Friday, July 30, 2004

「不確定な風景-香港一九八七」 十年後記


香 港が中国に返還されてすでに七年、テレビで見る香港の人間はみな標準語を話すようになっていた。体制が変われば言語も変わるのか。きっとそうなのだろう。 台湾も同様、日本の敗戦とともに台湾人は大人も子供も標準語を学習してきている。しかし言語は文化であり、同一性を主張するものである。第四回は、不確定 性にさらされる香港を、返還十年前に訪れ考えたものである。
[写真]1987年6月31日の香港/英領香港も借りた時間はあと10年 photo(C)Eiji KITADA

一九九七年、私は香港を訪れなかった。その一年前、香港で何かが起こるかもしれないことを期待して宿の確保を手配しようとした。当日の7月1日前後は、信 じられないような宿泊料が香港から伝えられ、日本の旅行会社はそれでも多くの客を信じて疑わなかった。返還の日が近づくにつれ、当地からの情報は魅力的な ものではなかった。

当日、香港は予想以上に統制された行動で始終した。中国の思惑通りに進んだ返還行事といえるだろう。キャンセルを受けた多くの宿はダンピングで客を誘い、それでもどこもが満室になることはなかったという。

先日「甜密密」(日本題「ラブソング」)という香港映画を見た。はやりのラブソングを口ずさむ男と女の十年にわたる恋愛映画である。男は天津から、女は広 州から働きにやってきた。男も女も大陸の人間である。香港映画が時代劇を除いて大陸の人間の話を中心に据えた映画を今まで見たことがない。

映画の中で香港の風景は今までと変わることはなかった。いや、むしろ今まで以上に商業主義のにおいを強烈に振りまいていた。テレサ・テンの歌を歌い、標準 語を話す香港の人間は大陸からやってきたものだ、商売で成功するには広東語(香港で一般の人が話す言葉)と英語(英領香港の公用語)が話せなければならな いと女はいう。変わったのはその中の人間だったのか。

Thursday, July 29, 2004

一枚の写真

さまざまな規範を提供いただいている秋山東一大兄のblog aki's STOCKTAKING に、懐かしい一枚の写真が載せられた。二十年前に始まった「東アジア世紀末研究会」という、ただただ東アジアを旅しよう、という集まり。目に映るものすべてが薄暗かった上海、そのなかで旅の最後の夜にバンド、同行した写真家北田英治が押したシャッター・・・

aki's STOCKTAKINGに寄せたコメントは・・・
「初めての台湾の旅からまるまる二十年たつわけですか
この一枚の写真からもいろいろな出来事が思い浮かんできます。空港からホテルに着いたら約三名いなくなっていたとか・・・食い物のことで丸テーブルを囲んで喧嘩が始まったとか・・・判子やのお嬢さんと日中交流があったとか・・・

旅のきっかけをつくってくれたのが私をいつも厳しく叱咤してくれていた秋山大兄、独立して仕事を始めたもののすることなくうだうだしていた私を激励の結果が台湾旅行でした
東アジア世紀末研究会、記念すべき一枚の写真ですね」

Tuesday, July 27, 2004

SnapOn - Architectural Soft Platform

中国の総量規制的な動きは私の周りにも影響が出てきたかもしれません。2000年、南太平洋の小さな島のリゾートホテルを計画した際、台湾のコンサルタント 会社と共同で開発した「SnapOn - Architectural Soft Platform」方式、その後上海のプロジェクトで花開こうとしていますが、中国サイドの動きが遅くなってきています。イケイケドンドンがなくなるのは 判断にかける時間が増えていいのですが・・・

Monday, July 26, 2004

「愛情」と「お金」は一対

写 真の装身具のようなこの一品、テーブルナプキンを丸めて止めていたもの。上のほうがリングになっていてそこでナプキンをおさえます。房は、中央に石、それ をハート型にかたどられた紐で細工されています。ハートは「愛情」を石は「發財」を。愛と経済に恵まれますようにとの願いが込められています。
この一品、昨年蘇州に滞在したとき、美味しい蘇州そばをご馳走になったレストランで(勝手に)頂いてきました・・・

蘇 州名産の料理も一通り食べつくしたのでと、ある夜の会食はさっぱりした温麺。「美味しい!」というと招待してくれたおばさん(失礼おじょうさん)「日本人 の方はみなこのそばを気に入りますね」。テーブルナプキンを止めていた装身具を興味深げにいじっていると、「石は金(jin1)、周りのハートは愛 (ai4)情を意味しています」。すかさず私「愛銭(ai4qian2)ですか・・・」。彼女大笑い。

愛情があっても経済的に恵まれていなければそれも危ういものに、経済的に豊かであっても愛がなければ人生無意味、本来の意味合いはそんなところに込められているんでしょうが、今の中国、そうは見えません。お金あっての人生、金さえあればすべてが成就される。そこで、
「愛+金」を「愛金」お金を愛する、と私が言い換えました。拝金主義横行にご注意を。

Saturday, July 24, 2004

たまには合衆国のドタバタを覗いてみよう

合衆国はバランスの取れた国だと思う。ああいうとこういう意見が必ず出てくる。その両方をまたネタにする。JibJabはその冴えたるものか。
季節ものなので、リンクが切れていたらごめんなさい。

Thursday, July 22, 2004

オーストラリアは地球のヘソか?

四十年来の友人から送られてきた絵葉書。高温多湿の日本の夏を嫌ってか、毎年真冬のオーストラリアで避暑。南北逆転で見れば、オーストラリアは扇の要に位置している。もっと注意してみると、中国はど真ん中にある。ここしばらく拝金主義者は中国を目指すのが正しい選択。

Tuesday, July 20, 2004

解放を祝ってアロヨ大統領が携帯電話を

20日、イラクで人質になっていたフィリピン人トラック運転手が解放された。フィリピン軍が撤退を完了したのを受けての出来事。テレビカメラの前で、アロヨ大統領はバクダッドのフィリピン大使館に保護されていた彼に携帯電話を使って話しかけていた・・・

こ の携帯、NOKIA9210i、PDAと一体になっています。PCを持ち歩かなくても使えると、高価ながらそれを使いこなす必要な人たちが愛用しているそ うです。他の記憶でも、かつて中田英寿が所属していたペルージャのガウチ社長(名物親父の息子)の手に四六時中収まっていたこともありました。

Friday, July 16, 2004

「多言語な風景」十年後記


初 めて訪れた東アジアが台湾、二十年以上前のこと。しばらくはひとつの国の中で数種類の言語がごく当たり前に使われていたことなど思いもよりませんでした。 ある程度中国語を使えるようになって、台湾の方に「アナタハワタシノイッテイルコトワカッテイマスカ?」といわれたのですが、当の本人は台湾語と標準語を 無意識にチャンポンで話されているのですから困ってしまいます・・・

第三回はそんな風景が見受けられた映画「悲情城市」から考えて見ます
[写真] 騎楼と呼ばれる連続店舗のアーケード/台北 photo:(C)Eiji KITADA

「悲情城市」のなかの上海人は映画の中では評判が悪かった。組織暴力団と地回りのやくざでは、勝ち目は最初から判っている。後ろ盾に軍がついている組織暴力ではどうしようもない。「悲情城市」公開までは、表だって228事件について語られることはなかった。

それ以降、台湾では台湾独立という話が現実味を帯びることになる。現総統選出の背景には、「悲情城市」があったのかもしれない。長年、中国大陸も台湾も 「一つの中国」を標榜してきて、今回の総統選で破れた国民党が掲げてきた「一つの中国」を、中国大陸が逆手に取って現総統を攻撃したのは皮肉なことだ。

台湾には、鄭成功以降に大陸から渡ってきた福建人(いわゆる台湾人)、遅れて渡ってきた客家人、そして日本の敗戦以降中国大陸各地方から外省人が入ってき た。元々の台湾人(高砂族、山地人などと呼ばれてきた)を含め、多くの言語が入り交じって使われてきた。必要に迫られ、彼らは他の言語を理解しなければな らなかった。今でこそ、義務教育の充実で標準語が普及しているが、ほんの一昔前までは、いたるところで「多言語な風景」にお目にかかったものだ。

Wednesday, July 14, 2004

「覇王別姫」とレスリー・チャン

昨 夜、「覇王別姫」(93年)がTVで放映されました。京劇の役者の一生を描いたもの。主演者三人のうちの一人・女形役が張國榮、別称レスリー・チャン。私 には「英雄本色」(男たちの挽歌)でキリキリする演技が記憶にありますが、昨年の4月1日投身自殺、原因は男友達と問題があったとか無かったとか。しかし 映画「覇王別姫」はいい、女形役が自身を表現しているのか凄みがあった。
彼が自殺を図ったとき、私は蘇州のホテルでそのニュースを聞いていました・・・

昨年2月末に続いて4月はじめに再度中国・蘇州を訪れました。蘇州での話題は、新聞でもホテルの食堂で流されるテレビ画面でもトップニュースはイラクの戦い。しかし、私の周りでの話題はまずSARS、新型ウィルス性肺炎。なにしろこの発祥は中国ですから。

日を変えて会うごとに、今日はどこどこで何人発症、何人死んだ、空港が怖い、日本を出るときはどうだった・・・。話題はつきません。何しろ中国はイラク戦 争に反対していますから、遠い話題です。彼らが本当に切実なことは自分のこと。死んではお金が儲からない、儲けたお金も死んでしまう。

もう一つ話題はなんと言ってもレスリー・チャンの自殺。ホテルの食堂のテレビが彼の報道を始めると、若い女性従業員がテレビの前に一斉に集まってきて耳を 立て目を釘付けにしています。原因はなにか、男友達がレスリーをコケにした、男友達の名前は唐先生で、彼との出会いはあれこれだったとか、ホテルから飛び 降りた姿に通行人は彼がレスリーとは思えなかったとか・・・しかし話題がイラクの戦いに移るとさーっとお金儲けへ戻っていきました。当たり前ですがニュー スの関心は個人的でした。

Tuesday, July 13, 2004

[東アジアは「停看聴」]の由来

[東 アジアは停看聴] この由来は台湾にあります。鉄道を横切るとき、踏切で見受けるのが「停看聴」の看板。日本では「止まれ!見よ!」と教わりました。車の 運転教本には、これに「聴け!」が入っています。台湾では「止まれ!見よ!聴け!」。写真は台湾東部、花蓮市から南の鉄道駅萬榮とそこから森坂営林署に向 かう踏切。この踏切を渡った左に見えるのが豚足で有名なお店。週末の昼前後は客で満員に・・・

東アジアっ てどこ?で始まった台湾の旅、1984年のことです。以来仲間たちと東アジア各地を訪れてきました。東アジアは「漢字」と「儒教」の土地。その国々の大き な歴史の中で、一度は触れた「漢字」と「儒教」。旅はそんなところへと向かいました。訪れた国々は、中国・韓国・北朝鮮・台湾・香港そしてベトナム。ベト ナムも朝鮮半島も、かつては漢字を使っていたのです。

その旅の面白さははまさに「停・看・聴」。何か感じたら足を止め、のぞき、話を聞く。必ず得るものがあるはずです。そこで面白さを体験したらもう旅は「停看聴」。行く先々、田舎を、街を、人々を理解することができるようになるでしょう。

Monday, July 12, 2004

ついに八角亭まで取り壊されて・・・

亜細亜とキネマと旅烏」 のgangさんが先日「悲情城市」ロケ地のひとつ、金瓜石を訪れたそうです。そこにはすでに八角亭と呼ばれた建物は無くなっていたとのこと。口のきけない 文清が住んでいた場所として、文清の女友達の兄が光復以降の政治状況を話し合うためここに入る際に使われていた八角形の建物です。残念! 

写真は雑誌 at1990/10月号、残された日本家屋をめぐる旅「三つの村」から。撮影は北田英治氏。写っている住宅は日本占領時代、この金鉱を仕切っていた浅井組組長の家。この家も取材の翌年には取り壊されたと、当時同行してくれた方が教えてくれた。

Sunday, July 11, 2004

竹の家-台湾中部南投県愛郷村竹構造住宅のインテリア

竹構造の住宅があるというので出かけたものの、なかなか探し出せないでいた。人に聞いてみようというので、一軒の茶館に寄った。中年の男性が4人、茶釜を囲んで雑談に花を咲かせている。(2000/07/23記)・・・

「すみません、このあたりに竹でできた家はありませんか?」
同行の陳さんが声をかける。
「あー?しんねーなー。おう、おまえ知ってるか?」
「しんねーなー。昔はこのあたりみんなそうだったけどな」
私も加わってしつこく聞いてみるが答えは
「しんねー」
と、一人が
「知ってるよ」
「えっつ、どこにありますか?」

連れてっていただいたのが彼の家。
親父さんが竹構造の棟梁だというので、昼寝の最中だったが起きていただき話を聞かせていただく。 簡単な話の後、後日時間をとって訪問することを約束して別れた。

それから3ヶ月後、あらかじめ訪れる日にちを決め、テープレコーダーを手に出かけていった。その際の話はこちらをご覧になってほしい。

竹大工の棟梁」 http://blog.livedoor.jp/stocktakeasia/archives/4197476.html

原文は取材に協力してくれた陳さんが中国語でまとめたものです。時間がとれたら日本語に書き直すつもりでいます。

インタビューの後、簡単質素でしたが、とてもおいしい昼食をご馳走になった。 棟梁は昼寝の時間、その間私は向かいの理髪店で髪を短くした。150元、日本円で約500円でした。

棟梁は車が好きだそうで、陳さん運転の後部座席に座って棟梁が扱った竹の家を見に行く。隣村に程度のいいのがあるからと出かけたが、昨年の震災で山間の路 には一個が子供の背丈ほどの岩がごろごろと道をふさいでいた。仕方なく方向を変えて向かったのが、近隣の愛郷村の民家である。

竹の民家は東南アジアなどで見受ける建替え可能な建て方とは異なり、堅牢で耐用年限が長い造りになっていた。それに室内は美しかった。

[写真-1]震災にびくともしなかった屋根架梗
[写真-2]柱のピッチは木柱より細かい
[写真-3]開口部は二本貫が細かく入っている 耐震構
[写真-4]見事な屋根の組み物 白い部分は屋根のスレート瓦
(写真をクリックすると大きくなります)

竹大工の棟梁

台湾・鹿谷竹造民家大工の棟梁インタビュー(2000年7月12日)

台湾の伝統的大工さんに話を聞こうと調べていたところ、台中にある東海大学の先生が、竹構造の住宅・竹の家があると教えてくれました。竹でできた住宅?期 待もせずに出かけていったそこで棟梁にお会いでき、お話を聞かせていただき、なおかつ棟梁が建てた住宅までご案内いただきました。

お話を聞くのに手間がかかりました。まず、棟梁は標準語が苦手。台湾語、それもかなり訛が強いそうです。私は台湾語はわかりません。取材協力してくれた陳 さんの台湾語は現代の若者のそれ、棟梁のお話しを十分理解できません。そこで棟梁の息子さんが間に入って通訳します。中国社会では結構こんな場面がありま すね。八十三歳という高齢もあって、奥様が記憶の一部を補ってくれました。・・・ 

(本文は繁体字の中国語で書かれています。文字化けする場合は、中国語 のフォントセットをOSに組み入れてください。)

訪談鹿谷村張錦瑞竹構造師傅 [This text is written by chinese Big5]

時間: 2000/07/12(星期三)
地點: 鹿谷村竹構造師傅家
人員: 張錦瑞-竹構造師傅(A)
張朝服-竹構造師傅兒子(B)
竹構造師傅太太(C)
大行征/ 陳瑾儀(Q)

Q:師傅小時候住的房子是什麼樣的房子?
A:小時候就是住竹仔?(竹構造的房子),附近也都是竹仔厝,不過現在大部分都已經淘汰掉了。
Q:師傅做竹仔厝的技術是從哪兒學的?
A:是向岳父學的。
B:就是我外公。
Q:師傅大概做過多少竹仔厝?
A:那數不清了,太多太多了。
B:以前從台北三峽到台南玉井、高雄六龜,到處都有做過。
Q:喜歡住竹仔厝嗎?
A:喜歡?!住起來很舒服,夏天涼爽,冬天溫暖,地震來也不會倒。
C:竹仔?地震來的時候都不會倒,頂多是牆面的批土掉落,但房子本身是不會倒的,因為竹子都串連在一起。
Q:一般竹仔厝施工時間大概多久?
A:不一定,看人手夠不夠,還有看要做多大的房子,如果做三個房間的,一個人最快三天半就可以做完,不過那是年輕的時候。一般大概十幾天。
Q:材料是師傅準備嗎?
B:師傅開料,要蓋房子的主人會準備,師傅負責施工。
Q:怎麼開料?
A:那要計算,看是要多大的房子、幾個房間、深度多少,我不會講,不過如果?要我現在也可以寫給?。
Q:現在還是記得?
A:當然記得。
Q:要不要用尺?尺度上要不要考量風水的因素?
A:都會用尺,不過風水是房子主人自己要考量地理方位等的風水。每一個房子都有一支標注基本單位的竹子作為尺度的基準。

A:我畫圖給你們看(師傅畫竹構造草圖,在上面標注前後)
B:師傅都是自己畫圖,他不識字,都是用畫的,只會寫數字和自己的名字。
Q:每次都要畫嗎?
A:每次都要畫。
Q:師傅的徒弟現在還有人在做嗎?
B:還有一些在做,不過現在已經很少人做了。
Q:側面一定都是七根柱子嗎?
A:有七柱間、九柱間、十一柱間,最小是七個柱間,一般九柱間最為普遍。
Q:有沒有哪根柱子要最大?
A:沒有,都差不多大。一般房子深度大約一丈三尺(3.3M),如果要再深一點就要再加柱子。柱子大小都一樣,不過前後(角柱)要挑直一點的竹子。
Q:下面橫的這條線是代表竹子嗎?(見圖面)
B:那是地梁,就是地基,鋪石頭也可以,石灰也可以。
Q:垂直的竹柱之間如何固定?
A:打洞再用竹子穿過串連
Q:需要綁住或黏著嗎?
A:不需要,只要打洞穿過去就會固定了
Q:長度上沒問題嗎?
A:沒問題,一邊從前面穿到後面,一邊從後面穿到前面
B:這張圖只是畫大壁(側面牆壁)而已。
A:屋頂的坡度如果普通用大的瓦(如水泥瓦)是五分水,如果是小片的瓦(大約手掌大)是三分水。
Q:牆面部分是由誰施做?
A:可以給別人做,我自己也可以施做。
B:牆面的材料是泥土、稻殼加水混合,放置幾天讓它有較好的黏度就可以使用。現在有的用沙子,石灰也可以,後來也有加水泥的。我知 道是因為我以前我跟爸爸一起去做了一年多的時間。

Q:大約幾歲的時候?
B:當兵之前,大概十九歲吧!
Q:師傅最後一次施工是什麼時候?
B:我爸爸大概七十五、七十六歲都還在做,差不多是十年前。
A:沒有吧?大概是七十歲左右
B:七十五、六歲啦!你幫阿土做的那一棟才十餘年。
A:那時候做完回家走路都搖搖晃晃,走不穩了。
Q:很累吧!
A:那時候我動了一個大手術,結果手術錯誤,還以為要死了,結果沒死,後來就很少做了
Q:什麼原因動手術呢?
A:剖錯了
Q:剖錯了?
B:其實是膽結石,但是剖錯了,昏迷了好幾天
Q:當時的工資如何?
A:一開始大概一天十幾塊?!
B:我外公做的時候大概一天150元
Q:多久之前?
B:那時候師傅才十多歲吧。現在大概2500~3000元。
Q:以前那時候一天150元很多嗎?
B:那時候錢很大,一斗米才四角。一般我們的工資都是以米價為標準做比較。
150元/天時候米是一斗四角,後來米一斗42元的時候工資大概400~500元/天。
Q:那反而一開始的工資比較高。
B:以前剛開始的時候很少人會做竹仔?。
A:我68歲的時候是800元/天,包括牆壁施做。
Q:牆壁施做也是一樣的價錢嗎?
A:都一樣。
B:工資是這幾年才突然增加的,增加最快的時候大概是五年前,那時候有到3000元/天的價錢。不過那時候我爸爸已經沒有在做了。我有拿過3000元/天的工資,當模板工、粉刷工、砌磚工等。
Q:那就已經不是做竹構造了?
B:可是工資是一樣的,師傅差不多都是一樣的價錢。
Q:和木匠的工資也一樣嗎?
A:都一樣,師傅的工資都是一樣的。粉牆、鋪地板也是一樣的價錢。
B:反正當師傅就是一樣的價錢,還有包括吃住。
A:那?們日本現在蓋房子的工資多少?
Q:目前一天大概六千多,日本人工較貴。
Q:為什麼後來沒有再做竹仔厝了?
A:後來都是磚造或水泥的房子,沒有人要做竹仔厝。
Q:做竹仔厝用什麼工具?

(師傅拿出一大堆工具,放樣線、斧頭、鋸子、鐵鎚、鑿子等,也有木作的工具,因為竹仔厝常和木頭混用,詳見照片)
Q:工具是自己做的嗎?
A:都是買的,五金行有。
B:斧頭和鋸子是必要的工具,以前這些工具都保養得很好,亮晶晶的,現在太久沒用都已經生鏽了。
Q:最後的問題,師傅作竹仔厝的過程是否有什麼特別難忘的事?
A:沒有啊,就是這樣一直做
Q:那在學習過程中呢?
A:學習的過程非常辛苦,一直到成為師傅,自己會做之後就熟練了
Q:有沒有什麼有趣的事?
B:有趣的事很少啦,就是這樣做,反正就是要工作才行
A:工作都做到天黑,天黑就休息了
Q:沒有覺得特別好玩或喜歡的事嗎?
A:工作都很緊湊,時間也很長,以前早上七點多就開始做了,做到天黑都看不到回家的路了。後來大概八點才開始,也比較早收工,下午差不多四、五點就結束了。工作是很辛苦的事,就這樣一天過一天,生活賺錢就是如此,不可以懶惰,也不可以說做一做今天不想做就不做了。
Q:工作一段時間不會想要休息或去哪兒玩玩嗎?
A:從來沒有。繼續一直做,不然就休息。
B:有時候同時要做四、五個地方,在一個地方立起牆壁之後就馬上趕到另外一個地方去,以前都是要看好日子和時間立牆壁。
A:可是這樣不好,有時只立好牆壁就去做別家,單面牆壁可能會倒,可是有時候五、六個地方都同時找,就只好這樣。
Q:立牆壁有一定要先立哪一面嗎?
A:就是側面的牆壁一定先立,左邊右邊不一定,一般比較靠山邊的先立。
Q:要和師傅學多久才可以當師傅?
A:三年四個月。
B:三年四個月學成之後,師傅就會給你一套工具。這期間沒有薪水,只有給你一些零用錢,你賺的工資要給師傅。師傅給你吃、穿、住。以前我爸爸的徒弟們也都和我們一起住,有時候養雞、養豬也要幫忙,就是和師傅生活在一起,跟師傅學習技藝。
Q:一定要四年三個月嗎?
A:也有的沒有學完就放棄了,時間沒到就走了,那就沒有工具送他。
Q:有什麼證明書之類的東西嗎?
B:沒有,不用證明啦!就是看自己的技術技巧。還有以前最後完成要上樑的時候,要拜拜寫符咒,師傅也會傳授給你,如果你沒學完那些東西就不會傳授給你。咒文是最後才傳給?的。
Q:師傅您做了這麼久也賺了不少錢?!
A:錢都花掉了
Q:你又沒有出去玩怎麼會花掉?
A:就是日常生活、養小孩,食、衣、住、行都花掉了。
B:還有兩次手術錢都花掉了

Thursday, July 8, 2004

携帯電話で中国語入力

こ の二年間、台湾と中国大陸を何度か行き来しましたが、携帯電話でメールを送っている姿はほとんど見たことがありません。日本で、私が東京に出るために使っ ている総武快速電車の車内、携帯電話の画面と取り組んでいる数は毎回十人前後にのぼります。台湾・中国の人間は、より実利的なのか音声対応で結果を求める のか・・・

上海在住の 台湾人事業家に連れられて、立派な飲み屋さんに連れて行ってもらったときのことです。お客さんの相手をしてくれるお嬢さんたち、みな携帯を握り締めて席に 着きます。この携帯、音声用には使っていません。おそらく店で許していないのでしょう、メールのやり取りだけのようです。宴たけなわになり、お酒がかなり 進んだころからメールが盛んになってきました。

同席のお嬢さんに
「何してんの?」
差し出す携帯を覗き込みます
「○○、キョウノヨテイケッテイ!△△ハマダ?」
ふっと顔を上げると、遠い席のお嬢さんがこっちを見ながら軽く微笑んでいました
同席のお嬢さん、早速返信しています
画面には中国語が軽快に打ち出されていきます
「早いね!簡単なの?」
「うん」
「それであなたは今晩の予定決まったの?」
「駄目みたい」
駄目といわれている相手は私です・・・対不起

私たち個室の客は七人、お嬢さんもほぼ同数、同じ部屋の中で彼女たちの携帯メールは活かされていました。

その後、機会があって中文版携帯電話を入手することができました。
マニュアルを読み、中文入力を試して見ます。確かに簡単でした。漢字の書き順さえ間違えなければ、ボタンを押す傍らから対応する文字が表示されていきまし た。もちろん他にピンインというアルファベットで発音を入力するクラシックな(マニュアルにはそう書かれていました)方法もありますが、携帯のボタンです るには時間がかかってしまいます。新しい方法は漢字が解かればそれでできるのですから、日本人も扱いやすでしょう。

写真の左側に写っている[1]から[5]のボタン、数字とアルファベットの間の記号、これですべてです。
(写真をクリックすると大きくなります)

[1]は[一]
[2]は[?]
[3]は[ノ]
[4]は[ヽ]
[5]は[?]

想像できますよね、筆で書かれた文字の一部です。入力したい文字の筆順を5つのボタンを組み合わせて押すだけです。

例えば
「日」は [2]+[5]+[1]+[1] つまり[?]+[?]+[一]+[一] となります。
実際は数回入力していると、[2]と打つだけで画面下のリストに「日」が現れます。
最初は戸惑う文字もありますが、慣れればどうということはありません。適当に省略しても出てきます。それに日常頻繁に使う文字がすでに学習辞書に登録されているのですぐに選択することができます。
機会がありましたら試してみてください。中国語がわからなくても知的ゲームが楽しめます。


[追加:July/9/04] 日本の携帯ではできないの?というご質問がありましたので調べてみました。ピンイン入力で、フォントと辞書と変換エンジンはサーバー上にあって、パケットサービスでの提供というのがありました。ごさんこうまで・・・

[日本の携帯電話で中国語入力]

・javaアプリ
http://www.hellonavi.com/txtadvjp/01/index.html

・AUユーザーに朗報!CHINA通が、6月3日からAUのオフィシャルサイトに登場!簡単にPINYINの中国語入力ツール「PINYIN遊」もダウンロード可能!
・ (2002年12月18日に公式サイトをリリース。2004年7月中に「旅め?る」の連携版をリリースする予定)
『Vodafone live!』→『English』→『Lifestyle & Info』→『CHINA通』→『PINYIN遊』
http://china-tsu.jp/index.html

戻ってきた役立たず-Bluetooth Headset

Bluetoothという無線接続方式がじわじわと普及し始めています。友人の秋山と電話で話をしていた際、それとなく背中を押してみたところ秋山Bluetooth内臓の携帯電話・auA5504Tを購入してしまいました。
さらに一押し、両手を空けて携帯が使えるBluetooth Headsetがなくては・・・と、手元にあるSonyElicssonのヘッドセットHBH-35を宅配したのですが、一日であえなく出戻りです・・・

私のNOKIAとは何の問題も無くペアリングできているんですけど・・・

[aki's STOCKTAKING] http://landship.sub.jp/stocktaking/

Tuesday, July 6, 2004

「亜細亜とキネマと旅烏」

・・・ 東アジアの在庫品調査を再開するために、関連記事がどの程度あるかをWeb検索していたときのことです。90年代後半から精力的に東アジアと映画と旅日記 を更新されているWebを拝見しました。その名も「亜細亜とキネマと旅烏」、ほぼお一人で(と思われます・・・)時間とお金に余裕ができると(と思われま す・・・)東アジアに飛び出しておいでになっています。早速メールを差し上げ、ぜひLINKさせてくださいとお願いしたところ、快く承諾していただけまし た。で、21世紀の東アジア情報はgangさん主催の「亜細亜とキネマと旅烏」 http://www.asahi-net.or.jp/~ut5m- ok/
をご覧ください。20世紀情報は引き続き「東アジアは停看聴」で・・・

始 めて台湾を訪れたのが1976年だったと思います。嫌々足を踏み入れてすでに25年です。仕事とはいえ、なぜこんな田舎の国に来てしまったのだろうという のが偽らざる印象でした。それが今では友人も仕事も台湾とのかかわりのほうが強くなってしまいました。不思議ですね。どこかでその辺りのくだりをお話した と思いますが、それはやはり言葉を覚えたことと親密な友人ができたことでしょう。

1980年代は東アジアの国々が高度成長に走り始めた時代。古い体制と新しい感性がぶつかり始めたとき。その二つが衝突しながら変化する様の面白さを見つ めてきたのが「東アジア世紀末研究会」という、ただただ東アジアを旅する集まりでした。あの映画すげー面白い、でロケ地に出かけていったこともありまし た。三十八度線に近づきたいと闇雲に北へ向かって走ったこともありました。台湾東海岸に何かがあると、クラブのお嬢さんに同行していただき旧日本時代の村 を発見したときの驚きと感動などなど・・・。[stocktakeasia]では、今まで落ちこぼれていた話題を、東アジアの在庫品調査を続けていくつも りです。

Monday, July 5, 2004

「揚子江の南」十年後記


始めて上海を訪れたのが二十数年前、街中には暗闇があった。二十世紀前半に築かれた植民地建築群。そして十年、上海は変わろうとしていた。それでも旧市街はいぜんとして中国らしさを見せていた・・・写真は北田英治氏

第二回は中国、北と南の物の見方考え方の違いについて

北京の香山飯店の現在について詳しくは判らない。しかし、初めての訪問から3年もたたないうちに、建物は汚れ、庭は手入れが不十分、客層の顔つきも違っていた。なぜだかは知らない。市内から離れすぎているからなのか、南部が嫌いな北京人が近ずくのを嫌ったのか。

北京は空間も人間も何か大雑把でとげとげした印象しかない。政治の中心地となると、どこもそうだろうか。退屈をしのぐ場所も上海に比べれば圧倒的に少な い。夜中まで仕事が続いたある週末、同僚と二人天安門広場前の大通りで退屈しのぎを考えていた。人と自転車が行き交うだけの通り、同僚に提案する。「お い、抱き合って見せようぜ!」。この案は決して彼に受け入れられなかったが、今ならどうだろうか。

上海は北京に比べるとはるかにくだけた感がある。
魯迅の上海時代の住まいを取材した夜、友人とホテルの外にでると若者たちが近寄ってきた。「話をしたいんだけど・・・」 「飯にしたい」「あっちだ、こっちだ・・・」「安くて美味しいとこ」「OK!」で、連れてこられたのはバンドの入り口に建つかつてブロードウェイマンショ ンとよばれたホテル裏。こぢんまりとした普通の店、料理は上海家庭料理、しかし何かが違う。若者たちはにやにやしている。客は男ばかり、それも結構いい男 たちだ。オンナはわずかに掃除のばっちゃんだけ。そう、ここはホストが店の始めや終わりに食事をするための溜まり場だった。