Monday, September 13, 2004

[東アジアの人たち] 森坂のケンちゃん (台湾・森坂)

ケ ンちゃん、台湾東海岸の花蓮という小都市から車で一時間、南に下った風光明媚な森坂の営林署で働いている。お酒がすき、賭け事がすき、女性が好き。お酒を 飲んで、飲み屋の女性をバイクに乗せて事故を起こし、片目を傷めてしまう。それらが原因でカミさんに離縁状を叩きつけられてしまった・・・ [写真中央が ケンちゃん]

ケ ンちゃん、台湾の原住民、阿美族です。がっしりとした体格で、屈託のない笑い顔がとても印象的。営林署という役所で働けたのは、高校卒業で頭もよかったか ら。三十代までは、十日分の食料と森林管理用用具を背負って、時には二週間、山に入っていたそうです。その彼も、酒の飲みすぎで痛風をわずらい、重いもの を長期間背負うことができなくなった。事務職に就いたものの性に会わない、木材の切り出しのなくなった今では、営林署がする仕事も少ない。結局、昼過ぎに 彼と連絡を取ることは難しい。なぜなら彼、どこか勝手に出かけているのです。・・・ 

はじめてケンちゃんと会ったのは一九九○年の二月。雑誌の取材で、東海岸の花蓮空港を降り立ったときに出迎えてくれたのがケンちゃんでした。その前の晩、 台北の飲み屋さんのお嬢さんたちと夜食をとっていたときの話がきっかけで、一人の女性が案内役を引き受けてくれました。ケンちゃん、その案内役の亭主でし た。私たちはその日から三日間、ケンちゃんとケンちゃんの奥さんとが過ごした時間を遡ってみることになったのです。

案内されたのは彼女の生まれ育った村。蒋介石の政府がつくった原住民移住策でできた村、そのなかのなかの一軒が彼女の実家です。平屋建てで小さなコンク リート作りの家の前庭には、とうもろこしが当たり一面敷き詰められています。家の裏には直径ほぼ二メートルの衛星テレビアンテナがすえつけてあります。通 された家では日本のNHKが映し出されていました。味の薄いお茶でもてなしていただき、我々は次の旅に出ます。

次に案内されたのは二人の生活の場。彼女がケンちゃんといつどこで出会ったか、聞いたような気もしますが今では忘れてしまいました。どちらにしても二人は 出会って、愛し合い、結婚します。二人とも阿美族、何の問題もありませんでした。そしてケンちゃんの働く森坂営林署の中で生活をはじめます。日冶時代に繁 栄を極めた林業も、今では台湾檜の伐採も制限され、かつモリサカが管理する樹木は八十年代初めの山火事で失われていました。それでも役所の生活は気楽なも のだったようで、ケンちゃん山に入る以外はこれといった仕事もなく、好き勝手ができたようです。

夕方我々がこの村に入ると、道端では数人の人が集まって焚き火をしています。魚を串刺しにして焼いていました。村の脇を流れる大きな川から取ってきた魚です。にぎやかな焚き火でした。

ケンちゃんの家は日冶時代の日本家屋の長屋。けっして立派な出来ではありませんが、総檜作りです。何しろ檜の産地だったのですから。営林署にある建物はみ な檜作りです。村全体が日本の官舎をそのまま使っているのです。静かで落ち着いた、まるで日本の田舎に入り込んだようです。そこに住む人たちも志津かで落 ち着いていて、懐かしい人たちにあったような想いです。

私はとてもこの村が好きになりました。それ以降、機会があるごとにこの村を訪ねています。調査に、会議に、遊びに、その度にケンちゃんと会うことにしてい ます。時間はケンちゃんと奥さんの関係を変えていました。営林署は、森坂の衰退的解散を選んでいました。局員の定年までの森坂です。多くの職員はこの村を 愛し、生涯をここで終えることを望んでいました。二人の成長期の子供を抱えるケンちゃん、給与が増える望みは少ない。それでもケンちゃんのノム・ウツ・カ ウは続いていたようで、奥さんは堪忍袋の緒を切らしたといいます。奥さんは台北で、ケンちゃんは今でも森坂の日本家屋に一人で住んでいます。

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