Tuesday, October 24, 2006

[廈門・139日] 勝間ネコ便り

暢気に過ごせる廈門、世の出来事に疎くなっているとはいえ、忘れてはならない日もあるのです。今日はそのなかの一日。十八年前、愛娘たちの母親が去った日であります。

昨日下の娘よりメールが届き、愛娘二人が墓参りに出向くと伝えてきました。わたしはこちらにいて早々と去ったかれらの母親のために何ができるのか。多くの海外在住者たちがこの件をどう対応しているのか知るよしもありません。そこで勝手にわたしなりに供養することにしたいと思う次第です。

さて、日本には他の家族もいるわけで、久しく無沙汰しているのが三匹のネコたち。千葉の片田舎の畑と雑木林に囲まれた古農家で彼らが如何様に過ごしているのか心配でなりません。娘に一文連絡を入れてみます。今朝がた届いたメールには、丸々と肥えた二人の姿がありました。面倒を見ていたわたしがいなくなり、さぞかし不便をしているのではないか、一人心配していたものの、その気配すらなく、いささか拍子抜けした次第であります。これを取り越し苦労というのでしょう。

[ 写真: 土間に積まれた段ボール、二人はこの場所が好きなのです。彼らに邪険にされているもう一人が映っておりません。やはり仲間はずれにされているのではないかと、心を痛めております。 ]

Sunday, October 22, 2006

[廈門・138日] 刃こぼれ

まあすごいものでして、鶏と家鴨を捌いたあとの包丁と俎板、ご覧の通りの姿に相成ってしまいました。骨ごとバキバキしてしまう肉切り包丁とちがい、ベジタリアンが愛用する刃先ではか細い鶏さんの骨でもとうてい太刀打ちできませんでした。刃先と俎板をこれほどまでに痛めつけた少女を褒めるべきか、できの悪い包丁を責めるべきか、中国四千年のながーいながーい食いものの歴史を語るべきか。

料理は芸でありまして、それでは料理の先生は芸人かというと違う。日本でもこちら中国でも料理人は芸術家なのであります。ちなみに料理の先生を師匠と呼ぶのは当然なのです。我が社が保有する開店したばかりのホテルの料理の師匠は香港の人間、ふとっちょであります。至極愛想がいい。その割には味付けの方向が曖昧でありまして、どの料理も同じ。次から次へと出てくる料理に起承転結がない。これでは飽きられてしまう。はたしてどうなるのか、人ごとながら心配してしまいます。

それに反し我が秘書兼中国語教師兼義理の娘の料理ははっきりした味付けであります。簡単に言えば田舎料理の田舎味、野味があって豪快そのもの。少女がつくったものとは思えません。しかしここ中国では誰もが料理の先生なのであります。世の中いろいろです。だから面白い。廈門の旅もひとしお面白いのであります。

[ 写真: 鶏と家鴨を捌いた少女の腕は太いのです。でなければ刃先がこれほど痛めつけられるはずはありません。 ]

[廈門・137日] 毛沢東の子供たち

廈門滞在が長い割には事情通になっていない。道を走っていても、ここがどこかも理解できていない。食い物屋も家の近くにあるどちらかというと高級料理店しか知らないし、ましてや酒を飲んでカラオケしたりお嬢さんと談話するなぞということも経験していない。まあ別の言い方をすれば、それで十分生活を満喫している、なぞとうそぶいてみることもできる。

先日、マーケッティング部門の新人のいささかデブな若者と一緒に町に出た。このデブ、ボスにダイエットを勧められている。「ブリキ猫を見ろ!彼はわたしが指令した三ヶ月で中国語の会話を理解できるようになったではないか!デブ、君も三ヶ月の猶予を言い渡す!その間にわたしの秘書程度まで痩せるように!」。これは本当の話である。お話を面白くするための作り事ではない。例に引き出された秘書も哀れである。彼女、先日結婚したばかり。ちょっと小太りのぽちゃぽちゃ。かわいらしい。しかし彼女を引き合いにするところが実に面白い会社なのである。

まあそれはそれとして、このデブを連れて三人、町に出た。廈門でも話題になっている食い物屋があるというので行ってみた。店の名前が「老知青 lao3 zhi1 qing1 」。七十年代の学生運動に荷担した人間には、「オッツ!あれか!」と手を打つに違いない。文化大革命という中国国内の内紛の時代、「下放 xia4 fang4 」といって、学生は実社会で体験を積め!地方に学べ!農村で働こう!運動があった。当時、わたしはいたく感激した記憶がある。どこかで今の千葉の片田舎のもとになったみたいなものかもしれない。「知青 (知識青年)」という名付けられた店、では一体どんな店なのか。

つたない翻訳でご紹介する。

・料理の分類:東北料理
・店の紹介:廈門の「比較的特徴ある」レストラン。店にはいると「文革時期の東北地方を思い出させる」、「至る所に毛沢東語録が」、「壁にはトウモロコシが掛けられ」、「椅子はオンドル」。服務員は「みな紅衛兵の格好を」、「緑色の軍服を身につけ」、「肩に軍包」、「さらにマネージャは軍用の水筒を」。餃子の味は「比較的まとも」、東北料理の味は「まあまあ」、「量がとても多く」、つまり「一寸雑」。価格は「高くはない」、口にしてみたいとお考えなら、おいでになって試してみるのも悪くないでしょう。

意地悪なわたしの運転手が一人の青年を捕まえて聞く。「鞄の中には毛語録入っているの?」、青年「はい」、運転手「じゃ見せて」、青年「いやいやいや・・・」。意地悪なあたし、彼らに声をかけてみる。「同志! tong1zhi4 」、誰も振り向かない。そりゃそうだろうな、ここの店で働いている若者たち、当時まだ生まれていなかったんだから。

[ 写真: 壁には軍用トラックに乗って下放する若者たちの姿を描いた漫画が。 ]

Wednesday, October 18, 2006

[廈門・133日] 家鴨を捌くと・・・


懸案だった家鴨を捌いたのが先週の日曜日。冷凍庫からこちこちだった家鴨を引き出し、半日掘っておいてもまだこちこちの姿を我が秘書は手際よく捌いていく。すでに鶏が捌かれるのを見ていたので衝撃は少なかったものの、やはり迫力がある。まな板の上でガッツ、バッキ、ドンドンと切り裂かれていく。その力強い包丁捌きであたりには骨付きの肉の塊が飛び散っていく。あとで拭き取るのの大変だったこと。

我が秘書は豚さんより鶏さんより家鴨の肉が大好きである。できあがった家鴨の料理をルパンIII似の前運転手と三人で食した。しかし、わたしには鶏の方が何倍にも美味しく感じられた。鶏の方が数倍脂っ気が少ない。野菜との取り合わせも悪くない。秘書さんの努力を評価するものの、古い日本人には家鴨より鶏の方が魚のほうが口に合う。

[ 写真: 左が冷凍庫から出したばかりの家鴨。右はそれを捌いている我が秘書の姿。 ]

Thursday, October 12, 2006

[廈門・127日] 游土楼-IV

土楼で生活してみる、できることなら。福建省の西部、福西地区に多く点在する土楼、観光用に整備され公開されているものもあれば、いまだになかで生活を営んでいる土楼もある。生活するには不十分な設備しか与えられておらず、作り直そうにも国家文化財の指定を受けていればそれもままならない。そのためか、土楼で生きている人たちには老人が多い。小さな子供の姿もしばしば見受けられるのは、両親が外地で働いているため、ジジババが孫の面倒を見ているからだ。

土楼を案内してくれたホテル嬢は、ここで生活している風景が「脏 zang1 (汚らしい) 」という。たしかにあちこち痛んでいたり、生ゴミが散らかっていたり、小動物の糞で靴を汚しそうになったりした。それでもわたしには汚らしいという感じはしなかった。なぜなら、ここには最新文明の産物がほとんど見当たらない。特に石化製品がない。おかげで空気も水も土も汚されずにすんでいる。わたしには桃源郷のような環境なのだ。

帰り際に前の運転手がこんなことを口にした。「burikinekoさん、ここに住みたいですか?土地は安いし、土楼を買って手を加えて土を耕せば長生きできますよ」。彼のわたしのライフスタイルを理解しての発言だ。一考の価値ありか、廈門に戻って頭の片隅から引き出してみた。ここ廈門は、わたしには、魅力的な小都市として映っていることに気がついた。ここの生活環境は棄てがたい。土楼への移住はしばらく先に考えることにした。

[ 写真: 土楼のなかを好き勝手に走り回って運動している家鴨たち。食するに適当に脂ののった肉になっているに違いない。 ]

Monday, October 9, 2006

[廈門・124日] 路地裏のDVDショップ

土楼見学から戻った翌日、廈門は青空が見え、この時期にこんなに蒸し暑いのかという日の夕方、わたしがルパンIVと呼ぶ前の運転手から電話が入った。家で食事をしないか?というもの。まもなく車がやってきて彼の家に向かった。

彼の住むあたりは廈門の旧市街の中心だったところ。洋館風三階建ての連続アーケードを持つ商店街にある。奥さんがメンズウェアの店を開いている。道幅は狭く、人と車が入り乱れている。子供たちの遊び場はこの街路、向こう三軒両隣の関係である。この店、以前は向かいに開いていた。隣人の家から出た火で内部が丸焼けになってしまい、移ってきたもの。内部は雑然とし、どう見てもどこもかしこも整理されているとは言い難い。

二階はルパンが手を入れて、仮住まいのように部屋が仕切られている。その一室のちょっと広い部屋でルパン手作り料理をご馳走になった。我が秘書の田舎味と違い、彼の味付けは薄くわたしの口にあった。肉料理が少なかったのは、わたしが肉をあまり口にしないのを知っているルパンの配慮だろう。かわりに魚が食卓に上がってきた。わたし以外の人間は手をつけなかった。魚はあまり人気がないようだ。

食事を終え、彼が廈門で最も賑やかだといわれている歩行者道路に出かけた。ここはやけににぎやか。モダンな店が並び、華やかに着飾った若者たちが溢れ、家族連れが路上のオープンテラスで飲料を口にしている。それにやけに長い。どこまでもどこまでも続いている。

すでに夜中の九時。彼の店に戻る途中ビデオショップを見かけた。聞いてみる。「韓国のDVDある?」、店の女性「ここにはないわ」、「あっそ」とわたし。すると彼女「ちょっと待って」。どこかに電話を入れると間をおかずに若い女性がやってきて手招き。我々を薄暗い路地裏に。「どこに行くの?」、「ついてくればいいの」。路地の奥の奥、曲がってまた曲がって、たどり着いたのが掘っ立て小屋のような建物。ここがビデオショップの本拠地だった。小さな部屋の中は棚いっぱいのDVD。学生らしい若者たちで溢れている。

あるわあるわ、韓国版だけでなく米国も本家中国のDVDも、最新版DVDはほとんどあるのではないだろうか。目についたものの中から素早く手に会計。うーん、この値段で手にはいるの?我々会計を済ませるとそそくさと木戸から外に出た。

家に戻りNHKで放映された「オール・イン」という連続劇を見てみる。問題ない。オーディオは韓国語と日本語、問題ない。サブトラック、韓国語と日本語。日本語をポチして再生してみるとどうだろう、そこには中国語が。そうなんだ、ここは中国なのだ。日本語をポチしても誰もそんなの見るわけない。中国語の学習用にはいいだろう、そう納得することにした。

[ 写真: わたしのご贔屓の二人。男優のイ・ビョンホン。女優のソン・ヘギョ。二人が競演の「オール・イン」と黒社会を描いて白眉な「甘い人生」。 ]

Sunday, October 8, 2006

[廈門・123日] 游土楼-III

饒舌なガイドの案内に頭の中がゴロゴロしたあと、四キロ先の高頭鎮高北村の土楼を訪れた。土楼が寄り集まっているわけでなく、ただただ大きな円楼と四角楼があるだけ。円楼は福建省の土楼の中でも最大だそうだ。四角楼は最も古いらしい。ここで見所だったのは、案内してくれた老人。若く、土楼に生まれ育ったわけではないガイドと違って、老人はここが生まれ出てから六十年あまりを過ごしてきた場所である。話に重みがある。実在感がある。おかげでわたしはこの土楼に愛着が生まれたぐらいだ。

特に風水を重んじた客家人が、いかに風水をこの土楼に応用していったかの話の部分は、建築を専門とする人間を引きつけるに十分だった。若く饒舌なガイド嬢も風水の関わりを説明してくれたが、老人の口から出た話は、道理を説いて面白いのだ。この話をご紹介したいのだが、ちょっといい加減になりそうなので、時間をかけ整理したら後日紹介してみたい。

円楼と四角楼をじっくり見学したあと、四角楼の出口でお茶していたご老人たちと雑談をしてきた。どうということのないとりとめのない会話だったが、腰を下ろし、煙草を交わし、ただただ時間が過ぎていった。不思議なもので、土楼の壁の暖かさがこちらにも伝わってきた。これは麗江古城では体験できなかったことだ。土は木よりも安定感を与えてくれた。

[ 写真: 円楼と四角楼の合間。ご老人はこの関係は風水から生まれたものだと語った。二つの建物には脈絡がなさそうだが、視線の先の建物が重要だという。この結果、円楼の外壁は長い間修理の必要がなかったのだという。確かに四角楼の外壁は痛みが大きかった。風道が関係しているのだろうか。 ]

Saturday, October 7, 2006

[廈門・122日] 剥き鶏

里帰りをしていた我が秘書が廈門に戻ってきた。帰りがてらに置き土産を置いていったのだが、それはなんと絞めて羽を剥いたあとの鳥肌だった裸の鶏と家鴨。ビニール袋に入れて担いできた。首元斬られ、はらわた抜かれた姿を間近で見るのは初めてな気がする。

彼女、さあ今日は鶏を喰らってしまおうというと、目の前で大なたふるって捌いていく。見事なのは鶏の頭、首元で切り落とすと、くちばしに刃先を入れてガッツ。見事二つに。いくら田舎育ちで、母親の料理を見てきたとはいえ、普通の少女にできることなのか。驚くと同時に、中国人はすごいなと傍らで感心しきりなあたし。大鍋でぐつぐつと半時ほど、地鶏のスープができあがった。肉もスープも堪えられない美味さであった。

わたしは幸せである。あれやこれや煩わしいことがいくつもあるにもかかわらず、そんなことも忘れさせてくれるこんな菜を喰らうことができ実に愉快である。

[ 写真: 秘書嬢、持ち込んだ裸の鶏を瞬く間に捌こうとするので、オイオイちょっと待っておくれと、あわててデジカメを持ち出し撮影をした。 ]

Friday, October 6, 2006

[廈門・121日] 中秋の名月なり

本来なら会社に出かけて四苦八苦している人間の手伝いをするはずだったこの休み、土楼見学と、それで疲れの出た体を休めるために使っている。手伝いを期待していた人間が皮肉を込めて電話をしてきた。「何してますかー、昼飯一緒しますかー」。結局彼ら出てこなかった。その代わりに夕飯あとの珈琲をおごる羽目に。

今日は中秋の名月、こちらでは中秋節 [ zhong1 qiu1 jie2 ] 。名月を観賞し、月餅を食し、そして博餅(ダイスの賭け事)をする。湖畔のコーヒーショップで我々は名月を眺めたものの、月餅も博餅も無い晩であった。家に戻ると隣の家からダイスの音が聞こえてくる。きっと家族で博餅を楽しんでいるのだろう。

前の運転手から「中秋快楽!」とショートメール。何事にも挨拶を欠かさないこと、こちらで生き残るための大切な礼節である。我が秘書は口酸っぱくわたしにこのことを説いて聞かせてくれていた。礼節を尊び、わたしも彼女へショートメールを送った。「中秋快楽!」。

[ 写真: ボケて見えるのはわたしの技術不足と光量不足。湖畔はネオンで飾られ、建物も光り輝く。ネオンが眠りにつくのは十時半。突然辺り一帯真っ暗になってしまう。 ]

Wednesday, October 4, 2006

[廈門・119日] 游土楼-II

永定という町から山中へと車を走らせる。ホテル嬢は携帯でなにやら連絡を取り合っている。見えてきた土楼。小振りだ。その脇の普通の民家。ホテル嬢の友人の家。何世帯かが共同で生活している。中庭では蜜蜂が飼われ、家鴨を飼育し、私がジャスミンではないかと間違えた花を乾燥させていた。薬草茶として売っているらしい。

ホテル嬢の友人、以前は隣の土楼で生活していたそうだ。この土楼、今では民間人が所有しているという。売り物として土楼は人気があるらしい。観光用に、民宿に、別荘用に、土楼は所有者をかえながら残り続けるのか。

最初に訪れた土楼群は、永定という町からしばらく山中を登っていったところにある湖坑鎮洪坑土楼群。四十六もの土楼のある村。入り口でチケットを購入、カートで見て回る。案内役にホテル嬢の同窓生が付く。博識である。ただうるさい。さかんに「なぜだか解りますか?」と質問してくる。解るか!さらに撮影場所を指定したりする。ここからの眺めが一番綺麗だとか何やらかんやら。ホテル嬢とルパンIII似の運転手をフレームに入れる。廈門の戻って看てみると、確かに様になった写真だった。口うるさいガイドさん、ありがとう。

ここは土楼のテーマパークなのである。ある土楼の中庭では客家人の結婚式を再現してたりしていた。とはいえ、麗江古城のような完全無欠の世界遺産お墨付きテーマパークのような白々しさはない。圧倒する土壁が人に勝っていた。

[ 写真: 高頭鎮高北村の土楼群。見る人を圧倒する。すでに夕方、みな疲れていた。近くに温泉があるというので向かうものの、原泉は少ないらしい。この季節では汗が出るだけだと食い物屋の主人。我々その忠告に従い帰路についた。ホテルにはいると直ぐさま眠りに。 ]

Tuesday, October 3, 2006

[廈門・118日] 游土楼

こちら廈門に来て念願だった麗江を訪れたものの、納四文化そのものが観光化されていたのを見て失望し、満州ではあまりにも荒れた風景に衝撃を受け、そこそ こに廈門に逃げ帰ってしまったまま過ごしてきた。ここ廈門は外地の人間にとってとても過ごしやすい都市なのだ。知らずに訪れたとはいえ、この地を紹介して くれた元ボスに感謝しなければならない。

現在「? [ 門+虫 ] 南古鎮」と名打った計画案がある。福建の歴史文化を建築群で表現しようという意欲的なもの。ただ意欲的なのはいいが私から見れば絵空事のような図面、これから建設を進めていく人間には多大な苦労が伴うだろう。

福建を代表する歴史的な建造物には、馬祖廟、騎楼、そして土楼を思い浮かべる。馬祖廟は海の守り神を祭ったもの。福建省の沿岸都市には何らかの馬祖廟を見 ることができる。台湾ではことさら多い。遠く東南アジアの華僑が移り住んだ都市でもしばしば見ることができる。騎楼、アーケードを持った商店街。高温多湿 でスコールの多い街に向いたつくり。これも集まって住み商売をする中華圏独特な風景だ。

そして土楼。最大八十メートルにも及ぶ円形の、最大一メートル八百もある厚い土壁で外部からの侵入を頑固に守るようつくられた集合住宅を指している。山奥 の、外部から人の近づきにくい地を選び、集団で生活し続けてきた客家人独特の住居だ。これを日本に紹介したのは同斑同学 [ tong2 ban1 tong2 xue2 同じ専攻の同級生 ] の K 教授。もう二十年前ぐらいのことだろうか。一冊の本になり、そこに収録された土楼を見、私はかなりの衝撃を受けたことを覚えている。中国は深いと。

国慶節の一週間の休みを利用し、一泊二日、私は期待の土楼を見に出かけてきた。今では観光拠点としてこの休みに訪れた人間は少なくない。それでも土楼は私を魅了してくれた。ここには実存感があった・・・。

[ 写真: 地図と土楼を紹介したガイドブックを手に、土楼群のある二つの地点を一日かけてみて回ってきた。まだまだ他の地に数多く残され、今でも一部の人たちが住み続けている。暇を見つけて全てを見て回るつもりだ。 ]

Sunday, October 1, 2006

[廈門・116日] 二時間遅れは常識

結婚式の始まりは二時間遅れが相場らしい。

昨夜、会社の女性の結婚式が執り行われ、私も参加してきた。中国で結婚式に出席するのは初めて。招待状には六時から始まると書かれていた。式場となった先日開幕のホテルに早めに出かけ、現場事務所で待機。六時半、一緒に参加する人が先に行きますよと声をかけてきた。

はいはいと私もそろそろ出かけるかと宴席に向かう。地下の大きなバンケットルーム、しかし人影はなし、オイオイ一体どうなっているんだ。仕方ないのでしばらく時間つぶしにコーヒーショップで高いエスプレッソを口にする。七時、また宴席に。二十ばかりの丸テーブルの半分が埋まっているだけ。席は決まっているわけでなく、勝手気ままに仲間同士が集まっている。お茶と雑談で時間をつぶすも、始まる気配はいっこうにない。

ボス連中が集まり始め、というか彼ら心得ている、いつ頃登場すればいいのかを。ここ廈門の結婚式の始まりは二時間遅れが当たり前だと隣に座った男が説明してくれた。一週間前にも同様結婚式があり、そのとき本来七時開催が九時半に始まったという。不思議な習慣である。とうてい日本では考えられない。おおらかといえばおおらか、しまりがないといえばしまりがない。それでも新郎新婦にとって晴れやかで数少ない誰もが祝福してくれるひとときである。お二人に幸あれ。

[ 写真: シャンパングラスにシャンパンを注ぐのがはやっているらしい。先日、ホテルの日本料理店開幕式典でも同じようにシャンパンイベントが行われた。 ]