった。書けることがないわけではない。ただその話昔記事にしたよね、今年と違いはないよね、という感に近い。なぜか。これほど大きな国土と人口を抱えながら、考え方や行動様式がモノラルに近い。華やかな出来事は多いが、どれも統制のうちにある。正しいことはひとつであり、もうひとつの正しいことが聞こえてこない、見えてこない。ここで生活していているうちに、アタシもその一部になっている。

・金儲けの話は出ても、文化的な話は登場してこない。アタシが好きなポップカルチャーはここでは味わえない。仕方がない、頭の中の引き出しを覗いて消し去られないよう、自分自身のために思い出しては書き留めている。話題がそっちに振られるのはそのためだ。

・時にこの地にあって新鮮な発見があったりもする。それがアラブがらみだったのが不思議だ。Ishtarの場合、フラメンコでありアラビックでありポップミュージックである。伝統的なアラビック・ミュージックではない。それと彼女はスペイン・モロッコ・エジプト・イスラエルというマルチ民族、文化の混血、多民族で多言語、彼女はヘブライ語・アラビア語・スペイン語・フランス語・英語を話し歌うという。ひとつの正義では成り立てない立場にある。しかしここアモイにはそのかけらもない。55民族がひとつの世界、One-Worldを形成していても、祭典では漢民族が55民族を代表して演技する。

・Ishtarが歌って踊る「Baby one more time」のビデオ・クリップを見つけた。世間を騒がせているBritney Spearsのヒット曲のカバーだ。米語の、ビートを利かせたポップスは、Ishtarにかかると、大人の、そしてもうひとつの曲へとかわっていた。
[081022追記] とんでもない間違いである。この元歌はAmr Diabというエジプトの人気男性歌手が歌う"TAMALLY MAAK"というアラビック・ミュージックだった。記事によってはダンスミュージックとか、イスラエルの曲だとかいろいろあるも、正確にはわからない。いやいや、変なところでもうひとつの正しいことが判明してしまった。もちろんだからといってIshtarの魅力が消されるかというと、そんなことは決してない。

・この地では、パンダの目は黒目であり、「カンフー・パンダ」のように決して緑色であってはいけないのだ。

[ MEMO: 飽きずにIshtarの話題が続きますがご勘弁を。Ishtar "one more time" をみて、彼女、すげーでかいのがわかった。周りのベリーダンサー達は素足とはいえ子供のようだ。 ]

Saturday, September 6, 2008

[廈門] ポール・フレール氏が教えてくれたこと

・今日はF1ベルギー・グランプリ決勝日。有名なオー・ルージュという坂を駆け上がるコースは刺激的だ。この地スパ・フランコルシャン・サーキットのオールージュを上りきったところに位置するターン5はスタブロと呼ばれていた。それを“カーブ・ポール・フレール”に改名したという記事を目にした。そのとき、フレール氏が亡くなられたんだと知った。91歳だったそうだ。昨年、ホンダ・シビックTYPE-Rで事故を起こした際の後遺症らしい。亡くなられたのは今年の二月。この地にあっては記事にタイムギャップがでてしまった。

・彼の記憶は雑誌「カー・グラフィック」の記事。そして「ハイスピード・ドライビング」という本。彼から教わったことは、「早く・安全・快適」なドライビング・テクニック。周りの状況をあらゆる手段を使うことで、安全を先読みすることができると説いていた。当時馬鹿にされていたオートマチック車も、軽飛行機を運転するようにアクセルとブレーキを両足を使って操作すれば、並のドライバーより安全かつ早く走れますよと教えてくれた。

・それ以降オートマの愛好者になった。何より常に左足はブレーキペダルの上にある。反応は確実に早く、安全な運転ができた。コーナーで、ブレーキを踏みながらアクセルを吹かすヒール・アンド・トーまがいなこともできる。旧碓氷峠の曲がりくねった坂道を、非力なシビックのオートマを駆ってスカGを追い詰めた記憶もある。(慣れないと危険です。まずは車の少ない幅の広い道を選んで練習してからに。)

・しかし90歳でTYPE-Rとは、さすが元モーターレーサーですね。ご冥福を・・・。

[ MEMO: 姐姐と食事の後、久しぶりの快晴、ホテルからの帰り道を写真にするの弐。半年以上が真夏日のアモイ、日陰がなければやっていられない。小都市ながらアモイはことのほか都市の緑化に力を入れている。特にアタシの住むこの地域、80年代、埋立地を開発した地区だけに緑が多い。 ]

Friday, September 5, 2008

[廈門] 引用の引用のまた引用・・・

・Ishtarを追っていったら年齢がわかった。今年40歳。熟女。伏目がちで歌うと悩ましい。

・Ishtarを自分の言葉で紹介してくれていた「music marcket」にコメントを入れたところ、blogの主drug-cityさんが返事をくれた。ネット記事って、引用の引用のまた引用で、元ネタがどこにあるのかわからないし、記事も自分の意見何も言っていなかったりするからさびしい。彼はそこのところが違っていた。drug-cityさん、また遊びに行きます。

・引用の引用のまた引用。むかし畏友物書きのガンさんが言っていた。「編集者に資料探しを依頼したら、ネットから引っ張ってきたらしい。再度詳細に検討してもらったところ、編集者いわく、<検索の検索のまた検索かけていたら元の検索に戻った>。いまでは充実したウィキペディアがスタンダードになっているようだ。

・ここ中国はネット世界、ひとつの話題に百近いブログが同じ記事を引用する。元ネタ探しは至難の業だ。引用元はどこそこと記すブログも、それを追っていくと道に迷ってしまうのであきらめている。ただ記事を改変している様子がないだけいい。自分が拾ってきたものだとも言っていない。生のままだ。

・アタシが書いた中国人パフォーマー・田太権の記事、レコードチャイナが取り上げてくれた。それからしばらくしてあるブログに彼の記事が作品掲載で美しくレイアウトされ紹介されていた。文はというと、?アタシからの引用ではないか。それが署名入りとは・・・。

・アタシのデスクトップには検索用アイコンが並んでいる。Googleは日中米、Google map、中国の検索エンジン「百度」、ウィキペディア、YouTube、米中辞書、中国語発音記号検索。ブラウザを立ち上げていなくてもこれでだいたいは片がつく。

・アタシは忘れっぽい。メモはすぐにどこかに書き留めておかないと思い出せない。メモをどこに置いたかも忘れるから検索記事の管理も大変になる。とりあえずは3Mのデジタル・ポストイットをデスクトップに張り付かせている。

・ウェッブページとか写真はEvernoteという便利なものがある。何でもかんでもとりあえずここに放り込んでおけば何とかなる。後で整理のしやすいので助かる。

・畏友物書きのガンさんは図書館通いが好きだ。彼が書く文には百倍以上の裏が取れている。その彼もついにパソコンをいじり始めた。これから彼は裏資料をどこから探してくるのか、楽しみになった。

[ MEMO: 姐姐と食事の後、久しぶりの快晴、ホテルからの帰り道を写真にする。家にたどり着きマンションを見上げる。素晴らしい。ところがこれが曲者、夜目遠目笠の内、中国の標語そのものだ。近づいて見てはいけない、触ってはいけない、使ってはなおさらいけない。失望するだけだ。それにしてもこれだけ自由に設計させてくれる世界はうらやましい。 ]

Wednesday, September 3, 2008

[廈門] Fenweyparkの"sweet Caroline"

・よーやっと寝苦しさから開放されつつある。昼間はまだまだ夏の日差しと蒸し暑さが残っているとはいえ、日が落ちると海からの涼風が届く。そして掛け布団を出した。

・ひいきにしているお粥屋のおかみ、小銭を持ち合わせていないと端数をまけてくれる。夏休みを利用してアルバイトをしていた年のころ中学生か、それを見て「おかみさんお客さんのこと好きだから」。おかみさん、彼女に「小娘のくせに・・・」。彼女「あたし小娘じゃない!」。アタシ「そうだよね、お嬢さん」と声をかける。

・久しぶりに肉を食べた。姐姐が昼食でも一緒にと誘われ、子ずれで彼女のマンションとなりのホテルの飲茶に出かけた。何を食べたいかと聞かれたので、「肉!」「久しく肉汁を口にしてない!」と答える。彼女あきれていた。夏休み期間限定のディスカウントですべて半額、二人〆て67元、安い!しかし明日が最終日とは残念。

・【イタすぎるセレブ達】「歌がヘタでごめんなさい。チケット代返します!」歌手が前代未聞の謝罪!、という記事を目にした。誰かと思いきや、ニール・ダイヤモンドのこと。彼もいまや67歳、今年が歌手生活50年になるそうだ。「へた」!どういうことかと思いきや、彼、今年全米ツアー中、急性喉頭炎で満足に歌えないのでチケット代金を返還するという。へた!、冗談じゃないだろうとYouTubeで聴いてみる。以前のような声にハリも艶も消えていたが、渋く味がある。記事のタイトルとはこんなものか、目にしてもらうためには嘘もつくのか、冗談じゃない。彼の「スイート・キャロライン」はアタシとアキさんのオモイデなのだ。


[ MEMO: YouTubeで「スイート・キャロライン」探っていたら、この曲MLBボストン・レッドソックスのチームソングなことがわかった。八回裏に流すと球場が沸き立つ。これぞ米国って感。いいですねこういう米国は。そういえば台湾で知り合ったアメリカ帰りのデザイナー、名はキャロル、彼女はボストンで学生生活を過ごし、赤いジャケットを好み、真っ赤な口紅、そしてレッドソックスのファンだった。 ]

Tuesday, September 2, 2008

[廈門] 春歌考

どこかのサイトで大島渚の「日本春歌考」の一文を目にした。ほー懐かしい、オーそういえばエロ悲しい映画の挿入歌があったなー、かつては口ずさんでいたっけなー、どんな曲だったっけ、アイヤー思い出せない。・・・

---[引用・始]-----------------

「満鉄小唄」

 ♪ 雨のしょぼしょぼ降る晩に
 ♪ ガラスの窓からのぞいてる
 ♪ 満鉄の金ボタンのばかやろう

 ♪ 触るは五十銭見るはただ
 ♪ 三円五十銭くれたなら
 ♪ かしわの鳴くまでぼぼするわ

 ♪ 上るの帰るのどうするの
 ♪ はやく精神きめなさい
 ♪ きめたらゲタ持って上がんなさい

 ♪ お客さんこの頃紙高い
 ♪ 帳場の手前もあるでしょう
 ♪ 五十銭祝儀をはずみなさい

 ♪ そしたら私も精だして
 ♪ 二つも三つもおまけして
 ♪ かしわの鳴くまでぼぼするわ


この「満鉄小唄」は、替え歌であります。
元歌は戦時歌謡の「討匪行」、傀儡国家満州国建国の年、1932年に大ヒットした歌です。
作曲と歌はあの藤原歌劇団の藤原義江さん、作詞は関東軍参謀部八木沼丈夫という人だそうです。
八木沼さんはgoogleしてみると、どうもアララギ派の歌人だったようですね。
厭戦的雰囲気を持っているので、戦局が日本に不利になると歌唱を禁じられたといういわく付きの曲です。

 ♪ どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞ
 ♪ 三日二夜を食もなく
 ♪ 雨降りしぶく鉄兜(かぶと)

これが元歌の歌い出しです。
おわかりになりますでしょうか?

---[引用・終]-----------------

[ MEMO: 北京オリンピック開催と同時になぜか中国が変わってしまった、国際化されたんだ、という幻想みたいな感を抱き始めている。旧と新の混沌とした感が薄れてきている。「春歌」など死語みたいなものを懐かしむのもその反動か。 ]

Thursday, August 28, 2008

[廈門] Steve Richと1人の建築家のための音楽

いまやハマりにハマっているIshtar & Alabina(正確にはAlabinaというラテン系ユニットのボーカルがIshtar)のWeb追っかけになってしまった。特にAlabinaと組んだライブはノリの良さで聞き飽きない見飽きない。なかでも”LOLAI ya habibi ya eyni”でIshtarが魅せるベリーダンスは、抑えに抑えて振っているだけに、余計色気が出ている。アラブ系だけに肌の色がうす褐色なのも、腰回りが欧米系よりも締まっているのもまた格段にいい。

先日、追っかけを続けていたところ、やたらマイナーなミュージック系blogに出くわした。「MUSIC MARKET」 ---ロック・ジャズ・ブルース・ボサノバ・レゲエ・シャンソン・ケイジャン・サルサ・カンツォーネ・ブラック・J-POP・K-POP・演歌・クラシック・オペラ・現代音楽・ワールドミュージック・・・・オールジャンルOK---。きっと知る人ぞ知るというサイトだろうが、ここにIshtarがいた。
博客 ( bó kè blogger )曰く、
「・・・彼女のソロ・アルバムは勿論、ALABINAのアルバムもみんな最高にカッコいいアラビック・サウンドなんですが、
何で日本でブレイクしないのか不思議ですねぇ・・・
せめて国内盤くらい出せよ!って感じです。」
同感であります。中南米ならいいけど、中近東って感が我々にはあるのだろう。

ほーほーと感心しながらメインページに跳んでみると、おーおー最新投稿がSteve Reichではありませんか。何と懐かしい。ビートルズだストーンズだと表街道を歩いてた時代の裏街道(失礼!)の主ではありませんか。アタシは一応Reichだって感じているんだと口に出していたものの、どうも衒学的な感があり(失礼!)、「Come Out」なぞを聞いて、話のツマみたいな受け止め方をしていた。ブログの中に一枚の写真があった。年季の入った皺のある一枚。見るに耐えられる顔だ。アタシもそうありたい。そういえばReichもユダヤ人だったな。このところそちらの方面に縁がある。そろそろ中国の旅も飽きてきたのか・・・。

[ MEMO: つい最近まで日本がイスラエルとの交流をコントロールしていることを知らなかった。すべてが石油がらみから。(そうですよね、シンさん) ]