Tuesday, August 31, 2004

台湾タクシー事情

海外でタクシーに乗るのは厄介なものだ。 目的地にちゃんと連れて行ってくれるのか、料金の支払方法は、チップは等等気苦労が多い。座る席も運ちゃんの隣に座らされることもあるし、相乗りすること もある。友人たちと台湾を旅した際、数人が帰る当日に故宮博物館を訪れ、我々の待つホテルにタクシーで戻ろうとすると山道を登り始めて泡を食ったと話して くれたりした・・・ (2001年3月8日記)
 
・台湾でタクシーを乗りこなす

10年前と違って、台湾でタクシー代をボラれたと言う話を今は聞かない。にもかかわらず、厄介な話はやはり残っている。ここ数年の人件費の高騰が、タクシー料金を分かりにくいものにしている。半年に一度の割で台湾を訪れている私でさえ、やはり分からない。

例えば台北市の場合、去年の9月はメーター料金に15元を加えて精算だったのが、今年はなくなっていた。台中市では50元足して下さいといわれた。怪訝な 顔の私を見て運転手は、ダッシュボードのはり紙を指先で叩いてみせた。次々とタクシー料金を値上げするため、メーターの改修が追い付いていないのだ。それ でもサバを読まれたことがなかったから、運転手も良心的になったものだ。その一方、105元の料金に200元出すと、100元しか取らなかったりするから 面白い。

・タクシーをハイヤー代わりに乗りこなす

タクシー料金は安い。公共の乗り物が圧倒的に安いこともあり、タクシーもそれに比例している。台北市の基本料金が80元に値上げしたといっても、日本円で 300円程度。夜中に市内をうろついていても1000円あればホテルに戻ることができる。だから時としてタクシーをハイヤー代わりに使ってみたりする。交 渉事なので、言葉が分かるか駆け引きの上手な人でないとあまりメリットはでないが、それでも日本と比べれば安い。

日曜日の夕方、台湾東海岸の田舎の駅から観光地花蓮に向かった。明日、ここから飛行機に乗るため一泊することにしていた。駅の改札口を出て宿を探すことに する。一般の観光客はもう帰路についており、日曜日の夕方、観光地に降り立つ人間などほとんどいない。私は花蓮が不案内だ。二人で観光案内所に向かって歩 き始めると、1人の女性が近付いてきた。個人タクシーの運転手だった。彼女にいくつかの条件を出すと、600元ならと返事がかえってきた。ほぼ二千円強の 値段だ。

まず市内の繁華街付近で800元(3000円)程度の宿を紹介してもらう。
チェックインの後、めぼしい市内観光スポットをひとまわりする。
花蓮名産、ワンタンの有名店を案内してもらいホテルに戻る。
この条件の中で時間は無制限。

海浜公園の夜市で射的をし(見事十発十中)、
花蓮一のホテルでコーヒーを飲み(もちろん彼女にも御馳走)、
ワンタンの店を再確認してホテルへの道を走る(ホテルから徒歩5分)、
明朝飛行場まで送ってもらう約束をして別れた。
その間約1時間半。日曜夕方の、客が少ない時だったからできたことだろう。

・台湾の人は総じて親切だ 特に田舎では

竹構造住居の棟梁に会うため、斗六という田舎町の駅前のタクシー会社に顔を突っ込む。
「鹿谷と竹山あたり回ってきたいんだけど、いくら?」
バスは走っているが、短時間に数箇所を回らなければならない。
「時間は?」
「半日はかかるな」
「2000元でええわ」 七千円弱だ。
「オーケー。ついでで悪いけど今日中に台北に戻りたいんだ、汽車の切符買っといてくれる?」
「おーい、ちょっと話し聞いてやってくれー」
運ちゃんが事務所のネーちゃんに声をかける。
これで、戻るとそのまま汽車に乗る段取りができた。

今回はアシスタントが同行していない。言葉の問題がある。棟梁は台湾語しか理解できない。私は台湾語が分からない。通訳は運ちゃんがしてくれた。
棟梁と別れて昼飯を取ることにする。竹の多いこの地方の名物料理は「竹筒飯」。竹づつにまぜ御飯を入れて蒸したもの。運ちゃん入れて三人で食卓を囲む。料 理が終わりに差し掛かると、運ちゃんが老板娘(女性店主)を呼んで支払いをしようとする。気分は飯代は払います、ということ。人間関係に気を配る、それを なにげなくしてみせる。もちろんこちらで支払った。

半日以上、車と運転手を拘束して食事をとって列車の切符を購入しても一万円でお釣がくる。台湾ではそんな旅もできる。

Monday, August 30, 2004

中国社会は今日が盂蘭盆

今日は農暦7月15日、十五夜です。農暦が活きている中国社会では今日は盂蘭盆。中元節とも鬼節とも呼ばれています。日本の裏盆は、もとをただせばこの盂蘭 盆からきたのだそうです。盂蘭盆の時期、台湾でどんな行事があったか記憶はありません。やはり盛んなのは一ヵ月後の中秋節、地方ごとに特徴ある行事がもよ うされることでも有名な節です。

Saturday, August 28, 2004

[東アジアの人たち] 台湾の陳さん

東アジアで出会った人と旅 は、多くの人たちとの出会いによって成り立ってきた。一緒に行動してくれた人たち、紹介していただいた人たち、偶然出会った人たち、短い旅を魅力的に過ごすことができたのは、そんな人たちとの出会いがあったから。

ここ二年間、台湾を魅力的な旅にしてくれたのは一人のお嬢さん。私の、こんなものを見たい、あんな人に会いたい、どこそこに行ってみたい、という勝手気ままな要望は、彼女によって実現することができた・・・

[写真] 台湾取材に協力してくれた陳さん、5月に英国留学に旅立った。右は竹棟梁の息子さん 彼と出会ったことで棟梁に会うことができました。後ろに見えている住宅は、竹の家で紹介した住宅の玄入り口部分。ここは台湾屈指の高級茶の茶どころ、このお宅でも茶を煎じていた。

しかし同時に、この二年間の台湾経済は、急速に停滞していった二年でもあり、勝手気ままな日本人とボランティア活動で人生を満喫する時勢ではなくなって いった。あれやこれやの紆余曲折、彼女は英国留学を選択する。きっと正しい判断でしょう。しかし、残された日本人は手足も頭脳の一部も失い、行動の自由を 奪われることにあいなったのです。

二年前、台湾でリゾートホテルの仕事をした際のチームのスタッフだった陳さん、愛嬌のある笑顔と仕事熱心さで、みなから信頼されていた。彼女、この会社の総経理が大学で教えている学生。大学院の修士論文を総経理のもとで作成し、そのままここで働くことになった。

その後、リゾートホテルの仕事が中断、チームのメンバーも一人二人と去り、私も日本に戻ってしまった。彼女は会社に留まり、プロジェクトの整理と再開に備 えていた。私との連絡窓口もこなし、インターネットメールという新しい形の連絡方法が有効性を発揮していた。わたしは、日本側の作業を終えては台湾で連絡 会議に参加、その都度彼女の協力を得ながら台湾の職人さん、残された日本人村を訪れてきました。

彼女の能力は幅広い人脈。私の希望を実現するにはどこから押していけばいいかを見抜く能力。気後れしない人との折衝。私の不思議な中国語を理解してくれた のも彼女の努力あってのこと。取材のテープを起こしてくれたのも彼女。ただ、工学系の教育のためか、要点はしっかり押さえてくれるのだが、行間が見事に省 かれてしまう。括弧付きの部分が紙の上から消えてしまい、味のある部分がわからない。台湾語での会話では特にそうだった。

竹大工の棟梁も、鹿港の宮大工のじっちゃんも彼女には目を細めていた。私や周りの人たちは「師匠」と呼びかけるのに、彼女は「おじいちゃん!」とささや く。大学の研究者たちも、彼女からの要望、「これこれの日本人があれこれの話を聞きたいといっています」を断ることはなかったようだ。

東海岸にある旧日本人村の営林署で「森坂シンポジウム」(chinese-big5)が開催できたのも彼女のおかげ。担当者に連絡を入れて不在でも、彼女の名前、「瑾儀から電話があったと伝えてください」で済ませていた。誰も彼も彼女を友人か娘代わりにしてしまう。

このようなキャラクターで彼女は取材に欠かせないパートナーとなった。しかし、世の道理でこんなうまい話はいつまでも続くわけはない。案の定、プロジェク トの長期中断で彼女は目標を別に置くことになった。外国への留学、合衆国にする予定は最終的にロンドン大学ITデザイン科を選択した。そして6月半ばの入 学式を前に、一ヶ月の家族旅行を過ごしに出かけた。彼女の成長を願うことにして、私は次の選択を探ることになった。  (Jun/23/01)

Thursday, August 26, 2004

「岩肌をよじ登る民家ー釜山の電柱」十年後記


・・・  釜山の傾斜地住宅では、1階の壁の延長が上にすむ住まいの壁へと続ながっていく。屋根は集落の共用の通路として利用され、時には子供達のかっこうな遊び 場となり、キムチの壷置き場、洗濯物干し場として使い分けられる。複層した用途が空間にはり付いてくる。場があれば機能を誘発する。現代建築の、着せ換え 人形のような物つくりでは、決して創り出せない空間を、釜山の山は教えてくれているかのようである。 ・・・ photo:(C)Eiji KITADA

「日本のお父さん」という表現は外国人が日本を言い当ててなかなかの表現だと思った。外から見ると日本の「お父さん」は総理大臣ではなく、「天皇」なのだ。

台湾の飲み屋で女の子が日本と台湾の比較する際に口にするのが、「わたしたちの総統、あなたたちの天皇」。少し時代を遡って日本の中国識者竹内好さんが、 「外国人に日本人のものの見方考え方を知ってもらうのに紹介するのは教育勅語です」という文章をどこかに書いていた。書かれたのは60年代だったかもしれ ないので、高度成長期の日本人を教育勅語の精神が言い表しているのだと思われる。
竹内さんは教育勅語を批判的に引用しているのではなかった。天皇制を悪用したのは軍人たちだという思いがあったのだと思う。

台湾で仕事をしていたとき、幼少時に日本教育を受けた方々からよく教育勅語を聞かされた。今でもまるまる暗唱できる。これは驚きだった。

先日、写真家の北田君がソウルから戻ってきた。総督府のない風景、ファーストフードとローマ字の看板、地下鉄の車両にまで張り巡らされた携帯電話網。かつ て、儒教の教えが色濃く残っているのは韓国しかない、といっていたのが嘘のようだ。目上の人と話をするときは顔を横に向けて話をしなさい、先にたばこを吸 うのはやめましょう、などなどごく日常の仕草にも礼節があったのだが、携帯電話の普及はそんな話を無縁にしてしまったのではないか。

Tuesday, August 24, 2004

長距離列車の楊梅売り

上海での仕事を終えて、上海駅から蘇州に戻る列車に乗りました。座席指定です。私たち三人は、通路を挟んで横一列に並んでいました。出発寸前、反対側の一番 奥、空いていた椅子に滑り込んできたのは、大きな手提げ篭を抱きかかえたおばさん。席に着くや否や、何か独り言のように話を始めました・・・

疲 れていた私はうたた寝を始めたのですが、なにやら周りが賑やかになってきたようです。目を開けると、周りの人たちがおばさんの話に耳を傾けています。どう やら蘇州の先、揚州から上海に楊梅を売りにきた帰りらしい。余ってしまったのでどうだどうだと周りに売り込んでいます。おばさんの隣の女性が味見をさせて くれといって、手に二つ三つ受け取り口にします。お気に召したようで、赤と青のストライプのビニール袋に楊梅を詰めてもらいお金を支払いました。

私たち同行の一人が、それに同調したように楊梅を注文しました。いくつかこちらにも回ってきたので口にします。どうせ小遣い稼ぎの物売りとタカをくくって いたのですが大違い、美味しい。それから後はおばさんを囲んでおばさんの楊梅の話に周りの者みなが聞き入ります。美味しい楊梅を作り出すのがいかに大変な ことなのか、そしてこの美味しい楊梅の木が植えられている山を買いたいといってきた人の話。断ると、ではこの木一本十万元で買いたいといったこと。それで も断ったとのこと。百姓の生活は実に厳しい、それでも楊梅の山を手放すつもりはないと続けました。

最初に購入した女性もまた、おばさんの楊梅をいたく気に入ったようで、おばさん、次はいつ上海に来るのか?来ないなら送ってほしいと頼んでいます。それが駄目なら山まで買いにいくとも。楊梅今が季節だそうで、あと一週間しか味わうことができません。

同行の台湾人が、私のことを指差しておばさんに言います。
「この人は日本で百姓しているんだよ」
私は同調してうなずきます。
おばさん、驚いた顔つきで私を覗き込んでから、疑りぶかそうな眼差しで言いました。
「本当かい?嘘だろ。百姓は百姓がちゃんとわかるんだよ。あんたは違う!」

ごめんなさい。そしてここにも本当に自分の愛する農産物を持っている人がいる。金拝主義全盛の中国で、パール・バックの「大地」にでてくるようなおばさんに出会え、ある種の感動を覚えました。

蘇州に戻り、夜の会食の席。投資家の一人の女性が街中で手に入れたお土産をみんなに振舞いました。高価だったといってテーブルにあがったのは楊梅。先ほど 食したばかりでしたが口にしてみました。思わず口をついて出そうになったのが「なんだ?ぜんぜん旨くない!」。台湾人の友人が諭すように私を見ながらうな ずきました。そう、おばさんの楊梅、すばらしい作品だったのです。

Monday, August 23, 2004

「水滸伝」 百八の星

「水 滸伝」は私の愛読書の一つである。一度読み終えるとまた読みたくなる。大体五年から十年ごとに読み返している勘定になる。手元には異なった四種類の「水滸 伝」がある。一番読みやすく面白く書かれているのはやはり吉川英治本。しかし彼の死により、話は百八の星が梁山泊に集まったところで終わってしまう。これ では「水滸伝」のオチが抜けてしまう・・・

平凡社が出版した駒田信二訳本にはそれがある。そこには自然発生的かつ必然的にできあがってきた組織の最後が描かれている。このお話は組織の形成とその終焉を描いたものなのだ。

「水滸伝」には起承転結という、従来の小説の構成法をなしていない。あるとすれば時代の精神を代弁する百八の星を、非常に柔軟なプラットフォーム上で躍動 させる、ただそれのみ。無頼・豪傑・落ちこぼれ・狼藉者・駄目役人・辺境の山賊・野盗の群れという百八のパターンを組み込んだだけのお話。

これらの星を離合集散させながら梁山泊に一同会したところで最強軍事共同体が形をなし、一段落する。しかしこの後がひどい。時代に迎合してしまう。朝廷に この軍隊を売り込み、官軍に組み込まれてしまう。徽宗の軍となるのだが、辺境の匈奴や地方軍閥の討伐を続けるものの、百八の星は一つ二つと消えていく。そ して星・パターンがプラットフォームから外れていくことで、パターンとプラットフォームの関係はバランスを失い、彼らは自らの役割を終えてしまう。

肝心なのは、個性豊かで才能ある百八の星も、優れたプラットフォームを持たない限り役目が果たせないということ。そして、プラットフォームもまた変化する、変身する、変節するということだ。 [考察-1]

Thursday, August 19, 2004

「アジアを夢見る-上海1945」十年後記


・・・ 昭和六年、日本植民地政策の最盛期に、少年小説作家の山中峯太郎は「亜細亜の曙」を発表する。本のなかで主人公の陸軍将校本郷義昭はインディー・ジョーン ズばりの冒険活劇をみせてくれる。ジョーンズとのちがいは本郷が鉄の意志をもって「国家の危機」を救ってみせるところにある。アジアの開放を望む本郷は中 国人に向かって号ぶ。「聞け!支那人諸君!諸君は日本帝国の真精神をいまだ知らず、○国に従ってみだりに亜細亜の平和を破る。めざめよ中華国民!たって日 本とともに亜細亜をまもれ!」・・・ photo:(C)Eiji KITADA

[写真 戦前のフランス租界・上海市静安区の工事現場 後方に見える建物は静安飯店 今では手前の道路は拡幅され、高架の高速道路が走り、超高層建築郡に姿を変えている 静安飯店の食事は当時実に美味かった]

テレビで見る現在の上海は異様としか思えない。まるで万国博覧会のようだ。

十年前の上海はまだ、アンドレマルローが、金子光晴が、蒋介石が、「太陽の帝国」の作者バラードが愛した上海の面影は残っていた。そこには20世紀前半に 上海を埋め尽くした建物が残されていたから。薄暗く、雑踏と猥雑さの匂いが残されていた。また、外国の観光客にもそれで売っていた。今の観光客は上海で何 を見るのだろうか。

1985年だったか、一冊の本が出版される。「宋王朝」という宋家三姉妹について書かれた本だ。長女は中国金融界を牛耳った男の妻、次女は孫文の妻として 中国人民に操を捧げる、三女は蒋介石の妻、彼女たちを中心に激動の中国の歴史を描いた本として有名である。出版前、この本の内容が知られるようになると、 作者は見えない影からいろいろな圧力を受ける。刺客が指し向かれたとか、終いには出版元からすべて本を買い取ってしまえという話もあったらしい。

原因は上海時代の蒋介石の行状が描かれているからだ。嘘か本当かは判らないが、蒋介石はやくざの庇護の元で権力を維持してきたというのだ。英文の本の作者 紹介欄には、資料の出所にはFBIからのものもある、と記されている。台湾の一部では大騒ぎだったようで、中文に翻訳され台湾で出版されたものには、原本 にあった箇所がいくつか削除されていた。やはり上海はよほど魅力あふれる都市だったのだろう。

Tuesday, August 17, 2004

[東アジアの人たち] 風邪薬で失明したピアノの先生

馴 染みのホテルの向かいにある馴染みのクラブ、ここではカラオケは生のピアノで歌うことができました。馴染みのホテル地下室で店を取り仕切っていたママが開 いたものです。ピアノの先生、先生ですからあちらでは男性と決まっています。先生の名は張。ウマが合ってか、自宅に遊びに行ったりしたものです。あるとき 台湾に出かけて馴染みのクラブに顔を出しますが、張さんは見当たりません・・・ 

ピ アノの先生、なぜ先生と呼ばれているかというと、ママに頼まれ、新しく入ってくる店の女性に歌の指導をしているからです。店の女性、歌の上手い下手があり ますから、先生が彼女たちの声の特徴、音程・リズム感・得意とする歌などを理解し、ピアノを合わせるというかなりの特殊技術。自費出版ですが、カラオケ・ テープも何本か出したことがあります。

張さん、ピアノは上手いのですが、飲む打つ誘うも上手、クラブの女性にも人気がありました。一度彼女たちのレッスンがあるというので、練習風景を覗きに 行ったこともあります。和気藹々、和やかで始終冗談の飛び交う楽しそうなレッスンでした。その先生の姿が見えなかったのです。

クラブの女性に聞いてみると、風邪を引き、医者にもらった薬が原因で視力が弱ってしまったとのこと。お店の薄倉闇でピアノを弾くことはもうできない、自宅 で静養中と話してくれました。週末の昼過ぎ、店の女性二人を伴って張さんのお宅を訪ねて見ます。元気そうでした。冗談もどんどん飛び出してきます。視力が 弱っていても、何とかピアノが弾けるよう練習していると話してくれました。ただ、面倒を見ていた女性は始めて拝見する方でした。お宅を失礼してお店の女性 に聞いてみます。前の人は、張さんの目が治らないとわかったとき、彼の元からいなくなったそうです。

しばらく台湾を訪れることはありませんでした。おそらく二年後あたりだったと思います、久しぶりに出かけた馴染みのホテルから張さんのお宅に電話を入れてみました。若い男性が電話を受けました。張さんと同じピアノ弾きの息子さんでした。話を聞いてみます。

「おやじは嘉義の実家で静養している。体調はよくない」
「誰が面倒見ているの?」
「お袋」
「えっ?」
「みんなおやじを捨てていなくなった」
「・・・・・・」

その後しばらくして、張さんは亡くなられたそうです。ご冥福をお祈りします。

台湾が海外の新薬の規制緩和を行ったのは、日本よりはるかに早かった。どのような処方で新薬を使うか、台湾政府がどう対処したかは知らない。しかし、欧米 の欧米人の肉体条件、生活様式、食内容などなど、中国人と比較しても一目瞭然としているにもかかわらず、恐らく不十分な臨床実験、処方条件とが、多くの副 作用を引き起こしていたと見るのに不自然さはない。張さんの例のほかにも、日本で個人輸入が始まったばかりの経口避妊薬を薬局で購入し、服用、激しい嘔吐 に襲われた女性の話しを聞いたこともある。医者が不用意に張さんに薦めた新薬(服用方法を間違ったのかもしれないが)、漢方薬というスローメディカルな方 法は、明日へ急ぐ今の台湾には通用しなくなってしまったのだろうか。

Monday, August 16, 2004

私の海外常備薬

海 外に出れば自分のことは自分で。自己責任の世界です。特に体の面では注意が必要。基本的に医者が嫌い、自己治癒力を信じてますのでこれといった怪我も病も ありません。とはいえ注意は怠っていないつもりです。といっても何があるかわかりません。必要最低限の常備薬を持ち歩いています・・・ 

komachiさんが「何はなくとも糾励根」と いう万能薬を紹介していました。「・・・効能書きには、神経痛、ロイマチス、肩凝り、腰痛、うちみ、くじき、肺炎、感冒、肋膜炎、腹膜炎、痔、歯痛、扁桃 腺炎、乳腺炎とあって、直す目的によって貼る場所も細かく指示されている・・・」。何でもいらっしゃいみたいです。私の常備薬にも加えてみようかと。

ここ十年、常日頃小さなバックに詰め込んでいるものは

・正露丸 腸がらみはみなこれで 歯痛にも
・固形解熱剤 緊急の高熱に 尻の穴から差し込むタイプ
・ガロール 飲みすぎに 肝臓はこれで
・産業用マスク SARS対策 最近は中国に出かけるとき
・裁縫セット 糸と針があれば皮膚を縫うにも使えると聞いていますが使う気はしません
・パーム油 洗面・洗濯・お腹が硬くなれば飲むことも
・油性消毒剤 液状より止血効果が高い 移動が多い際には

私の場合、一番多いのが下痢。これは体質のようです。一度、ベトナムメコン川の南で食したものが大当たり、動くに動けないほどひどかった事がありました。下痢には原料を与えない、食さない、水分も(脱水状態にならない)必要最小限に。三日もしたら元に戻りました。

年齢が上がっている今ではどうだか。どちらにしても無理は禁物です。

Sunday, August 15, 2004

今日は「光復の日」

「悲 情城市」という台湾映画がありました。ファーストシーン、無条件降伏を伝える昭和天皇の言葉がラジオから流れている。停電で薄暗い部屋、灯火管制で黒い布 に覆われた電灯に灯が戻る。主人公がそのことに汚い言葉を投げかけながら、黒い布を丁寧にまくりあげると、部屋は明るさを取り戻す・・・

八月十五日、東アジアの多くの国にとって今日は「光復の日」。日本の敗戦により、光が復活した日。

私が興味を持ったのは、日本が占領していたいくつかの東アジアの国々でも、この玉音放送が流されたこと。で、それは何時だったのでしょうか。時差のあるこ れらの国々、日本国内で流された時間、正午(と聞いていますが正確には知りません)だったとしたら、台湾でしたらそのとき午前11時のはずです。

始めて台湾を訪れたときから利用しているホテルのママさんに聞いてみると、玉音放送の記憶はあるそうですが、時間までははっきりしていないそうです。気になっていたもので・・・もしご存知の方がおいででしたら教えてください。

Friday, August 13, 2004

結婚披露宴の特別な出し物

舞台の上では妙齢な女性が、薄い衣装の端を手に、天女のように舞っていました。バンドの音にあわせて、衣装を一枚はぎ、そしてもう一枚。もう彼女の身体には胸と腰を覆うわずかな布切れのみに・・・

台 北に滞在してもうかなりの時間がたっていました。いろいろな方にいろいろな場所、いろいろな食べ物、いろいろな体験を味あわせてもらいました。しかしなが ら、いまだに結婚式に参加したことがありません。縁起ものですから、では今週末に、というわけにはいきません。いつか機会があったらと話をしておいたとこ ろ、ホテル地下室のスナックで歌を歌っている女性から話が来ました。昔のバンド仲間、流しで彼女同様歌を歌っていた女性が、結婚式を挙げることになったか らいきませんか、との誘いです。

台北市内、頂好市場近くのどこか、建物が密集する一角の大きな集会場(体育館?)に、たくさんの丸テーブルと大勢の客人たち。こちらの披露宴でスピーチが 披露されることはほとんどないそうです。ただただ飲んで食べておしゃべりをして。新郎は料理の先生、つまり板前、がっしりとした体と丸太のような腕。そこ には見事な刺青を見ることができます。新婦は歌手、酒家(日本でいうキャバレーらしいのですが、猥雑な感じはありません。酒と料理とバンドと大きな丸テー ブルの客に女性が同席する大きな個室。流しには稼ぎ場所です。)、クラブ、宴席、結婚式、葬式のお清めの場等々で、バンドといっしょに歌ってきたそうで す。小柄でとてもかわいらしい方でした。

新婦とその仲間たちは歌い手さんです。当然のように舞台に呼び出され、歌を披露させられることになります。ホテル地下室の彼女、持ち歌は「潮来のいたろう」、マイクなしで会場に声が響き渡りました。ほかの歌手仲間も次々と歌を聞かせていきます。やんやの拍手喝さいです。

宴も終わりにちかずくと、薄衣に厚化粧の女性が足早に舞台中央へ。バンドの割れたラッパの音とともに身体をくねらせながら踊りを披露し始めました。薄い衣 装の端を手に、天女のように舞っています。そしてバンドの音にあわせて、衣装を一枚はぎ、そしてもう一枚と脱ぎ始めたのです。もう彼女の身体には胸と腰を 覆うわずかな布切れのみに。私はただただ驚き、目を点にして舞台の上を見つめています。しかし会場では変わらずおしゃべりの声が行き交わされ、舞台の上の 出来事に注目する人は見当たりません。一瞬踊り子が胸の紐を横に引き、彼女の肌があらわに。と同時に、彼女は胸に手を当て小走りに舞台裏に消えていきまし た。会場はあいも変わらず喧騒に包まれていました。

「もちろん違法です。警察には話しつけてあると思いますよ」。ホテルの彼女はそう説明してくれた。
昔々のお話です。今でも田舎にいけばあるかもしれませんし、日本でもかつて、このような楽しみ方をしたことがあったかもしれません。限られた娯楽を精一杯楽しんだ、古きよき時代だったのかもしれません。(といってもわずか二十数年前か・・・)

[写真:結婚披露宴のテーブルと二人の女性歌手]

Thursday, August 12, 2004

台北の演芸小屋

まさか台北で演芸小屋の扉を押すとは思って もいませんでした。ホテル近くのビル、三階にその小屋はありました。十人も立てばいっぱいになりそうな舞台、その周りを取り巻く五十ほどの椅子。舞台には 子供(に見えました)と中年の男性、それにやたらと背の高いアラブ系の男が・・・

週末に退屈していたある日、ホテルの女性従業員の一人が「今日は面白いところに連れていってあげる」とでかけたのが演芸小屋でした。

満員の席、大声で掛け合う三人、陽気な笑い、どこの国でも変わりない風景です。とくにアラブ系の男が話をすると、小屋全体がどっと沸きます。そのころの私 は、何とか標準語が理解できる程度でしたが、彼らの話は台湾語でした。そんな私に、彼女は掛け合いの面白さを標準語に翻訳して同時通訳してくれます。私の 笑いはいつも一テンポ遅れましたが、それでも芸人たちの芸域を満喫できたのは彼女の才能のおかげでした。

このアラブ人、台湾生まれの台湾育ち。台湾語と標準語が使い分けられます。二つの言語の似通った発音を上手くやり取りしてお客の受けをとっていました。標準語ではなんと言うこともない単語も、台湾語に読みかえればもう艶笑話、下ネタ話。充実したひと時でした。

もう二十年も前のことです。今はもう小屋はありません。

Wednesday, August 11, 2004

「三十八度線の北-建築のない風景」十年後記


見 るべき建築があるわけでもなく、ただ荒涼とした風景が広がるのみの場所。見えるものは、北からの進入を防ぐため海ぎわに張られた、どこまでも続く鉄条網 と、運河の傍らでひたすら三十八度線の北へ戻れる日を待ち望む人々の姿かもしれない。束草では、人が住み続けているにもかかわらず、建築のない風景がひろ がっている・・・ photo(C)Eiji KITADA

三十八度線沿いの旅から戻って間もない頃、日本のテレビで「チケット」という韓国映画が放映された。舞台は韓国のひなびた地方都市、そこの喫茶店で働く女 たちのお話。喫茶店にコーヒーの出前を注文すると、女性が配達してくれる。女性は配達以外のサービスをして収入を得ることになる。

ソウルから束草のバスターミナルで降り立ち、我々は宿の手配をしなければならなかった。2月、三十八度線に近い日本海側のこの小都市はやたら寒い。ホテル でも簡易旅館でも良かったが探しあぐねていた。暖と口を潤すために喫茶店にはいる。客は若い女性ばかり、それもだらだらと適当にテーブルを占めている。 コーヒーを運んできた女性に身振り手振りで宿はないかと尋ねると、案内しようと近くのひなびたホテルに連れてってくれた。その女性は、帰り際にコーヒーを 持ってこようか?らしいことを言って戻っていった。

それから二日たった早朝、我々は三十八度線に向かう道路が行き止まった町の宿で警察官にたたき起こされた。昨夜は遅くまであちこち歩き回って酒もしこたま 飲んだ後、酔いの残った顔で質問を受けることになった。仲間のうちの何人かが、飲み屋で前線から戻った若い軍人たちとちょっとした口論があったらしい。年 寄りの、日本語の通訳が職務に忠実そうな警官に我々の返答を翻訳してくれていた。警察官は、無礼があってはいけないとの配慮からか、簡単な朝食を注文して くれた。温かいコーヒーとトースト、配達してくれたのは若くて魅力的な女性、我々のやりとりをおもしろそうに聞き入っていた。

「チケット」という映画を見たのは旅から戻って半月もたたない後だった。

Friday, August 6, 2004

祖国を捨てた父への想い

昨日の「漢詩が詠えたら・・・」に一つのコメントを頂いた。二十年来の友人、komachiさんからのもの。祖国を捨てた彼の父親への深い想いが感じられ、ここに掲載させていただきます。

私にも詠いたい漢詩があります。80年近く前に書かれた漢詩です。
私はその漢詩を書いた人にあったことがありません。
私の亡父が朝鮮から日本に来るときに祖父が父に書いた漢詩です。
父が亡くなった後、その漢詩は古い日記に小さく折り畳まれて発見されたのでした。
祖国を捨てた父ですが、その漢詩は生涯捨てることができませんでした。
今、その漢詩は私の仕事場で、私を見下ろしています。

(komachiさん、勝手に公開させていただきました。)

Wednesday, August 4, 2004

漢詩が詠えたら・・・

中 国語を話せるようにならなければいけない、と思い始めていた数十年前、台北にいたときのことです。大それた思いが湧いてきました。「漢詩を詠おう、杜甫の 春望を原語で詠おう!」。早速本屋に出かけて「漢詩のテープありますかー?」とあちこち飛び回った結果、台北駅前の本屋さん街で見つけることができまし た・・・ 

部屋に戻りテープを回してみます。「ん?」違う、ぜんぜん違う、高校で習った「春望」なんかではない!
ノイズの入ったテープから聞こえてくる音は謡曲のように思えました。浪々と、滔々とわけのわからない老人の声が聞こえてきました。

翌日仕事場にこのテープを持ち込み、文化的な興味をもたれていそうな人を探し、ここまでの経過を説明、「どうなんでしょう?」とお聞きすると、春望を詠っ ている人は戦前の方で、詠いの、ある一派の第一人者だと教えてくれました。「貴重なテープですよ」とも言っていただいた。

そうだったのです、漢詩をやすやすと詠うことなど恐れ多いことだったのです、中国世界では。
それでも、日本語でもいい、「くにやぶれてさんがあり しろはるにして そうもくふかし・・・」と懲りずに試みています。

春望 杜甫

国破山河在
城春草木深
感時花濺涙
恨別鳥驚心
烽火連三月
家書抵万金
白頭掻更短
渾欲不勝簪


しゅんぼう とほ

くにやぶれてさんがあり
しろはるにして そうもくふかし
ときにかんじては はなにもなみだそそぎ
わかれをうらんでは とりにもこころをおどろかす
ほうかさんげつにつらなり
かしょばんきんにあたる
はくとうかけば さらにみじかく
すべてしんにたえざらんとほっす

中国茶の「マイカップ」

「さ あさあどうぞ、お座りください」「お茶でもいかがですか?」。台湾の田舎でひょっこり訪ねたお宅ではいつもお茶でもてなされます。知り合いだろうがなかろ うが、役人だろうが警察官だろうが、部屋の真ん中にしつらえたテーブルに座らされ、茶器セットからお茶が運ばれてきます。

お茶が美味しかったのは真夏の台湾、田舎の木陰に縁台を出してご馳走になったときのこと。強い日差しも八月になれば木陰は涼しく感じます。車が少なければなおのこと、蝉の鳴き声もお茶のつまみになりました・・・ 

台 北でも日本同様お茶がブーム、若い連中を中心に茶館が賑わいを見せています。しかし大都会の真っ只中、閉じられた空間の空調のよく効いたなかで味わうこと になります。舌は満足するかもしれませんが、目と皮膚と耳には一味足りないかもしれません。また台湾のあの暑さの中の木陰でお茶を味わいたいものです。

茶飲み友達がお茶器の一人用セット、「マイカップ」を頂いたそうで、早速拝見してみます。陳志成さんという茶器の工芸家が作られたというもの。なかなかの 出来栄えでした。残念なのは、頂いたものにセットを持ち運ぶ箱が付いていなかったことです。(写真は左から茶壷、茶杯、茶葉缶。後方に写っているのは、標 準の茶器セットです)

Tuesday, August 3, 2004

蒸し暑い台湾には日式住宅?

東アジアの国々を訪れていた10年前の台湾では、まだまだ多くの日本時代の住宅を台湾のいたるところで見ることが出来ました。恐らく、東アジアの国々の中で、これほど多くの木造日本式住宅が残されている国は他にありませんでした。

何故今でも多くの日本式住宅が台湾には残っているのか、若い頃に建設工事にかかわって日本式住宅の修繕にも携わってきた一人の建設会社の会長さんに、色々お話を聞く機会が出来ました。

この文章は、雑誌 SOLAR CAT no.36 「アジア涼感生活考」 取材の際にお話を伺ったのもの全文を掲載しています。 

・洪会長インタビュー 「台湾の日式住宅」

出席者:
洪 国隆 双隆建設会社理事長(●)
李 政憲 双隆建設会社社長
大行 征 (○)
日 時:1999年6月15日午後2時から
場 所:台北市双隆営造公司10階会議室
通 訳:李 政憲 氏
記 録:大行 征

○昨日、花蓮の董事長さんのお兄さんの御宅を御案内いただき有り難うございました。お住まいになっている日式住宅がきれいに使われていることに驚かされました。あれ程保存の程度がいい日式住宅は非常に稀少価値のあるものだと思います。

● あなた方が日式住宅に興味をもたれていることは知っていました。花蓮で御紹介したのは、特別に使われている一軒の日式住宅です。何故かというとここに住ん でいる二人の夫婦は、日本の教育を受けています。それに日本への留学もしています。そのために日式住宅の使い方、面倒の仕方はとてもいいものです。日式住 宅の見方も心得ています。

○董事長さんは若い頃に日式住宅の修理改装に携わったと聞いております。その時の経験からお話をしていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

●どういたしまして

台湾が光復(日本の敗戦、台湾での終戦)の後に、そのような機会がありました。私が知る範囲でお答えいたします。

○まず一つ目の質問ですが、もし台湾に日式住宅が作られたわけを御存じでしたらお教えいただけますでしょうか

● 私の知っている限りでは、日本が台湾を50年間に渡って統治したことにより、かなりの部分に台湾の文化と生活様式に影響しました。建築についていえば、光 復前までにかなりの量の日式住宅が作られました。台湾に住んだ日本の人たちは、ここでも日本と同じ住まいと住まい方を望んでいた様です。

台湾でも日本式の教育がなされ、日本式の文化・生活様式が浸透してきました。そんなこともあって、多くの台湾人が日本の建築を好きになりました。その理由の一つとして特に重要なことは、台湾人の公務員にも日式住宅が提供されたことでしょう。

私が理解しているのはこんなところです。

○では二番目ですが、日式住宅が多く作られるようになって、日式住宅も台湾の環境にあうように替わってきたでしょうか?材料、工法、使い方等も含めて日式住宅自体はかわってきたでしょうか?

● 台湾人が日式住宅に住んできた時期は二段階に分けることができます。一つは光復以前、台湾は日本に統治されていたわけですから、文化・生活様式は日本人と 同じ様でした。特に、日式住宅で生活していた人たちにとっては、日本人と全く同じでした。例として、昨日御覧になった花蓮の日式住宅と住み手の生活がその 良い例でしょう。

● もう一つは、教育を受けられなかった人、もしくは農民等。彼等は今までの習慣として、福建地方の民家、もともとの台湾の生活様式を築いていた人たち。彼等 と光復以降台湾に移り住んできたたくさんの中国人。彼等は住民を失った日式住宅の新しい住民になりました。彼等は台湾の状況に疎かったり、なおかつ多くの 移民が貧しくもありました。日本教育を受けていなかった彼等は、日本式の生活様式もよく理解できなかったこともあり、それが原因でたくさんの建物が壊され てしまいました。

● ここに一冊の本があります。この本は53年前にニュージーランドの技術者が書いた物です。この本の内容は二二八事件のことについて見たこと書いています が、そのなかで中国人と台湾建築物の破壊について触れられています。例えば窓など動かすことのできるもの、それらは持ち運び出されてしまいました。そんな こともあって、世の中が安定してきた時に、再び建物を使おうと思って残された骨組みの住宅を修理をしたわけですが、修理の仕方が間違っていたのでしょう、 もともとの日式住宅とは建物も使い方も違ってしまいました。

●この本の中に一部分を御紹介します。

●「・・・台湾に移り住んだ中国人のほとんどが国民党に編入されていて、日本に帰る時わずか100キログラムの荷物に制限されていた。主人の持ち物とわずかなお金とが許された。残りの財産は全て台湾に残された。・・・・・

「・・・日本人が日本に戻った時、もともと日本人が住んでいた家は空家のままで残されていた。空家の移動できる物は全てどこかに持ち運び出されていた。桶、水洗便器、水道メーター、窓やドアなどの金物、その他売り捌くことのできる物は全て、例えば床板、天井版・・・・・」

終戦直後の状況をこの本は描いていますので、詳しいことをお知りになりたければ読んでみて下さい。

○ 二番目の質問ですが、彼等が住んでいた日式住宅の住まい方についてお聞きします。特に、台湾という日本とくらべても高温多湿という気候の中に、日式住宅は 置かれたわけですが、はたしてそんな状況の中で日式住宅は耐えることができたのでしょうか。董事長さんの修理修繕の経験の中からお話いただけますか?

●基本的に、残された日式住宅は新政府の公務員、教員などの宿舎として使われました。

●台湾は日本とくらべて気温も高く、雨も多いわけです。しかし、台湾の高温多湿の中で、日式の住宅は台湾の気候風土に相応しい、木造で高床式て風通しがいい作り方ですから、亜熱帯の台湾にも相応しかったと思います。

日式住宅は台湾や東南アジア、それに中国南部の原住民の家と似ています。高床、大きな開口、木造、通風の良さは日式住宅と一致しています。

○では日式住宅の修繕の時に最も修理が必要だったところはどこでしたか?

●当然のように生活の仕方が違うわけです。一番改善したところは便所、厨房、浴室など水場です。なぜなら生活習慣が違うからです。

○ということは、改装によって中国人の生活様式にあった形に直したのでしょうか

●基本的には使い方が間違っていたのだと思います。

例えていえば、ほとんどの畳は板の間にかえられました。なおかつ木でできた部分、壁とか柱にはペンキが塗られました。もともとの日本住宅の使い方のフィロソフィーに反した改装がなされました。障子や襖は、通気性のある材料からない物へ、板戸とかえられています。

というわけで二つの問題がおこってきました。日式住宅を使用するには日本の本来の注意深い使い方が失われ、その結果、人の生活も不健康に、建物そのものも また不健康になってしまいました。使い方を間違ったことによって失われたことは本当に勿体無いことです。なぜそうしたのか、その理由は治安問題にあったの ではないかと思います。開放性は中国社会では防犯の役に立ちません。

●もう一つは、日式の住宅のほとんどが宿舎として使われていたわけですが、住み手が自ら建物の修理修繕をすることはなかったことです。その結果、建物の痛みが進んでしまいました。

○では畳、障子、襖がなくなったということは、台湾の気候にあわなかったということですか?台湾の生活に不健康だったということですか?

●畳、障子、襖は台湾では高価なのですよ。日式住宅を維持管理するにはお金がかかるんですよ、伝統式中国民家に比べて。

○わかりました。話をかえて、台湾の日式住宅はもともと誰が作ったのでしょうか。日本から大工を連れてきた作ったのか、もともと台湾に日式住宅の職人がいたのか

●その質問はなかなか興味深い物があります。

台湾にはとても優れた職人がいました。ほとんどの日式住宅はこれらの職人によって建てられた物でしょう。彼等は日本人によって教育され、よく訓練されてい ました。いまでも何人かの方を存じ上げておりますが、お年は80歳を過ぎているはずです。当時台湾の建設会社は多くあり、彼等優れた技能工もたくさんおり ました。

御存じですか?終戦直後の台湾の建設技術の水準は、アジアの中で最も高かったと思われます。品質官吏、技術、管理面でも日本本土なみの水準だったと思います。

○それらの職人達は日本人監督技術者によって教育され、技術が受け継がれてきたと思ってよろしいでしょうか。

●そういってもかまわないと思います。

なおかつ監督の多くは台湾の工業学校など優れた専門学校で学び、卒業した人たちが行っていました

○ということは、職人達は日式住宅の良いところ悪いところを十分理解できていたわけですね。

●そうです。非常に理解できていました。彼等の仕事に接する態度は、日本の職人と同じといっていいでしょう。私が初めて京都や奈良を訪れた時に見た建物でそれを感じました。

ひょっとしたら日本の技術より優れた能力を持った人もいたと思います。その理由は台湾の木材資源、特に檜が有名ですが、それらの資源を活用する必要があったからだと思います。

○私が20年前、初めて台湾にきた時、台北市内でたくさんの日式住宅を見ました。ところがその多くが人が住んでいなかったり、崩れそうになっていたのを見ました。

もし、それだけの技術を持った人たちがいたのに、なぜ朽ち果てようとしていたのでしょうか

●この問題の答えはこう言えると思います。

●第一の問題は、技能工がいても終戦後の台湾の生活は非常に貧しく、建物を修理する余裕はありませんでした。

第二の問題は、公務員等の宿舎が多かったこと、私人と違って国が修繕費などを出す余裕はやはりなかったのです。

なおかつ、貧困の時代を終えて経済が急速に成長した時、土地利用が問題となりました。日式住宅はとても住みやすかったのですが、土地を有効利用しているとはみなされませんでした。

○台湾の東部を訪れた時にも多くの日式住宅を見てきましたが、同じことが言えるでしょうか。

●そう言えます。

○ではもう一度花蓮の日式住宅についてお伺いします。

○花蓮の日式住宅の意義はなんでしょうか。

●やはり日本の教育、日本の文化と生活様式を保ってきている。また別の家に住む理由もないのでそのまま残している。

あの土地は花蓮の市内にあって、土地はほぼ300坪でしょう。建物に200坪使っていますが、今の台湾の都市計画の基準から算定すれば、だいたい2000坪の建物がたてられるはずです。そんななかで昔からの生活をしていることは経済的な負担も大きいはずです。

○ということは日式住宅というのは維持管理に手間ひまかかる、といういことはお金がかかる、合理的に土地利用を活用するには向いていないといえますね

●土地利用が十分でないことはその通りですが、建物の維持管理が大変だということとはまた別の問題です。実際、私の考えでは、この建物を維持管理することも生活の一部だと思っていることです。

○それではもう一つ伺いますが、伝統的中国の住居は日式住宅にくらべて維持管理が易しいということでしょうか。

● 私の見解では、日式住宅と中国伝統式住宅とを比較するのは難しいと思います。中国の伝統的建物、漢民族の建物でも金持ちが住んでいるような建物は維持費や 管理に要する手間は、日本の住宅よりもはるかに大変でしょう。しかし、一般の人間の住まいは、それほど手間ひまのかかることはないと思います。

○少しいじわるな質問をさせていただきます

先ほど来のお話で、日式住宅が台湾の気候風土に向いているといわれておりますが、それでもなおかつ台湾の方々が中国伝統形式の住宅に住まわれているのはなぜでしょうか。

●中国伝統形式の住宅というのは台湾に少ないのです。せいぜい宗教建築の廟とか田舎に見受けられる農家が伝統形式の建物にいえるかも知れません。

農村にそれらの建物が残ったのには二つの理由があります。

一つは田舎の土地が安い、それゆえに贅沢な建物を作ることができる。

もう一つは、農民は他の文化への影響が多くありません。そのために伝統形式の建物を使っている。だから今でも残され、使われているのです。私の目から見ると、中国伝統形式の住宅は、台湾に残された日式住宅よりとても少ないかも知れない。

○昨日お会いした時、面白いお話をしていただきました。台湾という国は、いろいろな国外の文化の影響を受けてきている。そういうことは建築の面や生活の面で台湾の人の考え方に大きく影響しているでしょうか。

●そのとおりです。台湾は他の国の文化、政治に大きく影響されてきました。生活習慣もそうです。ですから当然建築の面にもあらわれています。いろいろな建築形式への対応性もあります。

●その結果建築においても生活文化の面においても台湾独自のものがありません。そのことがいいことだったのか悪いことだったのかは分りません。

○それではこれからの台湾の建築の方向を探すことは難しいでしょうか。

●とても難しい、この提案はとても大きな問題だと思います。これは教育、政治、いろいろな問題に関わっています。短い時間でお話できることではありません。

○それでは最後の質問をさせていただきます。

私は花蓮にある森坂という村を時々訪れます。私にとって、森坂は小さい頃の夏の風景を思い出させてくれる場所です。日本の昔の建物があって、夏草が生い 茂っていて、蝉の声が聞こえて、簾があって西瓜が御盆に乗ってでてくれた生活を思い出させてくれる場所です。董事長にとって、そのような思い出の場所はあ るでしょうか、またあった場合にはそれはどのような光景だったでしょうか。

●思い出させる場所はたくさんありますが、今ではほとんど見当たりません。特に小さい時には日式の官舎に住んでいました。それは高度3000メートル付近の場所にありました。そんな高いところにも建物が立っていたことに今でも驚かされます。

● 森坂のほかにも日式住宅が建てられた場所が花蓮の豊田という移民村があります。それ以外にも、一単位300坪をもった移民村が計画されました。その背景に は、日本が台湾の東部に移民する計画があって、製糖会社、アルミ会社、水力発電所、鉄道、台湾の一番美味しい米などが花蓮周辺につくられ、多くの業務に日 本人が携わったわけで、かなり移民計画がすすめられたとえばトヨタなどがその例です。特にお米は美味しかったようで、天皇にも奉納されたそうです。

○ただ、森坂は時間を経るごとにその姿を失いつつあります。私にとっては故郷を失うような気持ちでいます。残念でなりません。

○今日はお忙しいところを時間を裂いていただき有り難うございました。

●どういたしまして、何か不十分なところはありませんでしたか。

○いえ満足しております。

Monday, August 2, 2004

Green Card

ア メリカ合衆国永住許可証ーGreenCard、この言葉を好意的に聴いたことはない。台湾で知り合った二人の女性が、この許可証を得るため、実に惨めな体 験をしてきたことを聞いているからだ。なぜそれほどまでにしてアメリカ合衆国に永住したかったのか、私はいまだに理解できないでいる・・・