Thursday, September 30, 2004

両岸の新幹線 (台湾・中国)

台 湾と中国が超高速鉄道の導入と建設を進めています。台湾では、北の台北から南の高雄まで、日本の新幹線を走らせます。来年開業予定。一方の中国ではすった もんだの様子です。新幹線は採用されないというのが巷のうわさです。移動手段は、高速になればなるほど地理的なかかわりから切り離され、旅を味わうには余 計なものに見えてしまいます。[写真は台湾東海岸を走る単線の鉄道駅・萬榮]

Wednesday, September 29, 2004

一枚の写真・台南の八人

ア トリエを代々木から勝間へ転居の際にわからなくなった古い写真、納屋に山積みになったダンボールから探し出しました。そのなかから東アジアの旅のきっかけ となった一枚の写真が見つかりました。日本人七人と台湾の建築家一人が写っています。撮影は私。一九八五年五月、台北から車をチャーターし、オーバーヒー トを繰り返してようやくたどり着いた台南のお寺さんの塀の前での記念写真です・・・

台湾での仕事が終わり日本で事務所を始めて間もないころのことです。ろくに仕事もなく、近くで事務所を開いていた 秋山東一 を毎晩のように訪れ、ビールを山のように空けながら、「イヤー台湾はサー」とクダを巻いては、彼の床に穴の開いたワーゲンを運転して帰宅するという生活を送っていました。

秋山、あまりに台湾台湾という私がうるさくなったのか、「オーそれじゃ一度いってみるかー」。集まった八人、夏にさしかかったころ、穏やかだった当時の台 湾の地を踏むことになったのです。トントンおじさんやら、中国将棋やら、暑さにすぐバテる米国のミニバンに乗って(確かシボレーだったかと)、ひたすら南 に南に車を走らせました。皆さん、日本ではなかなか体験できないことを味わった一週間でした。

その後 東アジア世紀末研究会 と称し、アジアの各地を旅するだけの会を開きました。初めての台湾の旅から、まもなく二十年を迎えようとしています。二十年目にはもう一度、台湾を皆さん と訪れてみたいと考えています。ただ残念なのは、このうちお一人はお亡くなりになり、もうひと方が明け方の湯河原でその姿を消してしまったことです。

Monday, September 27, 2004

「蘇る”旧体制”ーサイゴンのホテル」 十年後記


二年前、台湾の仕事は数カ国の関係者の関わるため、英語が共通語として使われることになった。現地の会社で英語習得のプログラムが組まれ、私もそれに参加 させられた。英語教師の面接が行われ、最初に登場したのはカナダ人女性。闊達な性格はよかったのだが、話をしていると彼女の口元しか見えなくなってしま う。とても大きいのだ。副総経理に遠慮してもらいたいむね伝えた。

次がやはりカナダ人のガッシリした男性。日本、韓国と英語教師を務め、いまは台湾に滞在していた。彼の場合は呼吸困難なのかと思えるような息づかいで、遠慮していただいた。後で聞いたところ、ラガーマンだそうで、鍛えられた首周りが気管を圧迫していたのかも知れない。

私のわがままを満たしてくれたのが、英国人の若者。はじめてあったときには高圧的で横柄に見えた。ただ、発音が良かった。英国人特有の切れのいい話し方もいままでに味わったことのないものだった。私からOKがでたその場から授業をはじめたのには驚かされた。

この若者、なかなか面白かった。実は若者ではなく若造だったこと。年をごまかしていた。25だという話だったが、本当は22歳。なす事ハイティーンのよう。そのくせ部屋にはいるときには私を先に立たせるという慇懃さも持ち合わせている。

ちょうどその頃、コソボ紛争が激化しており、教材にも英文ニュースが扱われた。この紛争の意見を求められたので、「空爆は不公平だ。圧倒的な戦力差があり ながら地上での戦いをしない。湾岸戦争もそうだったが、紛争を押し進めるのはいつもアングロサクソンだ。」と英国と合衆国をやり玉に挙げた。彼はそのまま 聞き流していたが、このところの大きな紛争はみなアングロサクソンが仕掛けた戦いだっようなきがする。

サイゴンのレックスホテルでポータブルラジオを屋上のテラスに持ち出し、熱心に聞き入っていたのも当事者の英国人だったことを思い出す。

Sunday, September 26, 2004

日本で使えない携帯電話は・・・

今日の台湾は休日。農暦八月十五日は中秋の満月、中秋節です。天気がよければみな月見に出かけます。

今年4月に台湾を訪れた時購入した携帯電話、東アジアでは立派に働きますが日本では役に立ちません。この携帯電話、電話機能にMP3プレーヤーを加えたも のです。まあ購入の動機が不純で、騒音で溢れる台湾の環境から切り離れていたいというものだったのです。PCを使ってお気に入りの張恵妹のCDから、この 携帯にケーブルで転送して聴いていました・・・

こ の夏、vodafoneがシャープの携帯を提供したので購入しました。100メガのカメラが使えて(このblogに掲載している写真のほとんどはこの携帯 で撮影しています)海外でも使えて音楽も聴けて・・・と思ったのですが、音楽がどうしても転送できません。どうも他のソフトを購入しなければならないよう です。台湾で購入したNOKIAには、PCと携帯とでデーターやムービーまでもが至極簡単にやり取りできるソフトが始めからついているのにです。結局携帯 電話とミュージック・プレーヤーとは別々に用意せざるを得ません。

テレビ好きの私は「人間の証明」などという連続ドラマを見ていました。ここで久しぶりに耳にしたのが「A Place In The Sun」。主題歌でした。私が知っているこの歌の歌手はスティービー・ワンダーです。しかし歌っていたのは河口恭吾。彼が歌う「A Place In The Sun」は乾いています。デジタルプレーヤーにぴったりです。張恵妹の歌の後にこの歌を加えて聴いています。

Thursday, September 23, 2004

胡椒売りのベトナム人 (台湾・台北)

ア トリエには格別な味の胡椒がある。台湾の知人から頂いたこの胡椒、味が深い。深いのにはわけがある。知人は台北の高級住宅地天母の高層高級マンションに移 り住んでいる。マンションにはベトナム人の胡椒売りがやってくるそうだ。注文すると、マンションにあがって何種類もの胡椒のカンからいくつかを選び、計量 し、おもむろに胡椒を擂りだす。確かに格別な味である。舌にピリッとする味、丸く舌触りのいい味、鼻に独特な香りをもたらす味、絶妙に交じり合っている。 胡椒というのは奥が深い。教えられた。

Tuesday, September 21, 2004

ロケ地の古い写真 (台湾・澎湖島)

台 湾の映画監督、侯孝賢監督の作品「風櫃からきた少年」を観て思い立った旅。台湾海峡に浮かぶ島の小さな村はずれにあるロケ地を訪れます。喧嘩ばかりをする 少年たちが、ついに家出をする決意を固める場面の小さな廟の前で撮った記念写真。紙焼きのもので、裏には1988年7月9日と記してありました。

[参照: 「看海的日子ー風櫃の三合院住居」 ]

Saturday, September 18, 2004

「二つの香港」ー英国の置きみやげ 十年後記


返還以前の香港の魅力は、なんといっても「チャイナウォッチャー」の役割だったろう。当時、鎖国を敷いていた大陸中国の情報は、すべて香港から発信されて きていた。文化革命が嘘八百の固まりだったこと見抜いていた当時の識者は、やはり香港情報の行間からそれを探り当てていたという。そんなことなどつゆ知ら ない私などは、MLなどという集団に同調、日比谷公園や新宿駅周辺で花の七機(第七機動隊)に襟首を捕まれ、危うく棍棒の餌食になるところだった。

世界中が落ち着いて、私も「東アジア世紀末研究会」などと名打った旅を何度か行うようになっていた。香港の旅に、当時話題になった香港上海銀行の見学を依 頼しておいた。ところがなかなか許可が下りない。出発のほんの寸前でOKがでたのだが、銀行の案内人と話してみると、我々のグループ名が問題になったそう だ。「東アジア世紀末研究会」、うーん極左グループと読めないこともなかったか。

天安門事件の時は台北にいた。メディアは反大陸キャンペーンで盛り上がっていて、私も毎日新聞とテレビを覗いていた。ある日「トショウヘイ死亡」の記事。出所は香港、しっかりガセネタだった。

Friday, September 17, 2004

「訂婚」ってわかりますか? (台湾・台北)

私 が台湾で取り組んだ始めての大きな仕事が軌道に乗り始めたころのことです。仕事が一段落したので、スタッフをお酒に誘いました。なかには二人の女性もいっ しょです。出かけた先は私の馴染みの店。定宿のホテルの真向かい、このホテルで働いていた人が開いたお店です。我々、お酒とカラオケで盛り上がってきま す。すると同行した一人の女性が私に一生懸命話かけてきました・・・

盛り上がっていても会話は身振り手振り、以心伝心というところでしょうか。しかし仲間の女性にまじめに迫られては対応しようがありません。何しろ目がまともです。一生懸命理解しようにもなすすべがありません。中国語を覚えなければと思ったきっかけの一つです。

彼女、コースターに何かを書いています。そこには「訂婚」と書かれていました。いろいろ思い浮かべますが理解からは遠くにあります。うーんうーんと唸って いる私の脇で、彼女は涙を浮かべ、下を向いて黙ってしまいました。私は仕方なくお店のママを呼びました。ママが彼女の脇でやさしく話を聞き始めます。

まもなく彼女は仲間の女性と二人で家に戻りました。私は店に残りママから話を聞きます。その内容は・・・ 彼女は父親が定めた結婚相手、つまり「許婚」い いなずけがいて、それに耐えられず国から出てきた、というのです。まだ二十歳を出たばかり、自分の思いも伝えられず、そのことを誰かにわかってほしかっ た、というのです。日本でも一昔前までは普通だった「訂婚」という制度、それを台湾で知らされるとは思っても見ないことでした。

[写真は当時の彼女 今は立派なおばさんかも・・・]

Tuesday, September 14, 2004

上海青春群像 (中国・上海)

一 昔の上海、外灘(バンド)に残された戦前の建物のライトアップが始まったばかりのころ、魯迅の住まいを取材に出かけた。住まいを管理している役人とあれこ れ言い合った疲れを断ち切るため、最高の食事をとることにした。外灘に面した和平飯店から出たところで、三人の少年に声をかけられた・・・

彼 らは確か英語で話しかけてきたたような気がする。内容がどうだったのか覚えがない。要は外国人と見ると捕まえて、あれやこれや話をしたい様子だった。うる さく付きまとうのを振り切って群衆の中に紛れ込もうとするが、それでもあきらめずに追いかけてくる。彼ら三人の風情を観察する。<タカリじゃない な>。服装もこぎれいだ。一人は顔立ちもいい。

追い払うにはあの手かと、いつもの悪い冗談を使ってみることにする。
「おい、おめーかわいい顔してるなー、今晩いっしょに遊ばないか?」
かれら驚かない。それどころか、それならどこどこがいいですよとまで言ってくる。

ふとひらめいた。<メシの場所を聞いてみるか>。
「俺っちら、これからメシ食いたいんだけど、いいとこ知らないか?」
かれら、あっちだこっちだと有名店ばかりで新鮮味がない。
「普通の店でいいんだ、美味ければ」
三人が相談している。と、ニヤッと笑って答えた。
「上海大厦(厂+夏)の裏に安くて美味しい店があるのですが・・・」
歩いて五分もかからない。あのホテルの裏に食い物屋なんてあったかなー、と思いつつ
「OK,いっしょに食うかい?」
「食事はしたばかりなんです。でも一緒させてください」
このころはもう中国語だ。私の連れは英語で話している。彼らの英語は流暢だ。

上海大厦(厂+夏)の横道は長屋が続き薄暗い。食い物屋らしい店も見当たらない。少々不安だったが彼らに続いた。長屋の一軒の扉を開けて中に入る。客は誰 もいない。時間は夕刻六時過ぎ、十分食事どきのはず。普段着の青年が注文をとりに来る。普段着だというのも珍しい。若者たちに注文を任せる。

我々はビールを、彼らは清涼飲料水を注文した。乾杯をしてから、お互いの素性を話し合う。彼ら大学生、暇をもてあまし、仲間と外人を漁っては外国語を鍛えているとのこと。

食事を待つあいだ店の中を観察する。ばーさんが店内を掃除している。確かに全体が小奇麗だ。
注文が次々と運ばれ口にする。悪くない。いや、美味しいかもしれない。運んできた青年にその旨伝える。にこっと口元で笑い奥に下がっていく。我々五人は雑談と会話に花を咲かせていた。店には少しづつ客が増えてきていた。

そのときハッと気づいた。店内には女性が一人もいない。客も従業員も掃除のばーさんを除いてその場の人間はみな男性ばかり。少年たちの顔を見ると、<気が つきましたねー>という目で笑いかけてきた。<そうか、ここはホストの集まりだったんだ>。私の悪い冗談に、彼らは見事に答えてくれたのだ。

店の中の男たちは、薄暗い店内でも整った顔立ちなのが分かる。中には化粧をしているものもいる。みな店を仕切っていた男性と親しげに話をしている。少年のひとりが話をしてくれた。

「この店の店長はもと上海で有名なホストでした。辞めてからここにスナックを出したんです。」
「お客のほとんどは現役のホスト、お店に出る前ここで食事をしていくんです。」
「一番賑やかになるのは真夜中です。店を終えたホストが集まってきます。」

きっと壮観だろう。大きくない店に着飾った男たちが一堂に会する。
しかしこの少年たちはなぜ裏事情まで詳しいのか。それは彼らの父親と関係していた。
ひとりは大学の先生の子供、もう一人は共産党の、そして最後の一人の父親は公安部の偉いさんだった。上海を仕切っている連中の子供たちなのだ。知ろうと思えばいろいろ知ることができる。

公安の息子は
「これからどうするのですか?家に来て裏ビデオ見ませんか?日本のものもありますよ」
おやじは分捕った裏ビデオを家に持ち帰って観ていたのだ。
いつの時代も青少年は時代を表している。今、彼らはどうしているだろうか、興味深い。

[写真は今年五月のバンド]

Monday, September 13, 2004

[東アジアの人たち] 森坂のケンちゃん (台湾・森坂)

ケ ンちゃん、台湾東海岸の花蓮という小都市から車で一時間、南に下った風光明媚な森坂の営林署で働いている。お酒がすき、賭け事がすき、女性が好き。お酒を 飲んで、飲み屋の女性をバイクに乗せて事故を起こし、片目を傷めてしまう。それらが原因でカミさんに離縁状を叩きつけられてしまった・・・ [写真中央が ケンちゃん]

ケ ンちゃん、台湾の原住民、阿美族です。がっしりとした体格で、屈託のない笑い顔がとても印象的。営林署という役所で働けたのは、高校卒業で頭もよかったか ら。三十代までは、十日分の食料と森林管理用用具を背負って、時には二週間、山に入っていたそうです。その彼も、酒の飲みすぎで痛風をわずらい、重いもの を長期間背負うことができなくなった。事務職に就いたものの性に会わない、木材の切り出しのなくなった今では、営林署がする仕事も少ない。結局、昼過ぎに 彼と連絡を取ることは難しい。なぜなら彼、どこか勝手に出かけているのです。・・・ 

はじめてケンちゃんと会ったのは一九九○年の二月。雑誌の取材で、東海岸の花蓮空港を降り立ったときに出迎えてくれたのがケンちゃんでした。その前の晩、 台北の飲み屋さんのお嬢さんたちと夜食をとっていたときの話がきっかけで、一人の女性が案内役を引き受けてくれました。ケンちゃん、その案内役の亭主でし た。私たちはその日から三日間、ケンちゃんとケンちゃんの奥さんとが過ごした時間を遡ってみることになったのです。

案内されたのは彼女の生まれ育った村。蒋介石の政府がつくった原住民移住策でできた村、そのなかのなかの一軒が彼女の実家です。平屋建てで小さなコンク リート作りの家の前庭には、とうもろこしが当たり一面敷き詰められています。家の裏には直径ほぼ二メートルの衛星テレビアンテナがすえつけてあります。通 された家では日本のNHKが映し出されていました。味の薄いお茶でもてなしていただき、我々は次の旅に出ます。

次に案内されたのは二人の生活の場。彼女がケンちゃんといつどこで出会ったか、聞いたような気もしますが今では忘れてしまいました。どちらにしても二人は 出会って、愛し合い、結婚します。二人とも阿美族、何の問題もありませんでした。そしてケンちゃんの働く森坂営林署の中で生活をはじめます。日冶時代に繁 栄を極めた林業も、今では台湾檜の伐採も制限され、かつモリサカが管理する樹木は八十年代初めの山火事で失われていました。それでも役所の生活は気楽なも のだったようで、ケンちゃん山に入る以外はこれといった仕事もなく、好き勝手ができたようです。

夕方我々がこの村に入ると、道端では数人の人が集まって焚き火をしています。魚を串刺しにして焼いていました。村の脇を流れる大きな川から取ってきた魚です。にぎやかな焚き火でした。

ケンちゃんの家は日冶時代の日本家屋の長屋。けっして立派な出来ではありませんが、総檜作りです。何しろ檜の産地だったのですから。営林署にある建物はみ な檜作りです。村全体が日本の官舎をそのまま使っているのです。静かで落ち着いた、まるで日本の田舎に入り込んだようです。そこに住む人たちも志津かで落 ち着いていて、懐かしい人たちにあったような想いです。

私はとてもこの村が好きになりました。それ以降、機会があるごとにこの村を訪ねています。調査に、会議に、遊びに、その度にケンちゃんと会うことにしてい ます。時間はケンちゃんと奥さんの関係を変えていました。営林署は、森坂の衰退的解散を選んでいました。局員の定年までの森坂です。多くの職員はこの村を 愛し、生涯をここで終えることを望んでいました。二人の成長期の子供を抱えるケンちゃん、給与が増える望みは少ない。それでもケンちゃんのノム・ウツ・カ ウは続いていたようで、奥さんは堪忍袋の緒を切らしたといいます。奥さんは台北で、ケンちゃんは今でも森坂の日本家屋に一人で住んでいます。

Thursday, September 9, 2004

私たちの総統あなたたちの天皇

台湾に長期滞在していたころの話。ホテルの珈琲カウンターで従業員と話をしていた。どんなきっかけだったか忘れたが、国のトップは誰?と。一人の若い女性曰く「私たちの総統、あなたたちの天皇」と答えた。そのとき彼女たちは日本のトップを天皇と思っていたのかと・・・

日本の首相のことは知っているものの、よく変わる彼らの名前を正確には覚えていない。それより、小学校のころから教わってきた「天皇」は、ある意味身近だったのかもしれない。自分自身でも変に納得したことがある。外国人に説明するにはとてもわかりやすい。
サッカーアジアカップで起きた反日騒動、日本が勝って見せた「強くなれ!中国」が正しい答えか。

[写真は北京で燃やされた日章旗のTV報道]

「深く青き夜」ー闇の中のソウル 十年後記


この回の原稿を読み直してみて気がついたのは、十年の間でアメリカへ向かったアジアの人々の、国籍の変遷だ。ベトナム戦争に参戦した韓国の移民枠が大きく なっていたし、その前までは中国との対立から、台湾人のアメリカ留学と移民が始まっていた。その後、ベトナム戦争終結で、多くのベトナム人がアメリカに移 り住むことになる。中国との国交成立の後からは、大量の中国人がアメリカに流入することになった。それでもアメリカ合衆国で労働許可証を得るのは未だにか なり難しいようだ。

アメリカに移り住んだ彼女を訪ねたことがあった。フリーターで日本料理屋のウェイトレスをしていたが、外国からやってきた友人のために仕事を休ませてもら えるなどということは許されない。少しでも隙を見せれば仕事は他の人へと回ってしまう。彼女は、妹や友人たちに頼み、空いている時間を利用しては、代わる 代わる私の相手をしてくれた。

アメリカでの成功は、金持ちになること。明白だ。そのために1セントでも稼ごう、浮かそうとする。ロスからシアトルの国内便を予約しに、ハリウッド通りの 中国人が経営する券売屋を紹介してもらい訪れた。友人の友人のため、あれこれ問い合わせた結果、ある便を薦められた。大手と比べて10ドルも安い。航空会 社の名前は一度も聞いたことがない。国内便でも、墜落すればその話は即座に世界を駆けめぐるが、アメリカでも墜落となるとあまり話を聞いたことがない。し かし豊かな日本人は安全をブランドで買うことにし、ユナイテッドが最終的に選ばれた。これではいつまでたってもアメリカンドリームに近づくことはできな い。

Tuesday, September 7, 2004

北京の硯

komachiさんのblogのなかに魯迅の硯という記事を見つけました。真鍋さんとこの旅に同行した私にとって、この硯は羨望の的、以来中国を訪れるたびに捜し歩きましたが、見つけられませんでした。
北京で仕事をしていたときのことです。この硯の話をあちらの方に話をしたところ、週末にご案内しますといわれ喜びました。午前中、その方の家の扉を叩き出かけたのですが、案内されたお店に置いてあるのはみな高級なものばかりです・・・
 
市 内バスであちらこちら回って探してみます。王府井では、観光客を相手に骨董品を売りつけていそうな店、北京飯店の先に最近できた高級百貨店、そこで見たも のはみな、立派な彫り物が硯に組み込まれていて、魯迅が質素に使っていたものとは大違いです。魯迅の上海の簡素ですが上質な空間にはふさわしくありませ ん。案内してくれた奥さんは、私が首を縦に振らないのでいらいらしてきているのがわかります。私がほしい硯の使用を懸命に説明したのですが、どうも理解い ただけません。

あきらめてホテル近くへバスで戻ります。降りたところは近所の市場。一寸覗いてみませんか?とお願いし、市場の文房具屋さんに目をやるとありました。いとも簡単に手にできました。それも極安で。何しろ小学生が使う文房具だったのですから。

この話のオチはこうです。奥さんはいつも日本からやってくるお客さんの買い物相手をさせられていました。日本のお客さんはお金をうんと使って帰ります。奥 さんは、私もきっとそんな買い物がしたかったのだと、勝手に思ってしまったらしいのです。私はお金を持っていませんし、高級品に縁のない生活をしていま す。ただ、簡素で上質な味わいがほしいだけです。

Monday, September 6, 2004

「漢字文化」って?

文 化往来という新聞欄で今日、「漢字文化、東アジア各地で関心高まる」という表題で一文が乗っていました(日経新聞9月6日号朝刊)。日本の大学が東アジア の国と地域の研究者を集めて開いた「東アジアにおける漢字文化活用の現状と将来」というシンポジウムの概要です。私にはとても興味深いものでした。なぜな ら、先人に倣おうという趣旨に思えたからです。いや、それが正しい目論見なのかもしれません・・・

中国では
・近年、伝統的文化を見直す傾向が強まり、小中学校の国語教育も古典重視の色彩が強い

台湾では
・先人の経験と知恵を漢字文化に学ぼうとする姿勢が顕著

韓国では
・経済第一主義への反省から漢字文化の持つ道徳的・精神的価値を評価
というものです。

自分たちが勝手に見捨てた漢字文化を見直そうという趣旨は、私には喜ばしいことなのです。しかし、漢字というデザイン言語はまた、漢字というアイコンがも ともと内蔵している表意をも呼び起こさせるものでもあるわけです。ローマン文字の表記文字とは違うわけです。注意深く進めないと・・・なんか一寸怖い話に なるのではないか、心配します。

Friday, September 3, 2004

森坂のNPO (台湾)

台 湾東海岸、日本占領時代台湾桧や樟脳を日本に送り出すため造られた林場、森坂。日本式官舎群が残る森坂。10年間に渡って見つづけてきたこの村が、自立す るために林場自らが計画の立案をたてました。都立大学の学生によって再生計画の基礎調査を行った報告会を兼ねて、2000年9月23日に、日本から識者を お呼びして森坂NPOを開催しました。

その会議に参加していたKeyCiTi というWeb Magazineの女性記者によって書かれた記事です。Web上から引用させていただきました。 (文字化けするときは、システムに中国語フォント-Big5を組み込んでください)

[chinese Big-5] 主題報導/相會摩里沙卡~來自日本的森阪之友

1996 年6月有位東京都立大學研究生加藤三香子,正試圖尋找一個社區形村落研究居住民的組織與土地結構等,因緣際會的她發現了林田山。這個日本人為了產業需要而 開發的日式居住村,令她驚訝的是,在日本目前也找不到的戰前日本官舍村落,卻在台灣花蓮一個叫萬榮的地方依然存在著,未遭到破壞而且被繼續使用著。

九月二十三日(六)在林田山活動中心有場主題為‘台灣林業村-森阪’的研討會,起源於1996年6月起,來林田山做論文研究的
東京都立大學研究生加藤三香子帶著她的論文『關於台灣林業村『森阪』日式住宅之維持與變化之考察』回到林田山發表。

加藤的論文除了做林田山的、歷史背景書寫、住宅建築考據外,尤其以台灣光復後對原日式住宅所做之增改等變化之記錄為重點,並對林田山之未來的觀光產業規畫提出一番建議。

日治時代沿著河川開發成細長的社區,住戶的配置依自然環境之良疋、職能的高低予以分配建置,也就是以事務所為中心,以靠近鐵道配置中高級職員宿舍,較遠之 地則配置下級或員工宿舍。另高級官員則建在事務所之上,斜坡景觀較好之地。當然,光復後再建的住宅,因為台灣人所建蓋,主要廚房改為水泥地接近台灣人習 慣,屋頂採水泥則接近日式風味,還有透氣窗被封閉了,紙門變成木板門、踏踏米亦改為木板式地板。從這些現在尚存的建築物中可以觀察到不同族群因生活習慣的 不同而改見得的化變遷。

加藤在提出的森阪規畫書中將目前的林田山規畫為以森林遊樂觀光產業為主的園地,從入口處有住民文化區、運動區、行政中心及野外活動散步區跟宿泊設施區。畢竟,隨著人口逐漸稀少,昔日的美麗林業村是否將一去不返,是很多人憂心的問題!

國立花蓮師院鄉土研究中心主任姚誠會中亦表示,像這樣的文化觀光規畫是很多關心林田山的亦曾設想過的規畫,包括文化局曾一度希望將之規畫為藝術家進駐的國 際藝術村,但是如何兼顧到社區裡住存的現居民,才是最令人感到兩難的問題,如何不反客為主並兼顧居民的意願都是未來要考慮的方向。

日本NPO(非營利組織)綠色列島事務局長高橋純先生,十年前曾來過林田山,本身是詩人的他不僅帶來日本非營利組織的工作實例與大家分享,也一再呼籲認識自己的財寶、加以保護利用,營造更健康、藝術化的社會都是林田山居民應共同體認的。

同屬NPO的青檜之會主催者,本身是建築師的市川皓一則提出如何保存日式房舍及義工組織如何運用的作法,讓昔日的摩里沙卡成為『匠的里』。

林田山有分特殊情感的大行征先生,每年會來林田山一次的他則提出傳統工匠技術在林田山之運用,他建議林田山可以將現
有住宿改良並雇用工作人員,從事木材加工生產等附加價值的事業,再創林田山。自然景觀優美的林田山,日式風味的房舍一直吸引離去的日本人及遷出的居民常常來此流連回顧,檜木興建的日式住宅極具觀賞與居住的實用性質,他深深地相信林田山的未來不會消萎。

文化局郭課長亦在場表示文化局已將林田山社區納入明年社區總體營造的重點社區了,她並響應NPO的理念,希望在地有心復興林田山,可以統合現有資源,與縱管處、萬榮工作站、林務局等單位相互配合,以達社區、文化、產業、生活等兼顧的總體營造。

參加的當地耆老以流利的日語與日本人士交談各項問題及交換意見,莊明儀先生亦精心準備了當地檜木製作的匾額『森阪之友』贈予日本友人留念,會後的餐點由豪 邁的女里長親自煮了兩大席大餐招待,酒酣耳熱之際,拍照留念、敬酒自不在話下,客家話、福老話、日本話、泰雅語也都出籠了。這場深具文化交流與歷史傳承的 座談會就像瀰漫林田山周遭的芬多精,也像這頓大餐一樣,芳香四溢。

(撰文/戴惠莉)

Thursday, September 2, 2004

「看海的日子ー風櫃の三合院住居」十年後記

台湾映画界の重鎮、侯孝賢監督若き日の作品に「風櫃からきた少年」という映画がある。澎湖島で生活する悪ガキ達の生態を活き活き描写して傑作だった。その 少年たちの仕種に勝って映ったのが、澎湖島の風景。どの場面も左右にのびた水平線が占めていた。台湾本島では見ることのない情景に一度訪れてみたい、で仲 間達と旅をした。

映画のなかで一番印象に残ったシーンがある。悪ガキたちが喧嘩をする。別のグループの人間に怪我をさせ、警察沙汰を引き起こす。家に戻るに戻れず、ガキた ちは海岸際に立つ小さな廟の前で思い悩む。ガキたちの横顔、小さな廟、波立つ海、夕日の赤。ここを訪れた大人たちは、小さな廟に座り込み同じように写真を とった。

atに文章が掲載されると、もの書きの友人から電話が来た。初老という表現はおかしい、自分の事を書いているとしたら初老ではない、同年代の人間に失礼 だ、というものだった。当時40台後半だったはずだから、今思えば確かにおかしい。しかし、カミさんが死んだ直後ということもあり、限りある明日などと思 い巡っていたのが、初老という表現になったのかも知れない。