Sunday, October 31, 2004

[台北通信] ホテルのおさかなくん

[農暦] 9月18日 [新暦] 10月31日 [天気] 曇り

ホテルのボーイ君です。日本のテレビに登場するやけに魚に詳しい若者がいますが、このボーイ君ちょっと彼に似ていると思いませんか?驚くことに声がまた そっくり、口を横に開き高音を発して話をします。長逗留になるといろいろな話を聞くことができるようになるのですが、彼の出身地は大陸・広州なのだそうで す。小さいときミャンマーに移り住み、中国語はそこの中華学校で学び、日本に来て日本語学校に通い、働き、そして台湾に移り住んだのだそうです。日本は、 東京は大好きだと話していました。

Friday, October 29, 2004

[台北通信] それでも素食は重かった

[農暦] 9月16日 [新暦] 10月29日 [天気] 晴

昼食に素食を続けていたのですが、それでもお腹にもたれるような気がしてきました。植物油を使って調理していると聞いてたのですが、勝間での玄米と鰯と豆腐の味噌汁に納豆の食事と比べると、やはりこちらの料理は重いようです。

今日はこぎれいなパン屋を見つけたので、サンドイッチにヨーグルトというごく日本的でサラリーマンのような選択になりました。表通りの広く車が行き来する場所から、街区に入った巷の小さな公園のベンチでのどかに過ごします。ちょっと残念な思いもしたのですが・・・

Thursday, October 28, 2004

[台北通信] 地位の低い喫煙者

[農暦] 9月15日 [新暦] 10月28日 [天気] 晴

ほとんど三年ぶりといっていい台北ですが、大きな様変わりのひとつに喫煙者が驚くほど少なくなったことです。歩きタバコもほとんど見ることはありません。 仕事場は完全に禁煙ですし、公共機関や公共交通、そしてタクシーまでも禁煙です。完膚なきまでといっていいでしょう。さらに巷の薄汚れた食堂で、「タバコ は吸えますか?」と聞いたところ、「客に聞きな!」といわれてしまいました・・・ 

私は禁煙ができていません。やめると体調が崩れそうです。こちらの事務所はもちろん禁煙、タバコの吸いようがありません。そこで建物の外に出た脇にある空 調室外機(背の丈ほどの位置にあります)横に水を入れた紙コップを置いて一日に何度か利用しています。誰も文句は言いませんが、困ったものです。

Tuesday, October 26, 2004

[台北通信] 台北のSUICA

[農暦] 9月13日 [新暦] 10月26日 [天気] 曇り

台風は北に去りましたが、やはり各地に大きな被害を与えたようです。特に雨によるものが多く、テレビ記者が取材中に溢れた水で一命を落としています。病院 の緊急処理を施している囲いにまでカメラが入っていました。近親者の号泣をカメラが拾っているところをながすなどちょっと日本と違うな、と感じました。

話は変わってこちらの都市内交通。現在、市内にはバスと地下鉄と高架の路面を走る電車・MRTが用意されています。地下鉄もMRTも最近整ったばかりです ので、施設は悪くありません。市内バスにも専用通路がしっかり確保されてきましたので、渋滞に巻き込まれることも少なくなってきたようです。それにどれを 選択しても安い。これら交通機関に共通のカードを購入しました。EasyCardと記されています。日本でいうSUICAにあたります。500元、日本円 で1600円ほどです。

Monday, October 25, 2004

[台北通信] 台風下のホテルのロビー

[農暦] 9月12日 [新暦] 10月25日 [天気] 暴雨・暴風

台湾の人たちが期待していた台風の足取りは、残念ながら日本に向かう道を失ってしまいました。そのまま直撃しそうです。

朝、とりあえず徒歩三分ほどにある事務所にずぶ濡れになりながらも向かいます。明かりもなく人気もなく、むなしくホテルに戻りました。時をたがわず事務所の女性から電話が入ります。今日はお休みです、と。おいおい、もっと早く知らせてくれよ・・・

[午後2時追記] 台北が1時前に台風の目に入ったようです。風がありません。
着 替えをしてロビーでコーヒーを口にします。あたりには、いつになく大勢の人たちがうろうろしています。暴風と大雨で出るに出られず、みな外の風景を眺める のみです。街路樹がみな同じ方向に踊っています。雨は暴風の向かう方向を目で見えるように動き回っています。吹き飛ばされた枝が大通りを走り回っていま す。高架のMRTも姿を見ることができません。

英字新聞に目をやる白人、PCで遊ぶヒューレット・パッカードの三人組、台湾人と結婚して今日の午後里帰りを考えている日本人女性、彼女は本を前に口に出 して中国語を勉強しています。西洋人と台湾女性夫妻は手持ち無沙汰そうです。わたしは[台湾通信]を書いています。小さいホテルですからロビーはこの組み 合わせでいっぱいです。誰も文句を口にする人間はいません。なす術はないのですから。

Sunday, October 24, 2004

失われた木造住宅 (台湾・森坂)

森 坂は日本占領時代、木材を切り出し日本に送り出したところです。台湾の東海岸、花蓮から南に鉄路で30分ほどのところにあります。敗戦後も引き続き台湾檜 を中央山脈から大量の木材が搬出してきました。一九八十年代はじめに最盛期を迎えたところで山火事が起こり、その後は林業の衰退もあり、急速に華やかさを 失ったところでもあります。

ここには日本時代に建てられた総檜作りの官舎が立ち並んでいます。八十年代後半、始めてこの村を目にしたときには本当の感動したものです。なつかしく、ま るで少年時代に読んだキンダーブック(若い人は知らないでしょうね。挿絵に田舎の風景や遊びなどが描かれていました。空襲の焼け跡で遊んだ都会っ子には憧 れの的でした。)そのままの情景がここにはありました。

その森坂も火災にあい、戦後立てられた住宅を数多く消失します。写真はそれから三年たった情景です。しかし、住民やこの村を愛する人たちの努力によって、失いながらも「再生森坂」を標語に、ゆっくりですが確実に新しい森坂を創ろうとしていました。

[台北通信] 田舎の農家の小さな生態系

[農暦] 9月11日 [新暦] 10月24日 [天気] 強風

週末、こちらの大先輩がもっている東海岸・花蓮の別荘に行ってきました。空気がきれいで、山が目の前に迫まり、あたりは田園風景です。すぐ近くに農家があ り、その庭先の小さな生態系を目にしました。人工の池で鯉を飼い、その周りに藤棚を作り、ヘチマで被って強い日差しから鯉を守り、アヒルがヘチマの葉っぱ をつばみ糞を池に落とします。それを鯉が食べるというしごく簡単な循環系をつくっていました。小さな生態系というものを、勝間でもやってみるつもりでいま す。

Friday, October 22, 2004

[台北通信] 台北の路地裏猫

[農暦] 9月9日 [新暦] 10月22日 [天気] 晴

勝間アトリエの猫たちと別れて五日が過ぎています。溺愛していたこともあって、台風がきたからと心配し、ちゃんと面倒を見てくれているかを心配し、まあ困ったことです。そんな折に首輪のない猫を見つけました。小柄ながら落ち着いて路地裏を行き来しています。

台湾では一昔前までペットを飼う習慣はあまりなかったようです。経済的に余裕ができたのか、昼に着飾った犬の散歩に出ているご婦人などを目にするようになりました。猫の姿は珍しく、飼っていても家猫でしょうから、この猫は特別かもしれません。

Thursday, October 21, 2004

[台北通信] 素食で昼食

[農暦] 9月8日 [新暦] 10月21日 [天気] 晴れ

台北ではかなり健康志向が強いようです。こちらの建築師と昼食に出かけましたが、たどり着いたのは素食のお店。素食は精進料理のことです。五十席はありそ うな店内は満席、やはり女性客が多い。入り口に用意されたバイキング形式の惣菜をペーパーディッシュにのせて清算にむかいます。・・・ 



そこでお皿を秤に載せます。重量で値段が決まります。ご飯がほしい旨伝えると十元加算されます。五穀米を選びました。ほかにお粥と白いご飯も用意されていま す。スープは無料。ただし、料理を残すとペナルティーをとられ、五十元払わなければなりません。無駄は許されません。昼食一式で今日は六十元でした。日本 円で約二百円。この素食屋さんには魚もありません。ほぼ完全な精進料理です。きっと明日も出向くと思います。

Wednesday, October 20, 2004

[台北通信] 勝手気ままなデスク

[農暦] 9月7日 [新暦] 10月20日 [天気] 小雨

私に用意された台北のデスクです。ゆったりとしたブースに広大な作業スペース。もちろんLANケーブルもきていますのでインターネットに高速で接続できま す。ここで勝手気ままにアイデアスケッチを続けています。とはいえ、日本と同様法規に縛られる作業に行きつ戻りつですが・・・

勝間通信の更新はホテルの一室で行っています。さすがPC先進国、ほとんどのホテルにLANは引き込まれています。ホテルの近くにHP(ヒューレットパッ カード)の台湾本社があり、そこのスタッフも寝泊りしています。昨日はロビーに中年の米国人三人が、彼らの製品のタブレットPCを片手に(恰幅のいい彼ら にはまさに片手に、という感がありました)タブレットPCでなにやらアイデアを練っていました。傍で見ていると、ちょっと滑稽な光景でした。

Tuesday, October 19, 2004

車の出口は虎の口 (台湾・台北)

台 北の国際空港から車で市内のホテルへ移動しました。高速道路の下を利用した駐車場、その出口にある柱に「馬道如虎口、行人請小心」と書かれていました。 「車道の出口は虎の口、歩行者は気をつけてください」。虎の口という表現がよかったので記録します。 [字が小さくて読みにくいですね。写真をクリックしてください、大きくなります]

[台北通信] 勝間通信は台北通信に

[農暦] 9月6日 [新暦] 10月19日 [天気] 小雨

先週の日曜日から台北に来ています。突然仕事で呼び出されました。勝間の冬の手入れもままならない状態で出かけてしまいました。しばらくは台北通信をお届けします。千葉と台北では、緯度も経度も異なりますので、月齢も潮汐も変わってしまいます。網路(中国語でインターネットの意味)から探せばいいのですが、まだてつかづです。表示はお休みにします。

Thursday, October 14, 2004

老飯店の朝食 (台湾・台北)

国外に出たときに何を食べるのか、一番大きな問題です。食は人生で一番重要度の高い行為ですから。「衣・食・住」は日本人の考え方、彼ら「は食・衣・住」なのですから。台湾語の挨拶は「食事は終えましたか?」で始まります。さすがに最近の若者は使わないとのこと。

で、この朝食、餐庁(レストラン)に座って「中国菜」と注文すると出てくる朝食セット。お粥とそこに加える具。具は日によって変わります。揚げた魚・煮野菜・目玉焼き・鳥のから揚げ、がこの日のメニューでした。

Tuesday, October 12, 2004

相互扶助の「公壁」 (台湾・鹿港)

台 湾中部の古都・鹿港には、日干し煉瓦を積み重ねてつくられた長屋の商店街が今でもたくさん残されています。道に面した部分には騎楼と呼ばれるアーケード、 幅四米強奥行きほぼ四十五米という細長い敷地は、お店に始まり、居室、中庭と水屋、居室、水屋そして野菜などがつくれる庭という構成をしています。

続き長屋の一軒の家を建て直すときはどうするのでしょうか。お隣との境には幅一尺もある厚い壁があります。この壁は両隣の家も使っている構造壁です。取り 壊すときにはこの壁を残し、建て直すにはこの壁を使います。あちらではこの壁を「公壁」と呼んでいます。Public Wall です。リニューアルの際の写真ですが、なかなかきれいな光景を目にすることができました。

Monday, October 11, 2004

洪会長インタビュー 「台湾の日式住宅」 (台湾)

東アジアの国々を訪れていた10年前の台湾では、まだまだ多くの日本時代の住宅を台湾のいたるところで見ることが出来ました。恐らく、東アジアの国々の中で、これほど多くの木造日本式住宅が残されている国は他にありませんでした。
何故今でも多くの日本式住宅が台湾には残っているのか、若い頃に建設工事にかかわって日本式住宅の修繕にも携わってきた一人の建設会社の会長さんに、色々お話を聞く機会が出来ました。

この文章は、雑誌 SOLAR CAT no.36 「アジア涼感生活考」 取材の際にお話を伺ったのもの全文を掲載しています。 [写真は会長が私のカメラ付PCを覗き込んでいる様子] 

洪会長インタビュー 「台湾の日式住宅」

出席者:
洪 国隆 双隆建設会社理事長(●)
李 政憲 双隆建設会社社長
大行 征 (○)
日 時:1999年6月15日午後2時から
場 所:台北市双隆営造公司10階会議室
通 訳:李 政憲 氏
記 録:大行 征

○昨日、花蓮の董事長さんのお兄さんの御宅を御案内いただき有り難うございました。お住まいになっている日式住宅がきれいに使われていることに驚かされました。あれ程保存の程度がいい日式住宅は非常に稀少価値のあるものだと思います。

● あなた方が日式住宅に興味をもたれていることは知っていました。花蓮で御紹介したのは、特別に使われている一軒の日式住宅です。何故かというとここに住ん でいる二人の夫婦は、日本の教育を受けています。それに日本への留学もしています。そのために日式住宅の使い方、面倒の仕方はとてもいいものです。日式住 宅の見方も心得ています。

○董事長さんは若い頃に日式住宅の修理改装に携わったと聞いております。その時の経験からお話をしていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
●どういたしまして

台湾が光復(日本の敗戦、台湾での終戦)の後に、そのような機会がありました。私が知る範囲でお答えいたします。

○まず一つ目の質問ですが、もし台湾に日式住宅が作られたわけを御存じでしたらお教えいただけますでしょうか

● 私の知っている限りでは、日本が台湾を50年間に渡って統治したことにより、かなりの部分に台湾の文化と生活様式に影響しました。建築についていえば、光 復前までにかなりの量の日式住宅が作られました。台湾に住んだ日本の人たちは、ここでも日本と同じ住まいと住まい方を望んでいた様です。

台湾でも日本式の教育がなされ、日本式の文化・生活様式が浸透してきました。そんなこともあって、多くの台湾人が日本の建築を好きになりました。その理由の一つとして特に重要なことは、台湾人の公務員にも日式住宅が提供されたことでしょう。

私が理解しているのはこんなところです。

○では二番目ですが、日式住宅が多く作られるようになって、日式住宅も台湾の環境にあうように替わってきたでしょうか?材料、工法、使い方等も含めて日式住宅自体はかわってきたでしょうか?

● 台湾人が日式住宅に住んできた時期は二段階に分けることができます。一つは光復以前、台湾は日本に統治されていたわけですから、文化・生活様式は日本人と 同じ様でした。特に、日式住宅で生活していた人たちにとっては、日本人と全く同じでした。例として、昨日御覧になった花蓮の日式住宅と住み手の生活がその 良い例でしょう。

● もう一つは、教育を受けられなかった人、もしくは農民等。彼等は今までの習慣として、福建地方の民家、もともとの台湾の生活様式を築いていた人たち。彼等 と光復以降台湾に移り住んできたたくさんの中国人。彼等は住民を失った日式住宅の新しい住民になりました。彼等は台湾の状況に疎かったり、なおかつ多くの 移民が貧しくもありました。日本教育を受けていなかった彼等は、日本式の生活様式もよく理解できなかったこともあり、それが原因でたくさんの建物が壊され てしまいました。

● ここに一冊の本があります。この本は53年前にニュージーランドの技術者が書いた物です。この本の内容は二二八事件のことについて見たこと書いています が、そのなかで中国人と台湾建築物の破壊について触れられています。例えば窓など動かすことのできるもの、それらは持ち運び出されてしまいました。そんな こともあって、世の中が安定してきた時に、再び建物を使おうと思って残された骨組みの住宅を修理をしたわけですが、修理の仕方が間違っていたのでしょう、 もともとの日式住宅とは建物も使い方も違ってしまいました。

●この本の中に一部分を御紹介します。

●「・・・台湾に移り住んだ中国人のほとんどが国民党に編入されていて、日本に帰る時わずか100キログラムの荷物に制限されていた。主人の持ち物とわずかなお金とが許された。残りの財産は全て台湾に残された。・・・・・

「・・・日本人が日本に戻った時、もともと日本人が住んでいた家は空家のままで残されていた。空家の移動できる物は全てどこかに持ち運び出されていた。桶、水洗便器、水道メーター、窓やドアなどの金物、その他売り捌くことのできる物は全て、例えば床板、天井版・・・・・」

終戦直後の状況をこの本は描いていますので、詳しいことをお知りになりたければ読んでみて下さい。

○ 二番目の質問ですが、彼等が住んでいた日式住宅の住まい方についてお聞きします。特に、台湾という日本とくらべても高温多湿という気候の中に、日式住宅は 置かれたわけですが、はたしてそんな状況の中で日式住宅は耐えることができたのでしょうか。董事長さんの修理修繕の経験の中からお話いただけますか?

●基本的に、残された日式住宅は新政府の公務員、教員などの宿舎として使われました。

●台湾は日本とくらべて気温も高く、雨も多いわけです。しかし、台湾の高温多湿の中で、日式の住宅は台湾の気候風土に相応しい、木造で高床式て風通しがいい作り方ですから、亜熱帯の台湾にも相応しかったと思います。

日式住宅は台湾や東南アジア、それに中国南部の原住民の家と似ています。高床、大きな開口、木造、通風の良さは日式住宅と一致しています。

○では日式住宅の修繕の時に最も修理が必要だったところはどこでしたか?

●当然のように生活の仕方が違うわけです。一番改善したところは便所、厨房、浴室など水場です。なぜなら生活習慣が違うからです。

○ということは、改装によって中国人の生活様式にあった形に直したのでしょうか

●基本的には使い方が間違っていたのだと思います。

例えていえば、ほとんどの畳は板の間にかえられました。なおかつ木でできた部分、壁とか柱にはペンキが塗られました。もともとの日本住宅の使い方のフィロソフィーに反した改装がなされました。障子や襖は、通気性のある材料からない物へ、板戸とかえられています。

というわけで二つの問題がおこってきました。日式住宅を使用するには日本の本来の注意深い使い方が失われ、その結果、人の生活も不健康に、建物そのものも また不健康になってしまいました。使い方を間違ったことによって失われたことは本当に勿体無いことです。なぜそうしたのか、その理由は治安問題にあったの ではないかと思います。開放性は中国社会では防犯の役に立ちません。

●もう一つは、日式の住宅のほとんどが宿舎として使われていたわけですが、住み手が自ら建物の修理修繕をすることはなかったことです。その結果、建物の痛みが進んでしまいました。

○では畳、障子、襖がなくなったということは、台湾の気候にあわなかったということですか?台湾の生活に不健康だったということですか?

●畳、障子、襖は台湾では高価なのですよ。日式住宅を維持管理するにはお金がかかるんですよ、伝統式中国民家に比べて。

○わかりました。話をかえて、台湾の日式住宅はもともと誰が作ったのでしょうか。日本から大工を連れてきた作ったのか、もともと台湾に日式住宅の職人がいたのか

●その質問はなかなか興味深い物があります。

台湾にはとても優れた職人がいました。ほとんどの日式住宅はこれらの職人によって建てられた物でしょう。彼等は日本人によって教育され、よく訓練されてい ました。いまでも何人かの方を存じ上げておりますが、お年は80歳を過ぎているはずです。当時台湾の建設会社は多くあり、彼等優れた技能工もたくさんおり ました。

御存じですか?終戦直後の台湾の建設技術の水準は、アジアの中で最も高かったと思われます。品質官吏、技術、管理面でも日本本土なみの水準だったと思います。

○それらの職人達は日本人監督技術者によって教育され、技術が受け継がれてきたと思ってよろしいでしょうか。

●そういってもかまわないと思います。

なおかつ監督の多くは台湾の工業学校など優れた専門学校で学び、卒業した人たちが行っていました

○ということは、職人達は日式住宅の良いところ悪いところを十分理解できていたわけですね。

●そうです。非常に理解できていました。彼等の仕事に接する態度は、日本の職人と同じといっていいでしょう。私が初めて京都や奈良を訪れた時に見た建物でそれを感じました。

ひょっとしたら日本の技術より優れた能力を持った人もいたと思います。その理由は台湾の木材資源、特に檜が有名ですが、それらの資源を活用する必要があったからだと思います。
○私が20年前、初めて台湾にきた時、台北市内でたくさんの日式住宅を見ました。ところがその多くが人が住んでいなかったり、崩れそうになっていたのを見ました。

もし、それだけの技術を持った人たちがいたのに、なぜ朽ち果てようとしていたのでしょうか

●この問題の答えはこう言えると思います。

●第一の問題は、技能工がいても終戦後の台湾の生活は非常に貧しく、建物を修理する余裕はありませんでした。

第二の問題は、公務員等の宿舎が多かったこと、私人と違って国が修繕費などを出す余裕はやはりなかったのです。

なおかつ、貧困の時代を終えて経済が急速に成長した時、土地利用が問題となりました。日式住宅はとても住みやすかったのですが、土地を有効利用しているとはみなされませんでした。

○台湾の東部を訪れた時にも多くの日式住宅を見てきましたが、同じことが言えるでしょうか。

●そう言えます。

○ではもう一度花蓮の日式住宅についてお伺いします。

○花蓮の日式住宅の意義はなんでしょうか。

●やはり日本の教育、日本の文化と生活様式を保ってきている。また別の家に住む理由もないのでそのまま残している。

あの土地は花蓮の市内にあって、土地はほぼ300坪でしょう。建物に200坪使っていますが、今の台湾の都市計画の基準から算定すれば、だいたい2000坪の建物がたてられるはずです。そんななかで昔からの生活をしていることは経済的な負担も大きいはずです。

○ということは日式住宅というのは維持管理に手間ひまかかる、といういことはお金がかかる、合理的に土地利用を活用するには向いていないといえますね

●土地利用が十分でないことはその通りですが、建物の維持管理が大変だということとはまた別の問題です。実際、私の考えでは、この建物を維持管理することも生活の一部だと思っていることです。

○それではもう一つ伺いますが、伝統的中国の住居は日式住宅にくらべて維持管理が易しいということでしょうか。

● 私の見解では、日式住宅と中国伝統式住宅とを比較するのは難しいと思います。中国の伝統的建物、漢民族の建物でも金持ちが住んでいるような建物は維持費や 管理に要する手間は、日本の住宅よりもはるかに大変でしょう。しかし、一般の人間の住まいは、それほど手間ひまのかかることはないと思います。

○少しいじわるな質問をさせていただきます

先ほど来のお話で、日式住宅が台湾の気候風土に向いているといわれておりますが、それでもなおかつ台湾の方々が中国伝統形式の住宅に住まわれているのはなぜでしょうか。

●中国伝統形式の住宅というのは台湾に少ないのです。せいぜい宗教建築の廟とか田舎に見受けられる農家が伝統形式の建物にいえるかも知れません。

農村にそれらの建物が残ったのには二つの理由があります。

一つは田舎の土地が安い、それゆえに贅沢な建物を作ることができる。

もう一つは、農民は他の文化への影響が多くありません。そのために伝統形式の建物を使っている。だから今でも残され、使われているのです。私の目から見ると、中国伝統形式の住宅は、台湾に残された日式住宅よりとても少ないかも知れない。
○昨日お会いした時、面白いお話をしていただきました。台湾という国は、いろいろな国外の文化の影響を受けてきている。そういうことは建築の面や生活の面で台湾の人の考え方に大きく影響しているでしょうか。

●そのとおりです。台湾は他の国の文化、政治に大きく影響されてきました。生活習慣もそうです。ですから当然建築の面にもあらわれています。いろいろな建築形式への対応性もあります。

●その結果建築においても生活文化の面においても台湾独自のものがありません。そのことがいいことだったのか悪いことだったのかは分りません。

○それではこれからの台湾の建築の方向を探すことは難しいでしょうか。

●とても難しい、この提案はとても大きな問題だと思います。これは教育、政治、いろいろな問題に関わっています。短い時間でお話できることではありません。

○それでは最後の質問をさせていただきます。

私は花蓮にある森坂という村を時々訪れます。私にとって、森坂は小さい頃の夏の風景を思い出させてくれる場所です。日本の昔の建物があって、夏草が生い 茂っていて、蝉の声が聞こえて、簾があって西瓜が御盆に乗ってでてくれた生活を思い出させてくれる場所です。董事長にとって、そのような思い出の場所はあ るでしょうか、またあった場合にはそれはどのような光景だったでしょうか。

●思い出させる場所はたくさんありますが、今ではほとんど見当たりません。特に小さい時には日式の官舎に住んでいました。それは高度3000メートル付近の場所にありました。そんな高いところにも建物が立っていたことに今でも驚かされます。

● 森坂のほかにも日式住宅が建てられた場所が花蓮の豊田という移民村があります。それ以外にも、一単位300坪をもった移民村が計画されました。その背景に は、日本が台湾の東部に移民する計画があって、製糖会社、アルミ会社、水力発電所、鉄道、台湾の一番美味しい米などが花蓮周辺につくられ、多くの業務に日 本人が携わったわけで、かなり移民計画がすすめられたとえばトヨタなどがその例です。特にお米は美味しかったようで、天皇にも奉納されたそうです。

○ただ、森坂は時間を経るごとにその姿を失いつつあります。私にとっては故郷を失うような気持ちでいます。残念でなりません。

○今日はお忙しいところを時間を裂いていただき有り難うございました。

●どういたしまして、何か不十分なところはありませんでしたか。

○いえ満足しております。

Friday, October 8, 2004

[東アジアの人たち] 一九八七年のE君 (中国・北京)

一 九八七年夏の始まり、私は北京に呼び出されました。日中合同で進められていた一つの計画に参画してほしいということのようです。日本の商事会社とハウス メーカー、それにあちら側のある省庁が合弁で始めた外国人用アパートメント事業だといいます。在日台湾人の設計者がプロジェクト・マネジャーを務めていま した。彼の卒業設計をお手伝いしたこともある古くからの知り合いです・・・

会っ てお話を聞いてみると、言葉の問題、仕事の進め方、それにスタッフが若すぎて技術的な解決ができそうにないといいます。それではと北京に出かけました。仕 事は時間に追われている状態で、朝から晩まで会議と打ち合わせが続きます。あちら側も日本側のスタッフもかなりの努力をしたと思います。

その中に一人の日本人の若者がいました。デザインを任されていた彼はまだ学生、私の後輩でした。名前はE君、流暢な米語に黒人の訛を上手く織り交ぜて話を していました。デザインセンスはなかなかのもの、日本人離れの感覚を持ち合わせています。言葉すくなに仕事を進めます。話を聞いてみると、学校が休みの間 を使っては外国の建築事務所で働いてきたとのことです。

彼が学生であることは中国側に伏せられていました。契約上か何かの理由によるのでしょう。相手側はうすうす分かっていたのではないかと思いますが、私が来 たことで安心したのか、仕事はそれなりに進み始めました。しかし、朝から晩までの作業で、ホテルと仕事場の間を車で移動する以外、外に出られるのは週末の み、それも日曜日だけでした。

そんな日は私とE君の二人、つるんで街中に出かけます。北京の街中はまだ落ち着きがありました。開放政策が始まったばかりですから、彼らの服装もお店も町並みも質素そのものです。街中も退屈です。
紫禁城に向かって歩きながら彼に提案します。

「おい、この連中に自由世界の風景を見せてやろうぜ」
「なんですか・・・」
「男どうして抱き合ってみせるっていうのはどうかな」
「やめてください!僕はストレートです!」
「形だけ、形だけ」
「いやですよ!」

残念ながら暗い人民服を身に纏った連中に、自由世界の風景は見せられませんでした。

日曜日とあってか、天安門広場前の大通りに車の影は余りありません。ただただ自転車が左右しています。大通りの左前方に紫禁城が見えてきました。私たち二 人は大通りを横切って向こう側にたどり着きます。突然、道路に面した建物の塀のわきから、銃剣をもった二人の兵士が脱兎のごとく私たちに向かってきます。

私たち二人は凍りつき、その場に立ち竦みます。二人の兵士は一言も口にせず私たちに銃剣を向けて構えました。私、とっさに日本語でE君に驚いたそぶりで話 しかけます。E君黙って私を見ます。兵士、沈黙したまま依然銃剣を向けています。兵士、薄汚い身なりの二人は北京の規則を知らない外国人と悟ったのか、よ うやく銃口を下げました。私たち二人、適当な日本語を口にしながら、その場をゆっくりと離れました。

中南海、もちろんそこは権力の中枢、政治の中枢、毛沢東・劉少奇・周恩来・朱徳らも住んだことのある高級幹部の執務兼居住地、その門の前に向かって道路を渡ってしまったのです。くわばらくわばら。

しばらくして私はこの計画から離れます。E君は引き続きここに滞在して図面を完成させます。
彼と再会したのはそれから数年後のこと。大学の卒業設計の展示会に来てくれと案内をもらい、上野の展示場にでかけました。計画のコンセプトは、北京の夜に酒を飲みながら話し合った内容が組み込まれていました。

その後E君と会ったことはありません。ロンドンのAAスクールで先生をしていると人から聞きました。

Thursday, October 7, 2004

老飯店からの眺め (台湾・台北)

も う二十年以上も利用している台北のホテルがあります。中山北路という、目抜き通りを一本入った裏通り沿いにある古びたホテル・緑峰大飯店です。台湾人の一 家が家族経営しています。ここで働いている人たちとももう顔見知りですから、彼らの成長も、結婚も、離婚も、離職もみてきました。当然私の生活も彼らは見 ていました。丁寧で美しい日本語を話されるホテルのママからは、諭されたり叱られたり元気付けられたりしてきました。

私が泊まる部屋はほぼ決まっていました。込み合った街中のホテルです、隣の建物とは隙間もありません。ほとんどの部屋は窓を開けると隣の建物の壁が見えて います。通りに面したツインベットがおいてある部屋以外で、外が見えるのはただ一列です。そこさえも隣接する建物のクーリングタワーの音が入り込んできま す。それでも和めたのは、ホテルの人たちの魅力にあったと思います。

Wednesday, October 6, 2004

竹住宅の造形 (台湾・南投懸)

台 湾中部の小都市斗六から車で半時ほど山間に向かって走ります。竹でできた住宅が点在する集落、愛郷村にたどり着きます。なかには台湾大震災で倒壊寸前の、 住み手に見放された住居もあります。被害を免れた他の建物の多くは混構造、純粋に竹だけで作られたものではありません。写真の住宅は木の柱と竹の補助材を 組み合わせたものです。石を土台に、木の柱に竹を差し込んで止めた部分を写したものです。材料の組み合わせがとてもきれいだったのでシャッターを押しまし た。

Tuesday, October 5, 2004

「ベトナムは東アジアの匂い」ーサイゴンの中国人 十年後記


十数年前までは中国語をパソコンで扱うことなど、一般の人間にはほとんど考えられなかった。台湾のIBMを訪れた後、日本IBMに中国語を扱いたいのだけ れどと電話を入れたが、当時のIBMは個人ユーザーにはけんもほろろ、相手になどしてもらえなかった。この時からしばらく、決してIBMユーザーにはなる まいと思った。結果、IBMは個人ユーザーの必要性への決断を迫られることになるのだが。

それからしばらくして、友人がモンゴルの留学生を事務所に連れてきた。すでにマッキントッシュではOSレベルで中国語が簡単に扱えるようになっていた。そ んなことで、モンゴル語がパソコンで使えないだろうかということを知りたがった。ちょうどモンゴルはロシアから自立を図っていたとき、それまでの公用語の ロシア語からモンゴル語がパソコンで使える必要があった。

パソコンで外国語を扱う「お助け寺」でならしていたマキ・エンタープライズの野原さんに電話を入れてみる。「もちろん可能ですよ、ですがソフト開発に○○万円はかかります」で、話は終わってしまった。当時のモンゴルではとてつもない金額だった。

野原さんの話の中で興味深いことがあった。世界中には五千から七千という言語が存在し使われているという。今後、パソコンに移植できない言語は間違いなく 淘汰されるだろう・・・。言語はそれを使う人たちの文化を形成する源である。もし、それらの言語が失われるならば、それらの文化も思考構造も精神構造も失 われることになるのだから。

台湾では、戦後蒋介石とともに台湾に移ってきた外省人と呼ばれる人々が入ってくるまで、台湾語が使われていた。 もちろん今でも多くの人たちが使っているが、都市の若者たちは話すことができないという。できても味わいのある語り口にはほど遠いという。

掲載されたベトナム人女性の写真は、どの絵を載せるか写真家の北田君と話し合った際、僕が強く希望した一枚である。建築雑誌に女性の写真を全面に出すの を、編集者の高橋君はきっと嫌ったにちがいない。しかし、女性の豊かな表情と、ベトナム人というよりは中国人にちかい顔つきで、連載の趣旨にかなうものと して大きく載せることにした。

場所はサイゴンから南、カントンというメコン川南の街にわたるフェリーの埠頭で彼女に出会った。埠頭では、メコンを行き来する客を相手に物売りがあふれて いた。マイクロバスで南に向かっていた我々は、バスを降りてフェリーが出発するまで辺りを歩き回った。埠頭は人と自転車とバイクと自動車、それにバスで ごった返していた。子供たちが客にコインを河に投げ込むようせがんでいる。おもしろ半分に投げ込むと、子供たちは河に飛び込んではそのコインをすくい上げ る。客にその成果を見せびらかせ、コインはその子たちのものになる。

フェリーの出発時間が来て、我々はバスに乗り込む。その瞬間、多くの物売りが閉まる扉に篭を押し込み最後の売り込みを計ってきた。一人の物売りの、扉から 我々に向けた表情があまりに印象的だったので、僕は写真家にシャッターをせがんだ。バスは動き始めようとしていたし、扉を閉めないと物売りは立ち去る気配 をみせなかったので、押されたシャッターはわずかに二回程度だった記憶がある。日本に戻り、できあがったこの時の写真を僕はかなり気に入った。

Monday, October 4, 2004

「斗六」という鉄道駅 (台湾・南投懸)

台 湾の台中という中都市から普通電車でおおよそ半時間南に下ります。そこに斗六(tou2 liu4)・トロクという駅があります。斗六は小都市、大学のあるのんびりとしたところです。竹で作られた住宅のある山間に行く中継場所にあたります。文 筆家でもある建築家の友人と訪れたこの駅で、彼と私は斗六と書かれた駅の名前を気に入りました・・・ 
我 々は台湾の建築職人に会う旅をしていました。鹿港という古い町で廟をつくる棟梁を訪れます。戦前、日本の大林組から学んだ技術と、正しい日本語を誇りにし ていたようです。会って話をしようとすると、お前が話す言葉は日本語ではないと叱ります。かつては木造の廟を造っていましたが、今はコンクリート造の時 代、木造の形体を模したものに変わってしまいました。

台湾東海岸にある、日本時代の官舎を改修する計画を立てているのですが、とお話しすると、うれしそうな顔で「やるなら早くしてくれ、あんまり時間がないか らな」というご返事でした。もうお年です。木造の建物をもう一度やりたい、と言っていただきましたが、残念ながらこの計画は頓挫します。棟梁、今どうされ ているでしょうか。

続いて向かったのが竹構造の住宅の棟梁。中部山岳地帯、台湾大地震の震源地に近かった鹿谷に住まわれています。この鹿谷に向かうにはバスか車。我々が選んだのが斗六という駅からタクシーを拾うというものでした。(この棟梁との出会いとお話については [こちら] をご覧ください。)

竹住宅の棟梁は再訪した私を覚えていませんでした。しかし話し始めると記憶が蘇ってきたようでした。別れ際に、またお会いしましょうね、というと脇で息子 さんが、ボケが始まっているから・・・といってました。今度お会いしてももう、私の記憶が蘇ることはないかもしれません。

夕方、台北に向かうため斗六駅の改札を通り抜けます。列車の来る間、月台(プラットホーム)で目の前にしたのがこの写真です。「斗六」という発音の響と漢 字が醸し出す雰囲気に、私たちは気に入りました。、私は建築家でもある文筆家に、是非斗六という名を持った登場人物の小説を提案したのですが、はたして書 いてくれるでしょうか。まだ彼の本に斗六は登場していません。

Friday, October 1, 2004

緑茶?それとも烏龍茶? (中国・蘇州)

昨 年蘇州に何度か出かけました。食事の前後や会議の席で出されるお茶は烏龍茶ではありません。特別に注文しない限り、緑茶が出てきます。「サントリーがだし た中国緑茶はいいですねー。日本の方は烏龍茶が中国で一般的なお茶だと思っているんですよ。緑茶に目をつけたところがサントリーは偉い!」、あちらの投資 家の方がいたく感激していました。そうなんです、中国では烏龍茶は一地方のお茶なんです・・・ [写真をクリックすると拡大できます] 
今勝間アトリエにある中国茶は二種類、四銘柄の茶葉。烏龍茶と緑茶です。写真左の小箱は友人のピアニストが中国演奏に出かけた際購入したものをいただきました。自生の烏龍茶として有名な中国武夷山のお茶、もったいなくてまだ開けることができません。

次が台湾の緑茶、非常に珍しい。台湾では鉄観音という茶葉が一般に飲まれていましたが、最近では烏龍茶に押されているようです。右から二番目は台湾のブレ ンド烏龍茶、口当たりがいいですね。一番右側は凍頂烏龍茶、最も普及している烏龍茶かもしれません。どのお茶もピンキリあり、ピンは目の玉が飛び出すよう な値段がつくそうです。

中国の街中ではあまり見かけませんが、台湾には全国津々浦々、お茶屋さんがあります。試飲もでき、店の主人が客と雑談しながら時間をつぶす風景をよく見かけます。暑い夏には、そんな時間がとてもよかった思い出があります。お茶は一つの文化ですね。